大久保利通の一族・血縁(吉田茂・麻生家へのつながり)

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大久保利通(おおくぼとしみち,1830-1878)は、同じ薩摩藩出身の西郷隆盛(西郷吉之助,1828-1877)と並んで明治維新を成し遂げた『明治の元勲』として知られる大物政治家である。薩摩藩(現鹿児島県)の西郷隆盛・大久保利通と長州藩(現山口県)の木戸孝允(桂小五郎)を合わせて『維新の三傑』という。

征韓論で対立した明治政府に反乱を起こし『西南戦争(1877年)』で没した陸軍大将の西郷隆盛と比べると、大久保利通は明治政府の内部にいて長期にわたって政権の実権を掌握し続けた人物である。明治6年(1873年)に初代の内務卿(参議兼任)に就任した大久保利通は、近代的な官僚機構を整備して政府の実権を握ったため、その強大な権力集中は『有司専制』として批判されることも多かった。

明治初期の日本の近代化をトップダウンで推進したのが大久保利通であり、『富国強兵・殖産興業』のスローガンを各種の政策を通して実行に移していった。『学制・地租改正・徴兵令』などの明治政府の立案者も大久保だが、明治11年(1878年)5月14日に、新政府の士族圧迫の政治に不満を持っていたとされる石川県や島根県の士族らに紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)で暗殺された。明治の元勲の大久保利通は47歳の時に、この『紀尾井坂の変』でその生涯を閉じたのである。

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大久保利通は正妻(早崎満寿子,~1878)との間に4男1女を設けているが、更に当時の権力者・上流階級の男には妾(めかけ)がいることが多かったので、妾おゆう(杉浦勇)との間にも4男を設けている。大久保利通の子の『八男一女』は以下のようになる。

正妻・早崎満寿子との間の子……長男・利和(としなか,1859-1945)、  次男・牧野伸顕(まきののぶあき,1861-1949)、  三男・利武(としたけ,1865-1943)、  五男・石原雄熊(1869-1943)、  長女・芳子(よしこ,1876-1965)=伊集院彦吉(1864-1924)と結婚

妾・おゆう(杉浦勇)との間の子……四男・利夫(1867-1894)、  六男・駿熊(1870-1912)、  七男・七熊(1872-1943)、  八男・利賢(としかた,1878-1958)=利賢の子に大久保利春(おおくぼとしはる,1914-1991)

大久保利通の子でもっとも政治的な影響力を持ったのは、牧野家に養子に入った次男の牧野伸顕(まきののぶあき,1861-1949,幼名は伸熊)である。牧野伸顕(伸熊)は生後間もなく、利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子になったが、養父・吉之丞は戊辰戦争の北越戦争(新潟)で間もなく戦死してしまった。牧野伸顕は11歳で父や兄と一緒に『岩倉遣欧使節団』に加わって渡米、フィラデルフィアの中学で学び、東京帝国大学(当時は開成学校)中退後に『行政官・外交官・県知事』などを歴任している明治政府のエリートであった。

大久保家の家督を継いだのは三男の利武であるが、その子の大久保利謙(おおくぼとしあき)は実証歴史学の手法で日本史を研究した歴史学者として評価されている。娘の芳子と結婚した伊集院彦吉は外務大臣にまで上り詰めた政治家だった。八男・利賢の子の大久保利春(おおくぼとしはる,1914-1991)は、企業人として商社・丸紅の取締役専務にまで出世した人物だが、田中角栄の絡んだロッキード事件の政治疑獄で逮捕されている。

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1919年(大正8年)の第一次世界大戦後のパリ講和会議では『次席全権大使』として参加し、首席は西園寺公望だったものの牧野が実質的な全権として働き、人種差別撤廃の提案も行っている。牧野伸顕は内大臣として昭和天皇を補佐したこともあり晩年まで昭和天皇から深い信頼を寄せられていた。『2.26事件(1936年)』では親英米派と見られていた牧野も襲撃を受けたが、孫の麻生和子(吉田茂の娘)の機転によって辛くも窮地を逃れたという。

牧野伸顕には、仲通(なかみち)という男子と雪子という女子がいたが、この雪子と結婚したのが当時、親英米派・リベラル寄りの外交官だった吉田茂(よしだしげる,1878-1967)である。吉田茂は戦後日本を代表する長期政権を担った大政治家であるが、父親は土佐の民権運動家で自由党(反政府運動)に所属して長崎で処罰されたこともある竹内綱(たけのうちつな,1839-1922)で、衆議院議員や企業経営者などを務めた人物である。吉田茂は1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)として成功していた吉田健三(よしだけんぞう)の養子になっているが、吉田健三が40歳で早死にして莫大な財産を相続できたことが人生の一つの転機となった。

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吉田茂の政治的な最大の功績は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領統治下にあった敗戦後の日本を『サンフランシスコ講和条約』によって独立させたことである。米ソ冷戦構造を反映した朝鮮戦争勃発によって、日米の講和促進の機運が高まり、吉田茂内閣は1951年(昭和26年)9月8日に『サンフランシスコ講和条約(サンフランシスコ平和条約)』を締結して、更に同日、日本とアメリカが軍事・防衛面で連携する『日米安全保障条約(日米安保)』も結んだ。

吉田茂は1953年(昭和28年)2月に、質問者の西村栄一に対して『バカヤロー』と発言したことが問題になって解散にまで追い込まれたが、この第四次吉田内閣の衆議院解散は『バカヤロー解散』としてよく引き合いに出される。1963年(昭和38年)に政界を引退してからも大磯の自邸に政治家を集めて意見し、『大長老・吉田元老』として影響力を保ったとされる。

吉田茂の息子の吉田健一(1912-1977)は、英文学者・文学評論家として名前を残している人物だが、娘の吉田和子は九州財界の領袖で衆議院議員として国会にも影響力を持っていた麻生太賀吉(あそうたかきち,1911-1980)と結婚している。麻生太賀吉の祖父は福岡県の筑豊炭田で財閥を形成した大実業家の麻生太吉(あそうたきち,1857-1933)、父は麻生太郎(2017年現在の政治家の麻生太郎と同名)である。

内閣総理大臣(首相)の経験もあり現在の安倍政権で財務相を務めている麻生太郎(あそうたろう,1940-)は、この麻生太賀吉の長男であり、次男に泰、長女に信子(1955-)がいる。麻生太郎の妹に当たる麻生信子は、皇族の三笠宮寛仁(みかさのみやともひと,1946-2012)殿下と結婚していて、麻生家は吉田茂とも皇室・宮家ともつながりがある形になっている。

べらんめぇ口調で荒っぽいブラックユーモア(あるいは問題発言・失言)を披露することも多い麻生太郎が『血筋や毛並みが良いといわれる由縁』でもあるが、麻生一族は吉田茂の娘・皇族と血縁関係を結ぶことで、地方の九州財界を越える中央にもつながる人脈をより確固たるものにした一面もある。現代でも日本の先祖代々の政財界の有力者は、血縁関係で相互に結ばれた『閨閥(けいばつ)』を形成していることが少なくないのである。

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