東京都の名前と歴史

東京都の誕生:経済・人口・文化の一極集中化が進む近代日本の首都

東京都の誕生:経済・人口・文化の一極集中化が進む近代日本の首都

東京都は日本の首都であり、その面積は2,187.58平方キロ、人口は日本の都道府県で最多の13,161,751人(2010年)となっています。東京の基礎自治体の構成は『23区・26市・5町・8村』の区市町村であり、地価の高い千代田区、中央区、港区の『都心3区』を抱え、『新宿副都心・池袋副都心・渋谷副都心・上野・浅草副都心・錦糸町・亀戸副都心・大崎・品川副都心・東京臨海副都心』という7つの副都心を制定しています。古代の律令体制の区分では東京都は『武蔵国・下総国・伊豆国の一部』に該当し、多摩地域は『多摩郡』に属していました。区部の西側は、武蔵野台地の末端部であるという意味で『山の手』と呼ばれ、鉄道の山手線周辺は日本の中心的な都市機能が集中する地域となっています。

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多摩地域は特別区に含まれる東多摩郡を除いて、南多摩郡、北多摩郡、西多摩郡の3つの郡を総称して『三多摩(みたま)』と呼ぶことがありますが、多摩郡は古代には東京都内に当たる地域でもっとも先進的な地域だったと考えられています。旧北多摩郡の『府中(ふちゅう)』では、4世紀前半に大國魂神社が建立されたという伝説があり、7世紀には大國魂神社内に『武蔵国府』が置かれましたが、東京の名称の前身である『江戸』という地名は、12世紀の『豊島郡江戸郷』という名前から始まったようです。

12~13世紀以降にかけて、隅田川の西側の地域を『江戸』と呼ぶようになりますが、江戸時代以前は関東地方で栄えていたのは江戸ではなく、相模国国府(神奈川県相模原市周辺)上総国国府(千葉県市原市周辺)、下総国国府(千葉県市川市周辺)、武蔵国国府(東京都国分寺市・府中市周辺)でした。

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東京都に含まれる『伊豆諸島』は古代からある伊豆国の流刑地でしたが、戦国時代になると『扇ヶ谷上杉氏』の家宰の太田氏が実力をつけて独立の構えを示し、太田道灌(おおたどうかん,1432-1486)が現在の皇居(近代の宮城)である『江戸城』を建設しました。相模国にあった小田原城を本拠地とする『後北条氏(北条早雲を祖とする氏族で氏綱-氏康-氏政-氏直と続き秀吉に滅亡させられた)』が武蔵国全域を支配するようになると、今度は現在の八王子市に滝山城・八王子城を建設しました。後北条氏は甲斐国の武田氏の侵攻を防衛する活躍を見せたものの、天下人になった豊臣秀吉の関東一円の支配を目指す『小田原攻め』によって1590年に滅亡させられました。

後北条氏の領地は徳川家康に賜与されることになり、江戸を本拠地とした本格的な開発が始まりますが、1603年の『関ヶ原の戦い』で徳川家康率いる東軍が石田三成の西軍に勝利したことで、江戸幕府が開府されることになりました。江戸城は徳川将軍家の居城となり、江戸は日本の政治の中心地として発展していきますが、18世紀初頭には人口が100万人を超えて世界でも有数の大都市にまで成長しました。武蔵野台地では農業も盛んとなり、畑作が増加して新田開発によって耕地面積も急拡大していきます。江戸城の西にあった『甲州街道』の途中には多くの宿が設けられ、その内の一つであった『内藤新宿』は明治期以降の『新宿』となって経済的・文化的に栄えることになります。

『王政復古・尊王攘夷』を掲げる薩長軍の倒幕運動と戊辰戦争によって、徳川将軍家の江戸幕府は崩壊へと追いやられ、1868年5月3日(慶応4年(明治元年)旧暦4月11日)に江戸城は無血開城して江戸は新政府(明治政府)が統治することになります。1868年6月30日(旧暦5月11日)に、明治新政府はまず『江戸府』を設置します。9月3日(旧暦7月17日)には、江戸を『東亰(後に東京)』へと改称し、江戸府も『東京府』という名前に改められました。1869年(明治2年)には、平安時代から長く京都の御所を拠点にしていた天皇(明治天皇)が宮城・皇居(旧江戸城)に入る事となり、東京府は法律によって『遷都の宣言』をしたわけではないのですが、明治維新を進めようとする近代日本の『事実上の首都』となります。

1878年(明治11年)には伊豆諸島、1880年(明治13年)には小笠原諸島を東京府に編入して、1893年には1872年に神奈川県に移管していた多摩地域が東京府に戻ってきます。この時点で東京府は、ほぼ現在の『東京都』と同じ管轄領域を持つようになりますが、東京都という名称になるのは1943年(昭和18年)7月1日になってからのことです。1868年(慶応4年/明治元年)から1943年(昭和18年)までは、現在の東京都は府県制の下で『東京府』と呼ばれていました。1889年(明治22年)になると、当時の主力輸出品の一つであった絹織物の輸送路も兼ねて新宿-八王子間をつなぐ『甲武鉄道(後の中央線快速区間)』が開通し、19世紀末には後に国鉄線(JR線)となる東京府内の各方面に延びる幹線鉄道が整備されていきました。20世紀前半になると、日本各地の都市で私鉄各線の路線も開通していき、東京府と各地の主要都市を鉄道で結ぶ『国内の陸上交通網』が整備されました。

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1889年(明治22年)に『市制施行』による東京市が発足しますが、大正時代になって周辺各地から東京市への人口流入が進んで、1920年の東京市の人口は370万人にまで膨れ上がりました。1923年(大正12年)9月1日には、直下型の『関東大震災(マグニチュード7.9)』が発生して、震災後に発生した火災で東京の大半の建物が焼失し、死者・行方不明者も10万5千人にも上りました。第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)の真っ只中である1943年(昭和18年)7月1日に、東京市と東京府が廃止されて、現在と同じ『東京都』が設置される運びとなり、初代の東京都長官には内務省出身の大達茂雄(おおだちしげお)が就きました。

終戦が迫る1945年(昭和20年)3月10日には米軍による『東京大空襲』を受けて、東京都の下町は壊滅状態となり、空襲による爆発・炎上によって東京の市街地の多くが『焼け野原の焦土』と化しました。東京都に所属する小笠原諸島でも、兵員すべてが玉砕する『硫黄島の戦い』という苛烈な戦闘が展開されましたが、1968年(昭和43年)に小笠原諸島と火山列島が米国より返還されています。戦後の焼け野原になっていた東京は、経済最優先の政治方針の下で短期間で復興を成し遂げていき、1964年(昭和39年)に開催された『東京オリンピック』によって、『最早戦後ではない』といわれる戦後復興が完成したとされます。東京都は高度経済成長期を経て日本の政治・経済の中心として急成長を続け、1967年(昭和42年)には東京都の人口は1千万人を突破しますが、『東日本大震災(2011年3月11日)』の後遺症が残る2012年1月の現時点においても『東京一極集中』の傾向は顕著なものがあります。

令制国の旧武蔵国多摩郡だった『三多摩』は、1872年(明治5年)5月22日に東京府から神奈川県に移管されますが、1893年(明治26年)4月1日には再び神奈川県から東京府に移管されて戻ってきます。三多摩が神奈川県から東京に再移管された理由は、『東京の水資源である玉川上水の確保』『多摩地区が拠点になっていた板垣退助を首班とする自由民権運動の抑制』にありました。1876年(明治9年)3月10日に小笠原諸島が東京に移管、1878年(明治11年)1月11日に伊豆七島が静岡県から移管、そしてこの1893年の三多摩の再移管によって、現在の東京都の領域を得ることになりました。東京都の区域を大まかに区分すると、『(都心中心部の)山の手・(江戸情緒の残る)下町・(都心近郊を形成する)三多摩・(日本最南端を含む)小笠原諸島・伊豆諸島』の5つの区域に分類することができます。

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