『日本』の国号はいつ生まれたか?:倭と日本の差異

『日本』という国号はいつ生まれたか?
“倭人”は“日本人”と同一視できるか?

『日本』という国号はいつ生まれたか?

王政復古を掲げ大政奉還を成し遂げた明治維新によって、西欧列強に並ばんとする近代国家としての日本は誕生した。1872年9月4日(明治5年8月2日)に太政官から『学制(学校教育制度)』が発せられたが、近代日本の歴史教育の基盤には『天皇制の権威・皇国史観』があったため、『日本の国号の始まり・日本人の自意識の形成』については史実ではなく『古事記・日本書紀』の神話に基づく教育が行われていた。

例えば、イザナギ・イザナミの国産みやニニギノミコト(天皇家の祖先神)の高千穂峰への天孫降臨、日本武尊(ヤマトタケル)の東征など記紀の神話に基づくエピソードが『日本誕生の原点(物語的な事実)』に近いものとして扱われたため、史実としての『日本の国号・国制・日本人アイデンティティの始まり』について殆どの国民がはっきり分からないという状態になっている。記紀の神話の影響で、縄文時代より遥か昔の太古の時代から『日本(国号)・日本人』が存在していたという認識が生まれたり、『邪馬台国・奴国』があった弥生時代にも日本の国制の中に邪馬台国があって日本人(倭人は日本人と同じである)がいたというような見方がでてきてしまう。

初期の天皇の実在可能性については、『欠史八代(2代目~9代目を不在とする説)』をはじめとして、何代目の天皇から確かに実在していたと言えるのかには様々な議論がある。だが、“イザナギ―天照大神―アメノオシホミミ―ニニギ―ホオリ――ウガヤフキアエズノミコト”の神々の系譜に連なるとされる初代・神武天皇(じんむてんのう,生没年不詳)は、その名前自体が奈良時代後期の文人・淡海三船(おうみのみふね)によって1000年以上も後に『漢風諡号(かんぷうしごう)』を一括撰進されたもので、紀元前の時代に神武天皇が『諡号を持つ天皇』として実在していた可能性はない。

神武天皇が即位したと推測される2月11日は、現在でも『建国記念日』として祝日になっているが、この建国の日は『神話上(皇室の権威確証)の建国』であって『史実の上での建国』ではない。だが、『史実としての日本の国制』の始まりについて知っている人は少なく、古墳時代が終わってヤマト王権(大和朝廷)の成立と前後する辺りという大まかな認識しかないことが多く、7世紀末における『日本の国号・国制の誕生』については曖昧な知識しか与えない歴史教育の影響も大きい。『日本』という国号は、聖徳太子(厩戸皇子)が隋の煬帝に送ったとされる親書『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや』でよく知られるように、『隋・唐の中国王朝に対する独立意識・対抗意識』から生まれたが、その時期は673年~701年頃だとされている。

『日本』は地名ではなく政治的に制定された国名・国制であり、『日本人』とはヤマト王権や朝廷・天皇の政権と無関係に自然発生した民族ではないから、『日本・日本人の歴史的な起源』は『壬申の乱(672年)』に勝利した天武天皇の治世が行われていた7世紀末と考えられるのである。

天武天皇(生年不詳-686)は681年から『飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)』の編纂を始めていたがその途上で死去し、女帝の持統天皇(645-703)が689年に飛鳥浄御原令を施行した。法令の上で『日本という国号』『天皇という地位・称号』が公式に設定されたのはこの689年の飛鳥浄御原令であり、『実証主義的な歴史』としては日本の国号、天皇の正式な呼称の始まりは“689年”という風に暫時的に定義することができるだろう。

689年は実証主義的な『日本』という国号を公式に持つようになった国の日本史の出発年、公式の天皇制の出発点と見なせる重要な年である。だが、この年号は大化の改新の645年よりも遥かに知名度が劣っている。『日本』という独立的な国号を東アジア世界において初めて名乗った年もはっきりとしており、“唐”“周”という国号に改めていた則天武后(そくてんぶこう,623頃-705)に面謁した日本の使者が“702年”に、自分たちの国が唐(周)の中国側が呼ぶ『倭』ではなく『日本』であると名乗っているのである。則天武后は武則天とも呼ばれる中国王朝史上で唯一の女帝だが、残酷な刑罰や密告制度を用いた恐怖政治・粛清を行ったため、漢の呂后(高祖・劉邦の妻)、清の西太后と並んで『中国三大悪女』の一人とされている。

“倭人”は“日本人”と同一視できるか?

7世紀末の天武天皇あるいは持統天皇の治世に『日本』という国号が成立するまでは、日本は『倭(わ)』と呼ばれており日本人も『倭人(わじん)』と呼ばれていたとされる。だが、厳密には統一的な政権・律令(法律)を持たず、日本人としての統合的アイデンティティもなかった『倭・倭人』は『日本・日本人』と同一の存在や概念として考えることはできないだろう。

倭人が中国王朝の正史の文献に初めて出現するのは、高祖・劉邦が起こした漢の時代の『漢書地理誌(かんじょちりし)』である。紀元前1世紀頃の倭(主に西日本・北九州)の状態を指して、『楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす』と記されている。また『倭・倭人』は元々、中国の王朝が非文明的で野蛮・劣等な日本列島やその周辺に住む異民族を貶めて表現するため(中国こそが文明の中心とする中華思想を強調するため)に『悪字(意味の良くない漢字)』を当てたものであり、当時の日本列島に居住していた人々が倭や倭人を自称したわけではない。

『日本』は中国王朝や冊封体制に対する独立意識(対抗心)に根ざして自称された国号であり、『倭』は中国王朝の中華思想の優越感を表すために他称された地域名であるという違いを指摘することができる。倭の漢字は、『稲魂(いなだま)をまとって舞う巫女の形でその姿の低くしなやかな様子、五穀豊穣の儀礼的な舞い』というその語源を考えると必ずしも『悪字』ではないとする説もある。倭を悪字とする立場からは、倭には『小さい・劣っている』といった意味があると言われている。 現在の韓国・北朝鮮も『倭寇・壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮出兵)』を、韓国併合(日帝支配36年)に次ぐ過去の日本の外交的・侵略的な悪事として扱っており、日本の暴力性・野蛮性・侵略主義などを指弾する時には『日本』よりも『倭』という概念が用いられやすい。

しかし、『後期倭寇』についてだけは日本人の海賊が朝鮮半島や中国大陸の沿岸部を襲って略奪したという歴史解釈は明らかに間違っており、元寇の被害を受けて農業ができなくなり窮乏化した壱岐・対馬・松浦・五島列島などの住民が海賊になって略奪・暴行を繰り返した14世紀の『前期倭寇(特に三島倭寇)』とは区別するべきものである。倭寇が生み出された直接の原因は、元・高麗の軍が日本に侵略を仕掛けてきて農業生活に窮乏する人民を大量に生み出した『元寇』にあるが、前期倭寇でさえも朝鮮半島の高麗で『禾尺(かしゃく)・才人(さいじん)』と呼ばれた賤民が加わっていたとされる。

倭寇が朝鮮半島・中国大陸・日本の沿岸部に大量出没した背景には、1368年の朱元璋(しゅげんしょう)による明の建設(元の滅亡)、1392年の李成桂(りせいけい)による李氏朝鮮の建設(高麗の滅亡)という『王朝交代期の混乱』も影響していたと考えられる。日本でも1333年に鎌倉幕府が倒れて、足利尊氏の室町幕府が1338年に成立しているが、日本もまた『南北朝時代の王朝分裂の混乱期』に差し掛かっていた。南朝・後醍醐天皇の皇子である征西将軍宮の懐良親王(かねよししんのう)は、明から冊封を受けて『日本国王』を称したが、その後の1392年に南北朝合一を果たした3代将軍・足利義満も明の要請を受けて倭寇鎮圧に動き、『日本国王』として冊封され勘合貿易の実利を得ている。

16世紀の『後期倭寇』の中心は、日本人ではなく私貿易・密貿易を行っていた中国人(明の海禁政策に反対する中国人)であり、後期倭寇を『日本人による東アジア(中国・朝鮮)に対する暴虐・略奪』とする見方は間違っていると言える。倭寇は国家が主体となったり援助したりして行われた海賊行為ではなく、国家・国境を超えて独自の利益や目的のために活動していた『海で生きる人々』の貿易・海賊のネットワークであった。浙江省の双嶼や福建省南部の月港、日本の五島列島を拠点とした中国人主体の後期倭寇は、中国人の王直や徐海、李光頭、許棟などをリーダーにしていたが、明によって王直が処刑されると後期倭寇の影響力は次第に弱まっていった。日本でも1588年に、豊臣秀吉が『倭寇取締令』を発令して厳しく弾圧したことで、日本人による倭寇の海賊被害も次第に減少していった。

『魏志倭人伝』には3世紀の邪馬台国の女王・卑弥呼(=親魏倭王)についての記述もあるが、この時代の政治権力の中心や有力な豪族が率いる集団勢力は『近畿・九州』にあり、それ以外の遠い地域の人たち(東海地方よりも東の関東・東北,南九州など)が『日本という国号・日本人という民族意識』を持っていた可能性は極めて低いだろう。5世紀の有力な豪族(王)であった倭王武(ワカタケル)も、宋の皇帝に対して『東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国』などと書いて送っており、5世紀に至ってもなお日本(倭)の内部は無数の小国が乱立する混乱した状態であったことが伝わっている。

日本という国号、日本人という民族アイデンティティが成立する以前の時代には、『倭・倭人』はあっても『日本・日本人』はなかったとするのは論理的な歴史解釈だが、聖徳太子や推古天皇、天智天皇(中大兄皇子)、藤原鎌足、蘇我蝦夷といった人たちも、7世紀末の日本の国号が成立する以前の人物であるから、厳密には『倭人』という他称的な概念に当てはまる人たちである。これらの日本史における有名過ぎる超重要人物が『日本人』という自称的な民族概念を未だ持っていなかった、『日本』という国号・国名を用いていなかったというのは不思議な感じがするが、聖徳太子の冠位十二階・十七条憲法などは『中国王朝を模範とする律令国家』を模倣する途上の段階(中国王朝に対する独立意識の形成段階)にあったと見なすべきなのだろう。

日本という国名の意味は『日の本=東側の太陽が昇ってくる場所』であるが、この国名にしても『中国大陸の東側(中国王朝よりも先に日が出てくる場所)』といった相当に当時の随・唐の王朝の大きさを意識した命名になっている。承平6年(936年)に、この日本の国号の意味(日出づる処の意味)が、日本国内ではなく中国大陸から見た意味になっているのではないかという質問をした人物に、参議・紀淑光(きのよしみつ)がいる。この問答は、『日本書紀』の『日本書紀私記(講義録)』に残されている。

日本に住んでいる人間の視点では、『日出づる処(日本)』は日本よりももっと東方にある地域になり、当たり前だが日本列島の内部から太陽が昇ってくるわけではなく、日本とは語義的には『太陽の昇る東方・東側』といった方角だけを意味している。どこから見た東側なのかといったら、中国大陸にある王朝から見た東側なのであって、日本という自称・独立の国号は、『中国大陸からの視点・中国王朝への対抗意識(冊封体制からの離脱意識)』がなければ生まれなかった可能性もあるのである。

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