フロイト以外の精神分析

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アルフレッド・アドラーと個人心理学

アドラーは、1870年にオーストリアのウィーン近郊のペンツィングで、裕福なユダヤ人穀物商のもとに生まれました。大勢の兄弟の中で育ったアルフレッドは、生まれつき身体が弱く、クル病という遺伝的な疾患も持っていたので強い劣等感に苛まされる事が多く、その事がアドラーの個人心理学の成立に大きな影響を与えたとされています。

アドラーは、フロイトが直面したユダヤ人としての民族アイデンティティや差別的待遇に関する悩みは殆どありませんでしたが、他者と比較する事で感じる身体的・社会的な劣等感をいつも抱えていたようです。アドラーは医学の道を志して、1895年にフロイトと同じウィーン大学医学部を卒業して、眼科や内科などの一般開業医として働く道を進むことになります。

アドラーは、1900年代に入ってすぐにフロイトの研究仲間に加わり、1902年にはウィーン精神分析協会に招かれ、1910年には同協会の代表にもなりましたが、本来社会的関心が大きかったアドラーは性的欲動(リビドー)を中心とした神経症理論を説くフロイトとの間に違和感を感じ始め、翌1911年にはフロイトと訣別して精神分析協会から離脱しました。アドラーは、ナチス・ドイツによってオーストリアが併合される前の1936年にアメリカへ亡命しましたが、翌年1937年に講演旅行中のスコットランドで死去しました。

アドラーは、自身の心理学を『個人心理学』と呼びましたが、これは、フロイトの精神分析が個人(自我)を幾つかの構造に分析するような理論であったのに対して、アドラーは『個人(individual)』分けられないもの(in-dividual)の全体であると考えていたことに拠っています。したがって、個人心理学の“個人”は、集団に対する個人という意味で用いられたものではありません。

個人心理学の中心的な概念は、相互的な協力関係を生み出す態度や意識を重視する『共同体感覚』、そして、『劣等感』『(劣等感の)補償』です。一般的に知られている個人心理学は劣等感の心理学ですが、それは、人間はそれぞれが他人よりも劣っている側面(才能・能力・知性など)や器官(身体的特徴・容姿など)を持っていて、それが“劣等感の形成”につながっていき、その劣等感や無力感、屈辱などを克服して乗り越えるために『(劣等感の)補償』が起こるというものです。

劣等感の補償というのは、自分が劣等感を抱いている分野とは違う分野で努力して良い成績を修めたり、他人より優越して成功の体験や達成感を味わう事で、劣等感を補うことです。そこで、補償がうまくいくと遂には劣等感を感じないようになって、積極的に劣等感を克服していくことが出来るのです。この劣等感の補償という概念の着想は、アドラー自身の人生と無関係ではありません。それは、自分の身体的特徴や身体的な弱さに対してアドラーが幼い頃から劣等感を抱いていて、その劣等感を医者になることや医学的研究の功績、学問的な成功で補償しようとしたという人生の経緯や価値観と密接に結びついているのです。

このような補償による社会適応の中には、劣等感の克服を目指すあまり過剰に補償が起こる場合も考えられ、そういった場合には『過補償』『過剰適応』という問題も起こってきます。また、アドラーは児童の教育にも強い社会的関心を持っていて、敗戦後のウィーンで世界で初めての『児童相談所(Child Guidanse Center)』を設立したことでも知られます。アドラーはロシア革命の凄惨な光景を目のあたりにして、『政治的な革命では個人の変革は不可能であり、育児と教育によってのみ個人のより良き変革が可能となる』という人間の内面的変容に関する考え方を持つようになったようです。

アドラーはフロイトの研究仲間としての文脈で語られる事が多く、精神分析と理論的にも近い印象を持たれていますが、彼の劣等感コンプレックスを中心とした基本的人間観は、精神分析というよりも後に展開される『実存主義』『ヒューマニスティック心理学』につながる部分が多くあります。

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カール・グスタフ・ユングと分析心理学

ユング(Jung, 1875-1961)は、1875年にスイスに生まれて、バーゼル大学医学部を卒業しました。1900年からは、チューリッヒ大学ブルクヘルツリ精神病棟に勤めて、ブロイラー教授の指導を受けました。ブルクヘルツリでは、ユング独自の『言語連想法』を精神分裂病患者に応用する研究を行っていました。

1907年にフロイトと出会って親密な関係となり、非ユダヤ人の精神分析主導者として精神分析運動の拡大に尽力しました。ユングは、言語連想研究の中で“コンプレックス(complex)”という概念を用いましたが、このコンプレックス概念は元々ユングの師であるブロイラーらチューリッヒ大学の一派が頻繁に用いていたものです。また、一般的な用語の“コンプレックス”は劣等感の意味で用いられることが多いですが、ユングら心理学者が用いたコンプレックスの概念はそれとは全く異なるもので、正式には“feeling toned complex”ともいい、『過去の感情を伴う記憶の複合体』とでも表現されるべきもので、複雑に様々な感情が組み合わさったものを指してコンプレックスと呼びます。

ユングはコンプレックス概念をとても重要なものと考えていたらしく、フロイトと訣別してから後に確立した『分析心理学』を“コンプレックスの心理学”と呼んだりもしていた時期があります。1909年にホールからフロイトがクラーク大学に招待された時には、ユングも同行して言語連想法についての講演を行い、クラーク大学から名誉博士号を授与されました。このアメリカのクラーク大学での講演あたりから、ユングはフロイトとの間に距離を感じ始め、旅行の最中にフロイトと交わした夢分析の話でも意見が対立してお互いに違和感を感じたりもしました。

それまで、フロイトはユングを自分の精神分析の後継者として位置づけて優遇しており、とても親密な師弟関係にあったのですが、ユングはフロイトの性欲理論やリビドーの発達理論などを支持することができず、理論的対立の為に1913年フロイトの下を去って、大学の職も辞します。そして、ユング独自の心理学である『分析心理学』を提唱して、心理療法を行う分析家として開業することになります。1921年には『心理学的類型』を出して、リビドー(生命エネルギー)の向かう方向に応じて性格を『外向性』『内向性』に大きく分ける類型論を展開し、更によく使用する精神機能に応じて『思考・感情・感覚・直感』のタイプに分類しました。フロイトは、力動論とリビドーの発達論によって性格を考える立場にたっていたので、基本的にユングの考えたような性格の類型論に対して否定的でした。

また、フロイトの考えた個人の精神の深層にある無意識を更に発展的に考えて、個人的無意識の更に奥深い部分には、神話や伝説につながるような『人類全体に共通する無意識』があるとして、ユングは『集合的無意識・普遍的無意識』の概念を提唱しました。また、その集合的無意識から現れ出る象徴としての『元型(archtype)』をユングは重視して、グレートマザー、シャドウ、アニマ、アニムスなど様々な元型を考え、夢や芸術作品に対して独自の象徴的解釈をしました。

フロイト以後の精神分析

ナチスのユダヤ人迫害を逃れてアメリカやイギリスに亡命し移住した精神分析学者の中で、それまでの正統派であったフロイトとは異なる精神分析の流れが現れてきました。フロイト以後の精神分析学派は大きく分けて、イギリスのメラニー・クラインを始祖とする『英国対象関係学派』アンナ・フロイトエリクソンなどの『自我心理学派』コフートらによる『自己心理学派』に分けられます。

アメリカに渡ったカレン・ホーナイやエーリッヒ・フロムらは、社会的・文化的要因を重視して、フロイトの生物学的で性欲の抑圧理論に偏向した考え方に反対しました。フロイトの末娘・アンナ・フロイトは、自律的な自我の働きを強調した自我論を発展させて、『自我と防衛機制』(1936)を書き表しました。精神の発達段階説として有名なライフサイクルや自己のアイデンティティ確立の重要性を説いたエリク・エリクソンもアンナ・フロイトと共に自我心理学の発展に貢献しました。アドラーやユング、フロイト以後の精神分析家たちは、フロイトの性的理論に対する固執に対して批判の動きを起こしました。

フロイトの精神分析は、神経症などの精神病理状態の原因として心理的要因を考え、その中心に性的欲動の抑圧を置いたこと、精神内界で幾つかの力が葛藤しているという力動論的な考え方を提唱したという点で画期的でしたが、その原因として性的な要因を過剰なまでに強調した背景には、19世紀後半のヴィクトリア王朝の厳しい性的道徳観とキリスト教的な価値観の強いヨーロッパ文化の影響があったと考えられます。

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