福沢諭吉の事績・思想・著作とその一族

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福沢諭吉(ふくざわゆきち,1835-1901)は、幕末・明治に活躍した啓蒙思想家・教育者であり、当時の先端的な西欧思想・西洋文明を日本に紹介して現在の『慶應義塾大学』になる蘭学塾の慶應義塾を1858年に創設した人物として知られている。一万円札に印刷されている肖像の人物としても有名である。豊前国(大分県)中津藩士・福沢百助の五男として生まれた福沢諭吉は、緒方洪庵(おがたこうあん)『適々斎塾』で蘭学を学び、独学で英語を修得してから三度にわたって幕府の遣欧使節に随行し渡米・渡欧した経歴を持つ。独学で英語を学びながらも翻訳家としても相当の実力を持っていた。

欧米諸国を視察しながら、当時の日本よりも格段に進んでいた西洋の思想・文化・制度・文明・社会事情を学び取り、その成果を日本に持ち帰って『西洋事情』の著作で紹介した。現在の保険制度や中央銀行制度の原型となる西洋の社会制度を日本に紹介したのも福沢諭吉とされている。徳川幕府が大政奉還して明治維新が実現すると、福沢諭吉は明治新政府に招聘されたがその招きには応じず、民間で教育活動・啓蒙思想の普及・時事問題の論説などに専念する人生を送った。

1873年(明治6年)に、森有礼(もりありのり)が中心になって啓蒙思想団体である『明六社(めいろくしゃ)』が設立され、諭吉もそのメンバーになったが、1875年11月に明治政府の『讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例』に基づく言論弾圧が行われ機関紙『明六雑誌』が廃刊に追い込まれた。1882年には、日刊紙の新聞である『時事新報(じじしんぽう)』を“不偏不党・官民調和”の立場を掲げて創刊している。

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福沢諭吉の著作で最も有名なものは『学問のすゝめ』であるが、この論説集は明治5年~9年(1872年~1876年)に書かれた小冊子をまとめたもので、福沢諭吉の啓蒙理念の中心にあった『独立自尊・人間平等・実学主義』について説いている。『学問のすゝめ』の第1編冒頭にある『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり』の一句は、現代でも人口に膾炙していて知らない人は少ないほどである。

福沢諭吉は虚学ではない『実学』を勧めて、『人間の自由平等・独立自尊』とそれぞれが社会において果たすべき役割である『分限』を説いた。個人の自由平等と国家の独立自尊(主権維持)を実現するために、近代的な学問の必要性を『学問のすゝめ』の中で主張したのである。欧米と比べて近代化が遅れていた日本を叱咤激励して、旧弊的な思想や制度を改革することを急いだため、『学問のすゝめ』の論調・表現はいささか過激な傾向はあったが、この著作が日本の近代化や日本人の意識の啓蒙に貢献したことは疑いがない。福沢諭吉が『学問のすゝめ』で日本人を啓蒙しようとした内容の中心には常に『国家・個人の一身独立(独立自尊)の精神』があった。

明治維新を迎えた新時代の日本の指導原理や啓蒙思想の書として読まれた『学問のすゝめ』は、初版で約20万部を売り上げてベストセラーにもなり、その後も(戦後になっても)売れ続けて累計は約100万部を突破しているとされる。

『文明論之概略』は1875年に出版された福沢諭吉の主著で、日本で最初の文明論の本とも言われている。人間が作り出す文明を『野蛮・未開・文明』の発達段階論で解釈する歴史的な史観を前提としており、当面は『脱亜入欧』で先進的な西洋文明を目的にして学ばなければならないと説く。日本は近代化を推進して西洋文明に追いついていかなければ、西欧列強の帝国主義に呑み込まれる危険もあるとする『国家独立の危機感・日本独自の文明始造の焦り』に根ざした書物でもあった。

福沢諭吉は先進的な西洋文明もまだ発展途上のものであると相対化しており、西欧列強の文明・歴史の倫理的な問題点として『外国を侵略・搾取する帝国主義』を上げているが、現今の国際情勢や帝国主義の戦争を考えれば、国家の独立自尊を維持するために西欧列強に倣った帝国主義的な近代化もやむを得ないという論調になっている。文明開化と新時代の精神を重視して実学を推奨する『現実主義者(リアリズム)』の福沢諭吉であればこそ、富国強兵・帝国主義といった近代国家の強大化のための『国家エゴイズム』を独立・主権の維持のための必要悪のように捉えたのである。

福沢諭吉は六巻一〇章からなる『文明論之概略』を通して、旧弊な日本文明を歴史的に反省して欧米列強の先進的な文明・制度を学ぶ姿勢を見せ、『儒教的な封建主義・権力志向』による文明発達の停滞感の弊害を取り除くため、学問を推奨して民間における自由な交流・競合を図るべきだと訴えたのである。先進的な西洋文明の実学や進取の精神を学ぶ必要性を語っており、日本と欧米の文明の発達と特徴を比較検証しながら文明の本質・効用を考察している。福沢が文明進歩の目的として構想していたのは、欧米列強の植民地化を免れて近代化による富国強兵と国民の自由平等を実現すること、それは『日本と個人の独立自尊の維持』につながる目的でもあった。

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福沢諭吉には妻・錦(にしき)との間に『一太郎(長男)・捨次郎(次男)・ふさ(長女)』の三人の子があったが、いずれも政治家・教育者・学者・芸術家などとして成功したり業績を残したりしたわけではなく、日本の近代化・啓蒙活動・教育改革に大きな役割を果たした父の福沢諭吉と比べると歴史上では無名の人物に近い。娘の福沢ふさ(1870-1954)は岩崎家から福沢桃介(ふくざわももすけ,1868-1938)を婿養子として迎えた。

福沢桃介は若い頃は相場師であり、日露戦争後の株式投機で大きな財を成して『成金』の仲間入りを果たした。株式投機で財産を作った桃介は、その資金を元手にして実業界に転身したが、名古屋電灯の買収や水力発電の新事業で成功して更に大きな利益を上げ、『電気王(電力王)』と呼ばれていた人物でもある。しかし福沢桃介と妻・ふさとの夫婦関係は早くから冷え込んでいて、桃介は俳優・川上音二郎(かわかみおとじろう)の妻の川上貞奴(かわかみさだやっこ,1871-1946)と長く不倫関係にあったとされている。そういった夫に愛されない福沢ふさの苦悩・葛藤の人生をひとつの題材にして創作された小説として、杉本苑子(すぎもとそのこ)『冥府回廊』がある。

福沢桃介の実妹は歌人・杉浦翠子(すぎうらすいこ,1885-1960)で、翠子の夫は画家・杉浦非水(すぎうらひすい,1876-1965)である。杉浦翠子と杉浦非水は当時珍しかった大恋愛の末に結婚した夫婦だったが、新進デザイナー(夫)と新鋭歌人(妻)のインテリジェントな夫婦は『モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)』としてマスコミで持て囃されていたりもした。翠子は大正5年(1916年)にアララギに入会して、北原白秋や斎藤茂吉に師事していた女性歌人であったが、夫の杉浦非水は日本のグラフィックデザインの礎を築いて、多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)の初代学長になった人物として知られている。

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福沢諭吉の直接の子孫には歴史的・業績的に目立った人物はいないのだが、諭吉の旧知で三井財閥の四天王の一人とされた朝吹英二(あさぶきえいじ,1849-1918)の一族・子孫には、慶應義塾大学で教授職を務めた人物が多い。朝吹英二は諭吉と同じ豊前国(現大分県)の生まれだが、幕末期には尊皇攘夷思想に傾倒して開明的だった福沢諭吉の暗殺を目論むほどだったが、実際に諭吉と会って国家観について話し合ってからは、諭吉の先見の明のある思想や行動力に感化されて慶應義塾で学ぶようになった。

朝吹英二は諭吉の姉の子である中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)と懇意になり、彦次郎の妹の澄(すみ,1859-1919)と結婚している。慶應義塾で明治維新後の日本で役立つ実学を学んだ後、朝吹英二は三菱商会・鐘淵紡績・王子製紙などで経済人として活躍し、ついに三井財閥系の会社で重役を歴任して『三井の四天王』と呼ばれるほどの存在にまで上り詰めた。朝吹英二の弟の範治は野依家に養子に入って野依範治(のよりはんじ,1855-1917)となったが、範治の子孫につらなる養子の野依金城(のよりきんじょう,北海道拓殖銀行の設立者)の子に、ノーベル化学賞受賞の化学者・野依良治(のよりりょうじ,1938-)がいる。

朝吹英二の娘の福子は、慶應義塾卒の実業家で時事新報社長・貴族院議員などを務めた名取和作(なとりわさく,1872-1959)と結婚したが、二人の間に生まれた子が事実に即した報道写真の写真家として業績を残した名取洋之助(なとりようのすけ,1910-1962)である。朝吹英二の息子の朝吹常吉(あさぶきつねきち,1877-1955)も慶應義塾卒でイギリスに留学してから、日銀・三井物産・鐘淵紡績に勤めて、三越の常務取締役になるなど実業家として成功した人物である。

朝吹常吉には、木琴(ビブラフォン)の楽器研究をしていた長男・朝吹英一(あさぶきえいいち,1909-1993)、慶応大学のフランス文学教授の三男・朝吹三吉(あさぶきさんきち,1914-2001)、ボーヴォワールの翻訳・作家でパリ文化人として知られた末娘・朝吹登水子(あさぶきとみこ,1917-2005)などがいる。朝吹三吉の次男の朝吹亮二(あさぶきりょうじ)もフランス文学者で慶応大学教授であり、朝吹家からは慶応大学の教授が多数輩出されていて、朝吹家の家系図を遡れば福沢諭吉の姉・婉(えん,1830-1897)の血筋(中上川澄)に行き着くのである。

朝吹登水子ははじめ日本人男性と結婚して長女・朝吹由紀子(1945-)を産んでいるが離婚、その後にフランス人の実業家であるアルベール・アルノー(1929-2002)と再婚している。朝吹登水子には自伝三部作として『私の軽井沢物語』『私の巴里物語』『私の東京物語』があり、当時の文化人・経済人と関わりの深い上流階級のブルジョワ的な暮らしぶりや交友関係について窺い知ることができる。朝吹登水子の娘・朝吹由紀子と結婚した牛場暁夫(うしばあきお)も慶応大学の文学部仏文科の教授であり、朝吹家は慶応のフランス文学科と非常にゆかりの深い一族なのである。

福沢諭吉の甥(姉の婉の息子)にあたる中上川彦次郎(なかみがわひこじろう,1854-1901)も、妻の妹の夫が政治家・実業家として大成功して『藤山コンツェルン』を作り上げた藤山雷太(ふじやまらいた,1863-1938)である。肥前国松浦郡大里村(現在の佐賀県伊万里市)の庄屋の家に生まれた藤山雷太は、慶應義塾卒で佐賀県議会議長を務めて、三井銀行に入社して王子製紙の則りを企てるなど積極的に動き、東京商業会議所会頭、芝浦製作所所長、大日本製糖社長、藤山の同族会社社長、大日本製氷会長、日印協会理事などを歴任して、日本経済界に大きな影響力を振るった。

藤山雷太の息子に、岸信介(安倍晋三の祖父)に戦前から資金援助して近しい関係にあり(そのため戦犯として公職追放となった)、戦後は政治家として日中国交正常化を目指した藤山愛一郎(ふじやまあいいちろう,1897-1985)がいる。藤山愛一郎は、外務大臣、経済企画庁長官、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、初代日本航空会長、自民党総務会長と華々しい経歴を持ち、岸信介内閣の外務大臣として日米安保改定と日米地位協定締結を成し遂げたが、藤山愛一郎の政治家としての悲願は日中国交正常化と自民党総裁への就任であった。しかし三度挑戦した総裁選にすべて敗れ、政治家としての影響力・派閥の勢力を維持するために多額の私財を投入したため、藤山コンツェルンは二代目の愛一郎の代で解散に追い込まれてしまったという。

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