徳川家の歴代将軍とその正室(御台所)

徳川家の歴代将軍とその正室の一覧
徳川将軍家の婚姻と政略について

徳川家の歴代将軍とその正室の一覧

『関ヶ原の戦いと徳川家康』の項目では、「東軍」の総大将となった徳川家康が天下分け目の決戦となった関ヶ原の戦い(1600)で、石田三成・毛利輝元が率いる「西軍」を打ち破り天下人になる過程を説明しました。日本国の政権を掌握する武家の棟梁となった徳川家康は、1603年3月21日に二条城で征夷大将軍の宣下を受けて、正式な朝廷からの将軍宣下を受けた3月27日に江戸幕府を開設しました。初代将軍となった徳川家康と2代将軍の徳川秀忠以降は、徳川宗家や御三家の代表者が征夷大将軍を襲名することになり、徳川将軍家は朝廷に大政奉還をした徳川慶喜まで15代約260年にわたって続きました。

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徳川将軍家の嫡男は名実共に『武家の棟梁』であり、征夷大将軍の官位と源氏長者の家督を襲名して、全国の大名(親藩・譜代大名・外様大名)を武家諸法度に基づく参勤交代で統制しました。皇室・公家に対しても禁中並公家諸法度を出して徳川将軍家への実質的な従属を求めましたが、徳川将軍の多くが宮家(親王家)や五摂家(摂政・関白になれる公家最高の家格)から正室を迎えているように、徳川将軍家は婚姻政策によって皇室・公家の伝統的権威を上手く利用して宥和していました。歴代の徳川将軍とその正室(御台所)を以下の一覧表で示しておきます。

歴代の徳川将軍とその正室について
将軍名将軍在位の期間将軍の正室(御台所)正室の父将軍の院号
初代・徳川家康(いえやす,1543-1616)慶長8年(1603年)2月12日 - 慶長10年(1605年)4月16日正室:築山殿(西光院),継室:朝日姫(南明院)正室の父:関口親永(今川義元の妹婿),継室の父:築阿弥(豊臣秀吉の義父)東照大権現・安国院
2代・徳川秀忠(ひでただ,1579-1632)慶長10年(1605年)4月16日 - 元和9年(1623年)7月27日お江与(崇源院)浅井長政(近江小谷城主)台徳院
3代・徳川家光(いえみつ,1604-1651)元和9年(1623年)7月27日 - 慶安4年(1651年)4月20日鷹司孝子(本理院)関白・鷹司信房大猷院
4代・徳川家綱(いえつな,1641-1680)慶安4年(1651年)8月18日 - 延宝8年(1680年)5月8日浅宮顕子(高厳院)伏見宮・貞清親王厳有院
5代・徳川綱吉(つなよし,1646-1709)延宝8年(1680年)8月23日 - 宝永6年(1709年)1月10日鷹司信子(浄光院)左大臣・鷹司教平常憲院
6代・徳川家宣(いえのぶ,1662-1712)宝永6年(1709年)5月1日 - 正徳2年(1712年)10月14日近衛煕子(天英院)関白太政大臣・近衛基煕文昭院
7代・徳川家継(いえつぐ,1709-1716)正徳3年(1713年)4月2日 - 享保元年(1716年)4月30日八十宮吉子(浄琳院)霊元天皇有章院
8代・徳川吉宗(よしむね,1684-1751)享保元年(1716年)8月13日 - 延享2年(1745年)9月25日真宮理子(寛徳院)伏見宮・貞致親王有徳院
9代・徳川家重(いえしげ,1712-1761)延享2年(1745年)11月2日 - 宝暦10年(1760年)5月13日比宮増子(証明院)伏見宮・邦永親王惇信院
10代・徳川家治(いえはる,1737-1786)宝暦10年(1760年)5月13日 - 天明6年(1786年)9月8日五十宮倫子(心観院)閑院宮・直仁親王浚明院
11代・徳川家斉(いえなり,1773-1841)天明7年(1787年)4月15日 - 天保8年(1837年)4月2日島津寔子(しまづただこ,広大院)島津重豪(しげひで)・家格向上のために近衛経煕(このえつねひろ)の養女となる文恭院
12代・徳川家慶(いえよし,1793-1853)天保8年(1837年)4月2日 - 嘉永6年(1853年)6月22日楽宮喬子(浄観院)有栖川宮・織仁親王慎徳院
13代・徳川家定(いえさだ,1824-1858)嘉永6年(1853年)11月23日 - 安政5年(1858年)7月6日正室:鷹司任子(天親院),継室:一条秀子(澄心院),継室:島津敬子(篤姫・天璋院)任子の父:関白・鷹司政煕,秀子の父:関白・一条忠良,敬子の実父:島津今和泉家の島津忠剛,敬子の義父:島津藩主の島津斉彬及び摂家の近衛忠煕温恭院
14代・徳川家茂(いえもち,1846-1866)安政5年(1858年)10月25日 - 慶応2年(1866年)7月20日和宮親子(静寛院)仁孝天皇昭徳院
15代・徳川慶喜(よしのぶ,1837-1913)慶応2年(1866年)12月5日 - 慶応3年(1867年)12月9日今出川美賀子(貞粛院)今出川公久(一条忠香の養女)仏門から神道に改宗したため院号は無し

歴代将軍の正室の中で、次代将軍となる嫡男(世継ぎ)を産んだのは2代将軍・秀忠の正室のお江与(お江,崇源院)だけであり、正室の子の将軍も初代家康・3代家光・15代慶喜だけとなっています。徳川将軍家に嫁入りした公家の娘(正室)の多くは子を産んでいませんが、その理由としては、公家(皇族)の血筋を引く将軍が誕生して『京の朝廷』が幕政への影響力を強めることを幕府中枢が嫌ったということがまず挙げられます。

それ以外にも、将軍家に輿入れした公家の娘の多くが当時の化粧品に含有されていた鉛毒などによって虚弱体質・不妊体質であったという説や、江戸生まれの将軍が京都育ちで公家(宮家・摂家)としてのプライドが強かった公家の娘(正室)を性格的に好きになりにくかったという説もあります。元々、家格の高い公家の娘が徳川将軍家に輿入れしたのは、徳川家の家格に朝廷の権威(=政権の正統性)を加えるための『政略結婚』としての意味合いが大きかったので、将軍個人の寵愛が正室の公家の女性に向かいにくかったという事情もあるでしょう。

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徳川将軍家の婚姻と政略:徳川家康の子について

徳川家康・秀忠の時代の徳川家の婚姻は、有力者と縁戚になり同盟関係を結ぶという戦国時代の『政略結婚』でした。家康の初めの結婚相手である築山殿は今川義元の妹婿・関口氏の娘であり、家康の義元への臣従を確認するといった意味合いを帯びていました。今川義元が織田信長に桶狭間の戦い(1560)で討たれた後には、豊臣秀吉が家康との同盟関係を強化するために義妹の朝日姫を輿入れさせました。

2代将軍秀忠の正室であるお江与(おえよ,小督・おごう)は浅井長政の三女であり、お江与は秀吉が寵愛した茶々(淀殿)の妹でしたが、お江与は秀吉が主導した政略結婚により4度の結婚を経験することになりました。お江与ははじめ尾張郷士・佐治与九郎と結婚しましたが、秀吉に見つけ出されて政略の道具とされ、羽柴秀勝(秀吉の養子)、九条道房を経て徳川秀忠の妻となりました。しかし、秀忠はお江与を気に入って寵愛し、お江与の嫉妬を恐れる恐妻家にもなります。秀忠とお江与の間には、3代将軍・家光を含む二男五女が生まれましたが、父の家康も子沢山として知られ11男5女を設けています。

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徳川家康の男子のうち、長男・松平信康は家康との不仲説や母の築山殿と共に武田勝頼との密通説が伝えられており、築山殿は護送中に殺害され信康は自害を命じられています。家康はお万の方との間に産まれた次男・結城秀康(ゆうきひでやす,1574-1607)も冷遇しており、秀康は豊臣秀吉の養子となった後に下総国結城の大名・結城晴朝(ゆうきはるとも)の姪と結婚して『結城氏の家督』を継いでいます。

しかし、関ヶ原の戦いの後には関東の政情を安定させた功績を評価されて大幅に加増され、結城秀康は下総結城藩10万1,000石から越前北庄67万石の大名に上り詰めました。結局、徳川宗家の家督・将軍位は三男の徳川秀忠が継ぐことになりますが、四男の松平忠吉(ただよし,1580-1607)は尾張清洲城を得たものの関ヶ原の傷が原因で1607年に早逝しました。五男の松平信吉(のぶよし,1583-1603)は甲斐の武田氏の家督を継いで武田信吉となりましたが、病弱であったため重篤な皮膚疾患の悪化で若くして死去しました。

六男の松平忠輝(ただてる,1592-1683)は長沢松平氏の家督を相続したものの家康との関係が悪く、大坂夏の陣での失策によって秀忠の激昂を買い改易されます。忠輝は92歳という当時としては珍しい長寿な人物でしたが、不遇な晩年を過ごして幽閉先の諏訪高島城で死去しました。家康の七男・松千代と八男・仙千代は夭折しており、九男の徳川義直(よしなお,1601-1650)は尾張藩の初代藩主となり尾張徳川家の始祖となっています。

十男の徳川頼宣(よりのぶ,1602-1671)は紀伊国和歌山藩の藩主を務めた人物で紀州徳川家の祖となっています。十一男の徳川頼房(よりふさ,1603-1661)は正室を娶らず子を持つことを嫌った特異な人物としても知られますが、水戸徳川家の始祖でもあり水戸黄門で著名な三男・徳川光圀(みつくに, 1628-1701)の父でもあります。徳川頼房は主君の死後に家臣が自害する『殉死(じゅんし)』の慣習に否定的であり、その思想的影響を受けたとされる四代将軍・徳川家綱は頼房の死後に殉死禁止令を発布しています。

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徳川家と豊臣家の間で結ばれた政略結婚として知られるのが、秀吉の嫡子・豊臣秀頼と秀忠の娘・千姫との縁組です。しかし結局、天下の覇者であった豊臣秀吉が死ぬと家康は方広寺鍾銘事件で秀頼・淀殿に因縁をつけて大坂冬の陣・夏の陣を起こし豊臣家を滅亡させました。秀忠の二女・珠姫(子々姫)は加賀百万石の前田利常(としつね)に嫁いでおり、豊臣政権下では徳川家と並ぶ大大名であった前田家を完全に臣従させることに役立ちました。

秀忠の三女・勝姫は結城秀康(秀忠の兄)の嫡子である松平忠直(ただなお)に嫁いで、徳川宗家と越前松平家との橋渡しをしようとしました。しかし、侍女や家臣を理不尽に殺戮・懲罰する忠直の乱心(気狂)によって勝姫の婚姻生活は破綻することとなり、忠直は将軍秀忠によって越前藩主の地位を改易されました。秀忠の四女・初姫は若狭国小浜藩主の京極忠高に嫁ぎましたが、忠高の寵愛と配慮を得ることが叶わず不幸な結婚生活の果てに早死にしています。

秀忠の五女・和子(まさこ)は天皇に入内(じゅだい)した東福門院(とうふくもんいん)として知られますが、和子は第108代・後水尾天皇(在位1611-1629)の中宮となり第109代の女帝となる明正天皇(在位1629-1643)を産んでいます。秀忠の娘である徳川和子は徳川幕府と朝廷の天皇を縁戚とする政略結婚を行いましたが、この婚姻によって、徳川将軍家が天皇家と婚姻を結べる高貴な武家最高位の家格であることが公認されることになりました。

そして、3代将軍・徳川家光が五摂家の鷹司孝子を正室に迎え入れることで、武家と公家の政略的な婚姻関係はより強固なものとなり、徳川将軍(公方さま)に京の摂家・宮家の娘が御台所として嫁ぐというのが慣例化していきます(家光は若き頃より男色家であったため、鷹司孝子との間に実質的な夫婦関係はなかったとされ、孝子に限っては「御台所」の呼称が使われなかったとも言われますが)。和子の入内によって武家の徳川家は実質的に公家の五摂家と同格以上の家格として取り扱われることになりますが、明正天皇の即位以後は幕府の政権は『朝廷の直接的な政治利用』を必要としないほど磐石のものになっていったのです。

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