飛鳥時代の推古天皇と聖徳太子

飛鳥時代の都と日本初の女帝・推古天皇
聖徳太子(厩戸皇子)の中央集権的な政治改革と外交姿勢

飛鳥時代の都と日本初の女帝・推古天皇

『ヤマト王権の歴史』の項目では、第32代・崇峻天皇(在位587-592)が蘇我馬子の陰謀で暗殺されて、日本初の女帝となる第33代・推古天皇(在位592-628)が即位しますが、第31代・用明天皇は同母兄であり崇峻天皇は異母弟でした。推古天皇は日本史上で初めて『大王(おおきみ)』ではなく『天皇』という称号を名乗った人物とも言われますが、男性天皇である第40代・天武天皇(在位673‐686)が初めて天皇を呼称したという説もあります。用明と推古の母は蘇我稲目の娘である堅塩媛(かたしひめ)であり、崇峻の母も蘇我稲目の娘の小姉君(おあねのきみ)でしたから、古墳時代の天皇家と蘇我氏の血縁的な結びつきは非常に深いものでした。

日本の歴史時代の区分は、縄文時代(1万年以上前‐B.C.10世紀頃)‐弥生時代(B.C.10世紀頃‐A.D.3世紀頃)‐古墳時代(4‐6世紀)から飛鳥時代(6世紀末‐8世紀初頭)へと続きますが、飛鳥時代にはそれまで中華文明圏から『倭(わ)』と呼ばれていた日本列島が『日本』という国号を用いるようになります。以前は、奈良の平城京が築かれる前の不安定なヤマト王権の時代をまとめて大和時代(古墳時代・飛鳥時代)と呼んでいましたが、ここ最近は飛鳥地方に都(皇居)が置かれた推古天皇の御世からを飛鳥時代と呼んで区別しています。飛鳥時代には多くの都が造営されましたが、飛鳥地方は現在の奈良県高市郡明日香村周辺の地域にあたり、天香久山の南から橘寺以北の地を指すと言われています。

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物部守屋との政争に勝利した蘇我馬子は588年に飛鳥寺(法興寺)を建立し、仏教信仰の祖と言われる聖徳太子は593年に摂津難波の荒陵(あらはか)に四天王寺を建立しましたが、崇仏派・蘇我氏が排仏派・物部氏に勝利したことによって飛鳥時代の幕が開けたとも言えます。厩戸皇子(うまやどのおうじ)とも言われる聖徳太子(574‐622)は物部氏との戦争の勝利を仏に祈願して、『この戦いに勝利すれば、必ず四天王を崇拝する仏塔(寺社)を作る』という誓いを立てました。その結果、四天王寺を建立することになりましたが、用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の子である聖徳太子(厩戸皇子)はもともと蘇我氏と深い血縁関係にありました。

蘇我氏の権力拡大と推古天皇(額田部皇女)の登場に伴って飛鳥時代が始まりますが、推古天皇が592年に即位した豊浦宮(とゆらのみや)や603年以降に執政を行った小墾田宮(おわりだのみや)は正確には飛鳥ではありません。飛鳥地方そのものが蘇我氏の権力基盤であったとも言われていますが、飛鳥時代に造営された都(宮・皇居)には以下のようなものがあります。天皇の御所としての宮(都)が建設されることで、中国(隋)や朝鮮(百済)の外交使節を公式に接受できる場所が準備され、日本は中央集権的な独立国としての性格を国内的にだけではなく対外的にも強めていきました。

飛鳥時代に造営された都(宮)
都の名称天皇と時代区分
豊浦宮(とゆらのみや)第33代・推古天皇が592年に即位するまでの宮
耳梨行宮(みみなしのかりみや)推古天皇の暫時的な滞在地
小墾田宮(おわりだのみや)603年以降、推古天皇と聖徳太子の時代の宮。冠位十二階や十七条憲法の制定。
飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや)630年以降、第34代・舒明天皇の時代の宮。火災で焼失して一時的に田中宮を設営。
後飛鳥岡本宮(ごあすかおかもとのみや)板蓋宮が消失した656年以降、第37代・斉明天皇(皇極天皇が重祚)の時代の宮。
飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)643年以降、第35代・皇極天皇の時代の宮。蘇我蝦夷(そがのえみし)が建設。645年に大化の改新(乙巳の変)が起きて、第36代・孝徳天皇(軽皇子)が即位。655年に火災で焼失。
難波宮(なにわのみや, 645-655)・難波長柄豊埼宮(なにわながらのとよさきのみや)652年以降に、中大兄皇子らと孝徳天皇が設営した飛鳥ではなく大阪にある宮。
飛鳥川原宮(あすかかわはらのみや)655年以降、斉明天皇が一時的に御所とした宮。斉明天皇は飛鳥川原宮から後飛鳥岡本宮へと移る。
近江宮(おうみのみや, 667-672)・近江大津宮(おうみのおおつのみや)663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた第38代・天智天皇が、667年に後飛鳥岡本宮から遷都したのが滋賀県にある近江大津宮である。天智天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も近江大津宮で即位。
飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや, 672-694)第40代・天武天皇と第41代・持統天皇の時代の宮。壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)に勝利した大海人皇子(天武天皇)が、天智天皇・弘文天皇の拠点である近江宮(滋賀県)を離れて再び飛鳥(奈良県明日香村)の地に飛鳥浄御原宮を置いた。
藤原京(ふじわらきょう, 694-710)奈良県橿原市周辺に造営された日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)の本格的な中国風都城(とじょう)である。第41代・持統天皇、第42代・文武天皇、第43代・元明天皇の時代の都で、大和三山(北に耳成山・西に畝傍山・東に天香具山)を抱える壮大な規模の古代日本の首府だった。貴族文化である白鳳文化が隆盛を迎えるが、710年に平城京に遷都し711年に藤原京は焼失する。
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592年に崇峻天皇が馬子の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺され、593年に厩戸皇子(聖徳太子)が推古天皇の摂政となりますが、推古朝の時代には蘇我馬子と厩戸皇子が国政の主導権を握っていました。593年には、物部守屋との戦いで仏教に戦勝を祈願して寺社の建立を誓っていた蘇我馬子が、日本初の本格的な仏教寺院となる飛鳥寺(法興寺)を建設しました。

飛鳥寺の建設には朝鮮半島の百済(くだら)からやってきた渡来人の技術者や仏僧が活躍したといいますが、当時の中国(隋・唐)や朝鮮(高句麗・百済・新羅)は仏教や学問などが盛んな文明の先進地でした。日本仏教に仏舎利(釈迦の骨)をもたらしたのは司馬達止(しばたつと)であり、日本最古の仏像である飛鳥大仏を制作したのは司馬達止の孫の造仏工・鞍作鳥(くらつくりのとり)でした。鞍作鳥(止利仏師)は古代日本で最も著名な仏像制作者(仏師)であり、文化・芸術・学問が隆盛していた中国の北魏の影響を強く受けていたといわれ、法隆寺金堂の釈迦三尊像を作ったことでも知られています。

聖徳太子(厩戸皇子)の中央集権的な政治改革と外交姿勢

推古天皇の時代の歴史的事件については『日本書紀』『隋書 倭国伝』などに記されていますが、聖徳太子(厩戸皇子)の歴史的な功績と法隆寺関連の伝承については『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』に詳しく記録されています。なぜ、天皇に即位していない聖徳太子に『帝』という呼称がついているのかの理由は不明ですが、現在残っている五部編成の『上宮聖徳法王帝説』は平安時代初期に編纂されたものと考えられています。

聖徳太子(しょうとくたいし)という呼び方は後世に付けられた尊称(号)なので、最近では本名である厩戸皇子(厩戸王)と呼ばれることが多くなっています。聖徳太子は、天皇を中心(主権者)とする中央集権国家の整備に尽力した政治家であり、当時の新興宗教である仏教を保護して隆盛させた信仰者として知られています。聖徳太子の中央集権的な政治改革で最もよく知られているものに『冠位十二階(603)』『十七条憲法(604)』の制定があります。聖徳太子が中国や朝鮮に対峙するための政治改革に関心を寄せるきっかけになったのは、595年に来日して政治・仏教の師となった高句麗の僧・彗慈(えじ)との出会いでした。

摂政の厩戸皇子(聖徳太子)は、603年(推古11年)に儒教の徳治主義と仏教国・百済の官位制を参考にした『冠位十二階(かんいじゅうにかい)』という位階制を制定しました。冠位十二階は儒教の『徳・仁・義・礼・智・信』の徳目を参考にした位によって臣下(豪族)を序列化するもので、天皇が直接豪族を冠位に任命したので天皇の専制権力と権威を強化する目的を持っていました。厩戸皇子は、蘇我氏・大伴氏・物部氏など出身氏族によって身分(職務)が決まる古墳時代の『氏姓制度』を、個人の能力や適性によって冠位(身分)を与える実力主義の要素を持った『冠位十二階』に変革しようと考えました。

7世紀初頭の段階では、まだまだ蘇我氏・大伴氏などの有力豪族や血縁集団(氏族集団)の権力が強く冠位十二階の目指す天皇中心体制は十分に実現しませんでしたが、701年の大宝律令の制定に向けて次第に天皇の権力・権威が強化されていきました。実力・功績重視の冠位の任命の事例としては、607年に遣隋使として隋に派遣された小野妹子(おののいもこ)の大礼から大徳への昇進があります。冠位十二階によって始まる古代日本の官位制は、平城京・平安京(奈良・平安時代)で確立した律令国家(りつりょうこっか)の律令官位制として完成度を高めていくことになります。

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冠位十二階には、冠の色と髻華(うず)の種類という『外見的な意匠の特徴』で簡単に身分の上下が判断できるという特長があります。髻華(うず)というのは冠につける飾りのことで、『金・豹の尾・鳥の尾』の3つの種類があり、最も冠位(身分)が高い大徳・小徳は金の髻華をつけていました。冠位十二階の具体的な内容(冠位・色・髻華)は以下のようになっています。大徳・小徳のような大と小の冠位の色の違いは、大が『濃い色』、小が『薄い色』というように決まっていました。

604年(推古12年)に、厩戸皇子は天皇が統治する日本国の豪族・役人(官吏)の心構え・服務規定を説いた『十七条憲法』を定めますが、十七条憲法は後世の潤色(加筆変更)を受けていると考えられています。加筆や変更が加えられたのではないかという根拠には、当時使われていなかった『国司』という言葉が十七条憲法の中に見られることなどがあります。飛鳥時代の十七条憲法は、現在のような国家の最高法規としての性格を持っておらず、儒教・仏教の思想が混合した道徳規範として作成されたもので『君臣の身分秩序・和の思想・仏法の保護・公私の区別』などが謳われています。

『和を以て貴しとなせ』『篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり』『詔を承りては必ず謹め』という冒頭の三つの教えは有名であり人口に膾炙しています。仏法の熱心な信仰者であった厩戸皇子(厩戸王)は、6世紀末に四天王寺を建立し、607年に斑鳩寺(法隆寺)を建てたことでも知られますが、斑鳩寺(いかるがでら・若草伽藍)の設立年については史跡・遺構による根拠があるわけではありません。『日本書紀』では、601年から厩戸皇子が斑鳩の地域に宮室(斑鳩宮)を造営し始めたとあり、交通・軍事の要衝の地にあった斑鳩宮に605年に移り住みました。仏法関連の聖徳太子の著述としては、法華経(ほけきょう)・勝鬘経(しょうまんきょう)・維摩経(ゆいまきょう)の注釈書である『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』があります。

政治家としての厩戸皇子(聖徳太子)は、中国(隋)と朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)に対して積極外交を展開し、日本が中華思想に基づく冊封体制(中国との主従関係)に帰属していない独立国であることを強く主張しました。古代~近世に至るまで東アジアの国々の多くは、大帝国である中国(隋・唐・明・清など)を宗主(君主)とする封建的な冊封体制(さくほうたいせい)に組み込まれており、中国からその国の支配権の正当性を認めてもらい『国王』という称号を与えられていました。

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中国の皇帝から自国の統治権を認めてもらって『王』として任命されれば『中華思想的な冊封体制』に組み込まれることになり、中国に対して貢ぎ物を持っていく朝貢(ちょうこう)を行わなければなりません。しかし、聖徳太子(厩戸皇子)は日本が隋(中国)に服属しない対等な独立国であることを明確に示すために、遣隋使に持たせた国書(上表文)に『日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや(つつがなきや)。云々。』という文言を書きました。日本の天皇と中国の皇帝を同列の地位に置いたかのような国書を読んで、野心的な暴君として知られる隋の煬帝(ようだい)は激怒し、これ以降は日本国の使節を自分に取り次がないようにと伝えたといいます。

607年に小野妹子をはじめとする遣隋使(けんずいし)を派遣して、隋(中国)の先進的な政治制度や文化様式、学問・仏教などを輸入した厩戸皇子ですが、天皇中心の中央集権的な国家整備を進める中で中華文明圏に呑み込まれない独立国の建設に力を尽くしました。厩戸皇子(聖徳太子)はまた朝鮮半島に対する積極的な軍事外交も展開しており、600年に新羅(しらぎ)に出兵して日本に『調(年貢の一種)』を朝貢するという約束を取り付けました。602年にも、同母弟である来目皇子(くるめのおうじ)を将軍とする軍勢2万5千を九州の筑紫に集めて、新羅への大遠征を計画しましたが来目皇子が急死したために遠征計画は中止されました。摂政の聖徳太子は最大の豪族である蘇我馬子と協調路線を取って、国内的には中央集権体制の確立を進め、対外的には主権を持つ独立国の体裁を整えていったのです。

聖徳太子は622年に没し蘇我馬子は626年で死去しますが、古墳時代末期から権勢を拡大し続けた蘇我氏は、蘇我馬子‐蘇我蝦夷の親子の代で絶頂期に到達します。天皇の外祖父・伯父となることで天皇の権威に及ばんとするほどの絶大な権力を振るった蘇我馬子は、624年に蘇我氏の本拠地と称する葛城県(かずらきのあがた)の割譲を推古天皇に強引に要求します。葛城県は天皇の直轄領的な性格を持つ大和六県の一つだったので、推古天皇は『蘇我氏の出自』を強調しながらも葛城県の割譲を拒否しました。天皇の直轄領の割譲を要求するところに蘇我氏の専横と増長の兆候が現れていますが、645年には、政治の主導権を天皇に取り戻そうとする中大兄皇子(天智天皇)中臣鎌足(藤原鎌足)による『大化の改新(乙巳の変)』が起こります。

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推古天皇は628年に病没しますが、推古天皇の死後には蘇我蝦夷の妹婿である田村皇子(舒明天皇)と聖徳太子の子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)が皇位争いで対立します。この時点の皇位の継承は『父子の直系継承』ではなく『群臣推挙による継嗣決定』だったので、推古天皇は自分の後継者を明確に決定することができず、田村皇子と山背大兄皇子の内紛を招きました。

蘇我蝦夷が田村皇子を推挙し、山背大兄皇子を蝦夷の叔父の境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)が推挙しましたが、最終的に境部臣摩理勢は蝦夷の刺客に暗殺され、田村皇子が舒明天皇(即位629-641)として即位することになります。『古を推す(いにしえをおす)』という意味を持つ推古天皇が没したことで、日本の古代大和朝廷の時代に区切りがついたと考えることができ、『古事記』の天皇の系譜は推古天皇で終わっています。舒明天皇は天智天皇と天武天皇の兄弟の父であり、井沢元彦氏のような『天智と天武の非兄弟説』もありますが、舒明天皇の即位によって古代日本は一つの歴史的・心理的な区切りを迎えたと言えるでしょう。

第35代の女帝・皇極天皇(在位642-645)の時代に、宮中クーデターである大化の改新(乙巳の変)が勃発します。この大化の改新によって、国政を支配していた蘇我入鹿(そがのいるか)は宮中で突然殺害され、父の蘇我蝦夷は自宅に火を放って自殺することになりました。蘇我稲目‐馬子‐蝦夷‐入鹿と続いてきた蘇我氏の宗家が滅亡すると、皇極天皇は第36代の孝徳天皇(在位645‐654)に譲位しますが、孝徳天皇(軽皇子)の後に再び第37代・斉明天皇として即位します。そのため、皇極天皇と斉明天皇は同一人物の女帝ということになります。蘇我馬子が葬られた桃原墓は奈良県明日香村島之庄にある石舞台古墳ではないかと言われていますが、石舞台古墳は横穴式石室を持つ巨大な古墳で膨大な労働力を使役して作られたと見られる古墳です。

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