現代社会におけるひきこもりの問題とその心理

序文―社会的価値観の転換と若者を取り巻く家庭環境の変化
ひきこもりの心理を正しくとらえる
ひきこもりと現代の社会構造
絶望感と自尊心
統計から見るひきこもりの実態

序文―社会的価値観の転換と若者を取り巻く家庭環境の変化

『ひきこもり』という独特の響きがあるこの言葉が、一般的な用語として使用されるようになってどれくらいの年月が過ぎたのでしょう。ひきこもりは、おそらくどの時代にもある程度見られた現象でしょうし、現代の日本以外の地域でも起こっている現象です。そういった過去から地域を問わずあったはずのひきこもりが、何故、現代の日本においてこれだけ大きな社会問題や心の問題としてクローズアップされるようになり、英語圏でも『Hikikomori』という表記で通じるまでになったのでしょうか。

それは、過去の経済的に十分な発展が出来ていなかった時代・地域において、ひきこもれるのは特別に裕福な階層の人たちだけであったために社会全体の問題として考える必要がなかった事がまず第一点として挙げられるでしょう。日本でも、戦後から長らく続いた経済的に貧しく、物資が乏しい時代には、働き盛りの若者が家にひきこもって生活をする事は、家計の事情から不可能であったと考えられます。高度経済成長以前にも、ひきこもりの人はいたでしょうが、それは恵まれた裕福な家庭環境に生まれた人だけだったでしょう。

また、当時は明治以来の家制度の名残があり、家父長的な雰囲気が家庭にあって、父親の絶大な権威に基づいた叱責・指導を恐れる子ども達が多かった事も、ひきこもりが少なかった原因として考えられます。年齢を重ねて、精神的に自立し、経済力をつけて家を出る事には、当然、当時の青年たちも不安があったでしょうが、それまでの両親の監視から離れて自由に自分の人生を生きていく事が出来るという解放感や希望もあったはずです。

戦後しばらくの儒教的な道徳観がまだ社会一般に浸透していた時代には、『長幼の序(目上の人を敬い、尊重し、その発言に重きをおく)』や社会的な立場の違いを明確にする為の『言葉遣い(敬語)』や挨拶・食事・服装・態度・身なりなど生活全般にわたる礼儀作法が社会生活、家庭生活の中で厳しく守られていて、年上の者の言う事に年下の者は逆らってはいけないという価値観が広く認められていました。

長幼の序という儒教道徳は、どういった時代背景の中から生まれたのかというと、古代中国の春秋戦国時代という非常に混迷を極めた戦乱の中から生まれました。それは、本来、自己の利益や快楽を主張して争いあう危険性のある不安定な人間社会を安定させる為の知恵だったと思われます。つまり、儒教の道徳の大部分は、ある一定の社会秩序を維持する為に考案されたもので、それが長い歴史を経る間に伝統となり、慣習となって、江戸~明治期の日本では慣習的な社会規範としての力を持つまでになったのです。

もちろん、儒教だけではなく、科学知識に基づく産業が発達していない前近代的な社会、高度な情報化された資本主義システムが確立していない地域では、現在でも非常に老人が尊敬され、その集団の中で若者よりも大きな発言力と権力を持つ村長のような立場にある事があります。かなり、ひきこもりのテーマからそれているように思う方もいるかもしれませんが、ひきこもりの問題は社会構造や経済制度、教育体制、社会の中心的価値観とけっして無関係な訳ではないので、こういった歴史の分野や社会を研究する社会学の分野の知見も導入して考えていく必要があると私は考えています。

では、何故、経済が発達していない農業や狩猟を中心として生活する前近代的な共同体では、長幼の序に代表されるような年功序列的な上下関係が道徳として多くの人に認められるのか。それは、過去と同じような生活状況を安定して維持する事を目的とする前近代的な村落共同体では、正に『生きている長さと必要な知恵の深さ』が比例するからです。

現代社会で高い価値を持つ高等教育によって得る詳細な科学的知識、科学の応用で実用化される技術や激しい市場の競争に打ち勝つ為の情報収集能力や法律の知識、統計から学ぶ組織の経営能力などという『意識的な学習による知識』は、現物経済や協働による平等な分配によって生計を立てる村落共同体には殆ど必要とされず、毎日の生活の繰り返しの中から自然に体得される『農業の方法・狩りの方法・宗教行事の実施・気候や天気に関する知識・村のルール・争いごとの調停・薬草や民間療法の知識』など『人生経験によって身に付ける知恵』が非常に重要となってきます。

だから、かつての高齢者は若者よりも物知りで、社会を生きていく為の情報をより多くもっているのが普通でした。目上の者から目下の者へと社会を運営する知恵が伝承されてきていたのです。昔話に出てくる博識な賢者や不思議な能力を持つ仙人、霊験顕かな導師の殆どは白髪に長い髭を蓄えた老翁ですが、それは理由無き事ではなかったという事です。それが可能なのは、前近代的な社会が、静的モデルで表される変化の少ない一定の秩序を保っていく恒常型・循環型の社会だったからです。過去の知識が現在でもそのまま有効なものとして通用するのですから、当然長く生きている人が新たに産まれた人よりも博識で、有能であり、尊敬を集めていたという事です。

ところが、あらゆる分野が複雑化して専門化し、変化の激しくなった忙しい現代社会では、昔の知識を現在の生活にそのまま適用することが難しくなってきています。特にパソコンの操作、プログラム言語、インターネット関連の知識などのIT分野は日進月歩で、日々変化し進歩していて『新しい知識は必然的に古い知識よりも有効』なものとなっています。WINDOWSをアップデートしたのに、以前よりも性能が落ちたとなれば、誰もが苦情や不満を言うでしょう。現在では、古い知識よりも新しい知識が経済的利益を産むために、偏重されて重視されている為に、古い知識だけしか持っていない人も軽視されやすい風潮があります。

例えば、かつては学問の王道だった哲学の知識は雑学的なものとなり、かつては為政者の基本的素養とされた『四書五経』やその他の古典文学の教養は、文学部の大学教授や国語の先生にでもならない限り、その知識を貨幣価値に還元することが出来ません。その事から、実際的な考えを持つ大勢の人は、古典よりも経済的利益に結びつき易いパソコンの知識や株式・金融・経済など実学の知識、会社経営のための経営情報学、専門職に就く為の医学や法学、語学を学ぼうとします。高齢者になるほど、最先端分野の知識は少なくなりがちで、新しい事を習得する学習能力が衰えてきますから、その結果として高齢者の市場価値は小さくなっていきます。

こういった人間を実際的な能力だけを規準として評価する考え方が正しいものではないという倫理的な直観は働きますし、高齢者の中にも素晴らしい人格と結びついた豊かな学識や熟達した技術、人生の長い経験に裏打ちされた生きる知恵を持っている方は大勢います。ただ、現代社会の中では、高齢者は必ずしも社会の中心的人物として高い評価を受けているわけではなく、社会全体が背負う保護や扶養の対象、現役としての仕事を終えた隠居の身として評価される事が多い事もまた事実です。政治をはじめとした多くの分野では、リーダーシップを取る人たちの平均年齢が下がり、『改革を成し遂げる為の若返り』として好ましい現象として受け止められています。

ここまで述べてきた事をまとめると、現代社会の中心的価値観が、『年齢的な長幼の序』から『実際的な能力の序』へと移行し、年長者が年下の者よりも必ずしも高い立場ではなくなってきている事、それに付随して子どもが両親に対して敬意を払い、誕生と養育に対する感謝をして、成長して親に忠孝を励むといった家族内の人間関係における長幼の序もなくなってきている事が言えます。

これは、必ずしも悪い傾向とはいえませんし、社会をより効率的に運営し、より豊かな経済発展を成し遂げる為には、年齢的な長幼の序に従うよりも、実際の能力が高い人をより上の立場にしたほうが良いという事が言えるでしょう。

家族関係も、明治時代のような頑固親父が絶対権力を握って、子どもを厳しく支配的に教育するほうが良いとは言えません。子どもは親の所有物ではなく、一人の独立した人格として尊重しなければなりませんから、無条件に親の命令や支配を受けるというのは人権思想の観点から不条理といえますし、親の価値観や考えが必ずしも正しく公正なものとは限りません。

ただ、過去の厳しい父親像や両親への尊敬がなくなる事と家の居心地が良くなり過ぎる事は関係していて、自立して外に出て行く動機が育ち難くなる一つの原因になる可能性はあるかもしれません。ひきこもることによるデメリットと社会に参加して働くことによるデメリットを比較して、将来の大きな不利益には目をつぶってしまい、短期的な利益(目先の安逸)を嫌々ながらも選んでしまう結果になるのです。何故、嫌々ながら選択しているのかというと、ひきこもりになっている人たちの多くが『このままではいけない。何とか今の状況を変えるきっかけを見つけたい。今の自分は本来の自分ではないし、このままでは苦しいばかりで幸せではない』という悲痛な思いを抱えているからです。

もし、本当に幸福な気持ちで自分の本当にやりたい事をしながら満足してひきこもっていて、経済的にもひきこもる事が許され、両親もそれを受け入れる事ができるならば、特別な治療や心理的援助の必要性はありませんが、そういったひきこもりのケースは極めて稀です。また、自分自身の働きによって得た財産でひきこもるならばともかく、一方的な援助によってひきこもるのは誰しも少なからず良心の痛みや不快な無力感による自尊心の傷つきを覚えるものです。

ここでは詳しく述べませんが、都会部では地域社会の結びつきが弱くなり、隣に誰が住んでいるかも知らないような生活環境の中で世間体を余り気にしなくて良くなった事もひきこもり現象の増加と関係しているでしょう。忙しく毎日の仕事や雑事に追われるような現代社会の中では、自分と自分の家族の事で精一杯で、他人の生活や気持ちを気にかける余裕を多くの人が失ってしまっています。ルース・ベネディクトの『菊と刀』で述べられている日本人の道徳規範として機能していた『恥の文化』は急速に衰退して、精神的な恥の文化から経済的な虚栄心や表面的な華やかさの競い合いである『見栄の文化・享楽への文化』へと内実が変容しているように思えます。

個人のプライバシー保護と他人の生活への不干渉を重視する自由主義と個人主義の現代では、むしろ、『自分のことには構わず、ほうっておいて欲しい。大して興味の湧かない他人と付き合うのは煩わしいだけだ。』という人が増えているという現状もあって、自分から積極的に社会や他者と関わりをもとうとしないひきこもりの人たちは、家族の人たち以外とは全く接触の可能性が閉ざされていることが殆どです。ひきこもりの人に友人がいる場合でも、しばらく社会的活動を離れてひきこもっている間に、どんどん連絡が疎遠になって孤立状況を深めてしまいます。そして、その経験が『他人は、すぐに裏切るから信用できない。長い間、学校や仕事に行っていない自分を心配してくれる他人はいない』という頑なな信念に繋がっていってしまい、更に社会に出る勇気が起きなくなるという悪循環に陥ってしまいます。

ひきこもりの心理を正しくとらえる

ひきこもりの一応の定義は、厚生労働省によると『6ヶ月以上、家にひきこもっていて、学校・職場などに行かない状態』と定義されていますが、この定義はほとんどひきこもりの心理的特性には触れておらず、極めて表面的な現象と事態を言い表したものに過ぎません。そして、『6ヶ月』という期間にひきこもりか否かの基準を置くことは、私自身はあまり重視する必要はないと思います。飽くまでも、行政的なガイドラインとして参照するに留まるでしょう。

ひきこもりであるか否かの基準には、やはり、そこに社会生活を営むことを難しくさせる社会恐怖(対人恐怖)や抑うつ状態、著しい自信や自尊感情の低下などの『心理的な問題』があるかどうかという視点が大切です。

6ヶ月以上、家にひきこもっていても、十分なお小遣いを両親から与えて貰って、友人と携帯で緊密に連絡を取り、誘いがあれば遊びに出かけ、服装やショッピングなどにも関心を持っていて、異性との付き合いにも積極的であるが、特段の用事がなければ家にひきこもってゲームやパソコンをし続けているというような場合、多くの人はその人をひきこもりであるとは言わないでしょう。

まして、自分自身で稼いだお金を貯めていて、何年間か自宅で遊び暮らしていても、ひきこもりという範疇には入らないと考えますから、ひきこもりの定義の項目の一つには、『仕事や学業などのその年齢に応じた社会的行為を一切行わずに、近しい家族に一方的に生活を依存しながら家に閉じこもっている状態』があると考えられます。

外部からの援助を必要としないひきこもりに類似した単純な怠けの状態では、親から用意された恵まれた環境の中で、『自堕落な生活に陥っている』あるいは『怠惰で規律のない生活をしている』といった評価をされるのが普通です。そういった怠けている場合でも、その人に問題がないわけではありませんが、ひきこもり特有の抑うつ状態や自尊感情の低下、対人恐怖といった心理的な問題は抱えていないと思われます。

ただ、怠けの場合には『楽を出来る環境がある限り、面倒で嫌な事はしないで、楽しい事だけしていたい』といった心理が強く働いている為、人に依存し過ぎない自立した生活を行えるようにする環境調整を中心とした対応が必要になってきます。

勿論、ひきこもりの問題も、『嫌な苦労の多い事から逃げて、安心できる家の中で守られていたい』という心理がありますが、ひきこもりではない単純に怠惰な人との大きな違いは、『ひきこもっていても本人が楽しそうではない。友達や恋人もいなくて、外部との連絡が完全に途絶えている。家族に向けて怒りや苦しみを暴力的に訴えてくる事がある。』といったことが挙げられると思います。

これらの事柄は、ひきこもっている本人が『自分は本当はこの閉塞したひきこもりの状態から何とかして脱け出したい。だけど、どうやったら脱け出せるのかの道筋が見えてこない。』という切実な願いを持っている事を示唆していると考えられます。

先ほど、厚生労働省の指針では、6ヶ月間のひきこもり期間が基準とされていると言いましたが、実際的な指標としては1年以上のひきこもり期間を基準とするくらいが丁度いいのではないかと思います。

それは、数ヶ月~6ヶ月という比較的短い期間を基準にしてしまうと、ただ、学校での友人関係がちょっとうまくいかずに悩んでいたから学校に行けなかったりとか、好きな人に告白して冷たく振られてしまったショックで少しの間、落ち込んでいたとか、思春期の高い自意識や観念的な志向の影響で、色々なことを考えていてしばらく外に出る気分になれなかったりといった『一時的な心の悩み』の場合があるからです。

ひきこもり期間の長さがどれくらいであるのかという事もひきこもり問題の解決を模索する中では重要な事項となってきますが、あくまでも本人の心理状態や気持ちを勘案しながらひきこもりの事態に対処していく事が最も必要なことです。俗にひきこもり期間が長くなればなるほど、その状態から脱け出せなくなると良く言われますが、それがある程度、一般的なひきこもりの事態に妥当するものであっても、人間個人の性格や価値観、自己イメージといった個人差にこそ強い注意と関心を払わなければならないと私たちは考えています。

一年以上ひきこもっている場合でも、受験勉強や資格取得の勉強に励んでいるなど目的がはっきりとしていて、本当に意欲的に勉強している場合や作家、漫画家や研究職などのように室内で行う仕事を生業としていて、ひきこもっていても経済的に社会参加できている場合などは、問題とすべきひきこもりとは言えないでしょう。

ひきこもりという現象で真に問題とされるべきは、ひきこもっている本人が苦痛を感じる『年齢相応の社会的活動ができないこと』、『年齢相応の対人関係能力がないこと』、『心の病気と関係した適応障害』なのです。

そういった種々の問題を引き起こす原因は様々ですが、代表的なものとしては、『学校でのいじめ・学業不振・受験の失敗などから不登校を経てひきこもりになる場合』、『学生時代には何の問題もなく学校に通学していたが、社会に出てから職場環境に馴染めず、また高い理想とプライドのために一般的な職業にも適応できなくなって退職と出社拒否を繰り返してひきこもりに至る場合』とがあります。

もし、ひきこもりが1年以上の長期に及び、それが慢性化していて何ら自発的な改善の兆しが見えない場合、本人と問題解決のための冷静な話し合いが持てない場合には、心の病気との関係も視野に収めて、心理学や精神医学の専門的知識を持つ第三者に入ってもらって相談する必要があると思われます。そういったひきこもりが慢性化した状態では、日常生活を同じくする家族の説得や指導だけで、そこから脱け出すことは非常に困難だと考えられるためです。

ひきこもりの問題は、還元すれば『社会環境と対人関係に適応できないという不適応の問題』です。家に閉じこもっていても、特別な創造力や文筆の才能、コンピューターの知識などを活かして自立するだけの社会適応が出来るならば、それは少なくとも社会適応上の問題は無いと考えられます。その場合にも、対人関係の適応を欠いているという問題はあるかもしれませんが、それは社会適応が出来ていれば、他人に迷惑をかけない限りにおいて許容される問題といえるでしょう。

こういった適応上の視点からひきこもりを論ずると、『学校は個人の自由や権利を抑圧する場所だから、行きたくなければ行かなくてもよい。学校が全てではないんだから、他の道を見つければよい』という自由至上主義的な価値観から異論を唱える方もいますが、それはそういった価値観を持つ個人には通用する論理でも、学校に行かないデメリットが分かっていて、出来るならば学校に通って卒業したいという希望を持って悩んでいる子どもやその親御さんに対して出す答えとして一般的な妥当性のある答えとはならないでしょう。

『学校に行きたくても行けない。自分の就きたい職業に就くためには、学校に行かなければならないと分かっているのに何故か気持ちが前向きになれない』という思いを持って悩んでいるならば、心理的な援助をする立場にあるものとしては、当然、本人の希望と社会的価値観に合う形で適応に向けた援助をしていくというのは当然の事です。

とりあえずは、周囲でひきこもりの人を支援する立場にある人は、本人が『これからどうしたいのか。現状からどのような方向に向けて変わっていきたいのか』という真実の声にゆっくりと耳を傾けなければなりません。

そして、社会や他人と長い間、隔絶された環境で生活していた為に、常識的感覚が弱くなっていたり、対人関係への恐怖が高まっている場合には、専門的なカウンセリングなどの対処が必要です。また、閉鎖されたひきこもっている環境の中では、視野が狭くなって、自分が将来、どのような人生を生きていきたいのかを考えるにあたっての情報や知識が不足している事もありますので、客観的な立場から社会や仕事に関する十分な情報を与えて一緒に悩み考えていかなければなりません。

『外に出て自分の力で生活できるように頑張って欲しい』という情緒的な応援だけではなく、ひきこもり状態からの脱却に向けて、身なりを整えたり、必要な教育を受ける為の経済的援助や幅広くその人のためになる情報提供をするといった知的支援も含めた総合的な心理的ケアと思いやりのある温かい支援が必要なのです。

ひきこもりと現代の社会構造

ひきこもりの増加と社会的価値観との関係については、冒頭でも触れましたが、学歴偏重主義や競争の激しい市場経済の中での労働とひきこもりは密接な関係があると考えられます。

一時期に比べて、学歴を過度に重視する学歴主義の影響は弱まってきましたが、それでもなお、多くの学生たちにとって勉強ができるかできないかという学力の問題は、自分の人生の進路を決める大きな問題であると受け取られていて、学業不振は大きなストレスとなっています。また、勉強だけが全てでないという事は当然なのですが、勉強が出来ない事以上に、友達と楽しい時間を過ごす、他人と上手く関係を持って遊ぶという『対人関係能力が低い場合』に不登校やひきこもりの問題につながる可能性が高いようです。

そういった対人関係能力が低下する原因でもっとも大きなものは、学校でのいじめであり、いじめられて学校へ行けなくなった事を契機にして、集団生活への適応性がなくなったり、他人とうまくコミュニケーションを取る事が出来なくなって、家に閉じこもりがちになることが良くあります。

最近の若者世代を見て感じる事は、『美しいもの・かっこいいものに非常に高い価値を認めるという傾向』です。これは、ファッションやコスメ(化粧)業界の加速度的な隆盛を見ても、明らかなように、自分を美しくかっこよく装うという事は若者達にとって、同世代の友人に仲間として受け入れてもらう為にとても大切な行為になっているようです。

若者を中心として個性や自由の尊重が叫ばれる現代ですが、実際には綺麗なもの、美しいもの、清潔なものに過度にこだわる『価値観の画一化』の現象がよく見られます。だから、自分自身の容姿にも能力にも人格にも自信が持てない若者は、画一化した価値観の中でいったん低い評価を周囲からされてしまうと、なかなか集団の中に入っていく勇気が起きず、他人に対して臆病に、そして消極的になってしまう事があります。

いじめというのは、周囲とは違う異質性のある特徴を持つ人を作り出して集団から排除しようとする(個人主義とは反対の)集団主義の村八分的な価値観の中で生まれる現象ですから、そういった集団からの疎外を経験した人が集団に対する恐怖や嫌悪を覚えてしまうのは自然なことです。そして、いじめから発展するひきこもりの問題とは、学生時代に経験したような排他的な集団生活を、社会の中の一般的な集団にまで拡大的にあてはめてしまって、学生時代を終わってもどんな集団にも入れなくなってしまいひきこもり状態に至ってしまうことなのです。いじめは日本の学校環境において特徴的に見られる現象で、欧米では日本ほどいじめや仲間はずれは深刻な問題とはなっていません。それは、元々、集団主義的価値観が強かった日本と、伝統的に個人主義の価値観が浸透している日本と欧米の文化的差異と言えるのかもしれません。もちろん、集団主義と個人主義それぞれ一長一短がありますから、どちらがより優れた考え方であるという判断は一概には出来ません。

社会が高度に発展して複雑化し、学力競争、経済競争が激化する中で人々は大きな不安と苦悩に曝されています。自分の能力によって社会の中で序列化される事で、他人と比較して優越感や劣等感をどうしても感じてしまうことがあるでしょうし、そういった厳しい競争社会の中で対人関係能力が低いと完全に孤立してしまって、淋しさや心細さ、世間の無情さを感じる事もあるでしょう。そういった数多くの試練をうまく乗り越えられない場合に、社会への不適応・対人関係能力の低下によってひきこもりの問題が立ち上がってくるのです。

これは、複雑化し高度化して息苦しく余裕のない生活を強いられる社会構造の問題であると同時に、そういった社会で生きざるを得ない私達個人の心の問題でもあります。社会構造を変えていくといったお話になると、それは政治や経済の話になってしまうので、ここでは社会を構成する私達個人がどのようにして厳しい現実社会に適応する強い精神や他者との温かい関係性を作っていくのかが重要な課題となってきます。

そして、私達一人一人が、それぞれ違っている個性や生き方を認め合い、支えあっていける関係を作っていければ、ひきこもり問題に限らず、あらゆる心の問題の解決につながる住みやすい、そして、生きやすい社会を作っていけるのでしょう。

絶望感と自尊心

会社や学校をやめて、漫然と家の中にひきこもっている人たちの多くは、完全に無能なわけではなく、取り立てて人より劣っているわけではありません。

特に、一流と呼ばれる大学や進学校とされる高校を中退してひきこもったり、元々、優秀な成績をとっていた子どもでいじめや何らかの出来事をきっかけにして不登校になったりした人たちや一流企業を退職してひきこもっている人たちは、『自分はエリート路線を脱線して、生きる価値もないダメな人間なのだ』『まともに学校や仕事にいけない落ちこぼれだ』という絶望や諦めもありますが、それ以上に『自分は優秀な人間で、本来なら人から尊敬されるような立場にいるはずなのに、運が悪くて今はこんな不本意な生活をしているのだ』という『強い自尊心(プライド)』を持っていて、絶望よりもプライドが邪魔して社会に適応出来ないという場合が往々にしてあります。

この誇大な自尊心は、認知心理学でいう『全か無か(all or nothing)』という極端な『偏った認知(物事の捉え方)』につながっていきます。これは具体的に言うと、『自分は東大に入れないくらいなら、どの大学にも行かず何もしないほうが良い』という認知だったり、『こんな並のレベルの仕事をするくらいなら、何もしないで無職でいるほうがましだ(自分は本来、こんな仕事をするべき人間ではないのだという特権意識)』という尊大な自己意識であったりします。

こういった心理の背後には、絶えず自分は人よりも優れた上の立場でいなければならないという強迫的な観念と自分よりも能力の劣る(と自分が思う)人から指示を受けたり、命令されたりするのは癪だという他人を劣等視する(多くの場合は現実とかけ離れた)『誇大な自意識・自己愛に似た特権意識』があります。

このような場合には、絶望感と両輪をなす高い自尊心を生み出す『全か無か(all or nothing)』の硬直した認知の枠組みをもう少し柔軟性のある認知に変えていかなければなりません。そして、認知の変容と共に、誇大な自尊心を現実的状況に対応した水準にまで下げていかなければなりませんが、これは基本的な性格や気質の部分とも関わってきますのでなかなか難しく時間のかかる作業になります。こういった極端に高い自尊心が育まれた背景には過保護な生活環境の影響と同世代の友人との接触交流の少なさが関係しているように思えます。

自分と同じ程度の能力を持つ切磋琢磨できる友人を持つことは、適切なレベルの自尊心を育てるためにとても大切な事です。そういった友人との接触がまったくなく、自分一人の世界の中で、数値で表されるテストの結果のみを基準にして自分の能力を他者と比較しているような人の場合は、受験の失敗や学業成績の低下などのストレスに対して非常に脆くなり、『自分が特別だという間違った自己愛的な優越感』に陥り易くなります。

また、自尊心が高ければ高いほど、周囲の人が自分をどのように見ているのかという自己イメージに過敏になりますから、『あの年齢になって、就職も進学もできずに昼間から何やってるのだ?』といった周囲の視線を過剰に意識してしまい、昼間にぶらぶらと出歩く事すらも出来なくなり、ひきこもりの殻がますます固くなってしまいます。仕事もせず、学校に行っていない自分に対する恥の意識が強い人ほど、プライドの高さもあるので、なかなか外に出かける事が難しくなってしまうのです。

高い自尊心や自己愛が生まれる背景として、上記で触れた日本の過保護な養育環境の影響ももちろん考慮して考えていかなければならない問題です。また、愛情の過剰である過保護な子育ては、ひきこもり以外にも境界性人格障害や自己愛性人格障害の形成とも関係してくると考えられています。

境界性人格障害やPTSDという過去の心的外傷によって起こる精神病理の原因として日本に特徴的なのは、アメリカが90%近く虐待(性的虐待・身体的虐待・精神的虐待)で起こるのに対して、日本では50%以上が過保護によって起こるとされています。豊かな愛情を持って子どもを育てることはとても大切な事ですし、良い事ですが、子どもの自然な自立心や独立心を剥奪するような過剰な愛情の掛け方はむしろ子どもの将来の幸せを阻んでしまう可能性もあるので注意が必要でしょう。

統計から見るひきこもりの実態

ひきこもりの発生年代『全国ひきこもりKHJ親の会・東海』より
発生年代割合(%)
小学生時代6%
中学時代20%
高校卒業から成人まで13%
大学から成人世代40%

発生年代から上の表にあるように、成人の年代が最も多く、ピークは20代後半から30代前半です。そして、大学卒業後にいったん就職したもののその会社をすぐに辞めてしまい、その後数多くの仕事やアルバイトを経験した後にひきこもってしまうというパターンが、20代の全体を通して多く見られます。成人世代以外のひきこもりで多いのは、いじめや学業不振によって起こる高校時代でのひきこもりです。

ひきこもりに至る原因は、千差万別で人それぞれですが、最も多いのは友人関係がうまくいかない、職場の人間関係が気まずいなどの『人間関係全般』で、42%を占めます。それに次いで、『いじめ・17%』、『信頼していた人の裏切り・5%』といった人間関係と類似したものが続きます。

その他の原因としては、『受験の失敗・5%』、『怪我・病気・5%』、『近親者の死去・4%』、『原因不明・14%』といった内訳になっています。

ひきこもりの男女比は、多くの調査では、圧倒的に男性が多いという結果が出ていて、男性が占める割合は大方70~80%程度であると思われます。ひきこもりと家庭内暴力との相関は有意にあります(約半数ほどが何らかの暴力行為を家族に向けているという統計があります)が、多くの人はそれほど継続的に激しい暴力を振るうわけではなく、一人で静かにゲームや読書、テレビを楽しんでいる場合が多いようです。

ひきこもりの状態そのものについては、『全く家(部屋)の外に出られない』という人は、15%に止まります。『自分の買い物などの用事であれば、外出できる』60%であり、それに次いで『夜間・昼間などの時間帯であれば出られる・25%』となっていて、『社会的活動としての仕事や学校以外の通常の外出』にはそれほどの困難がない場合が多いのです。

そして、『全く家(部屋)から出られない』よりも、更に状態が悪いと思われる『全く部屋から出てこず、家族ともコミュニケーションが取れない』が、約15%程度います。この重いひきこもりのケースは、女性よりも男性に多く見られる事が多いようです。

現在は、男も女も同じように働くべきだという男女同権の考え方がかなり普及してきてはいますが、まだ、男性はしっかりとした仕事を持って自立して生きていかなければならない、夫は、妻や家族を養っていかなければならないといった社会常識からの圧力が男性にはあります。そのため、男性は女性よりも自立して仕事をする事に対するプレッシャーが強くかかり、それに打ち負かされて気分が抑うつ的になりひきこもりがちになりやすい事が考えられます。

男性のほうが仕事に対する重圧を感じ易い事の現れとして、女性で無職の場合には『家事手伝い・主婦』といった表現があるのに対して、男性は一般に『無職』といった表現が公的にも用いられます。主夫という言葉が現在では、確かに新しい版の国語辞典には載っているようですが、まだ、現時点では、なかなか胸を張って『主夫をしています』とは言い難い社会一般の風潮があることもまた事実でしょう。特に自尊心の高い人ほど、仕事をしていないという現状と向き合う事に不安や苛立ちを感じる事が多く、また職業に対する理想が高いので、なかなか現実的に状況が打開できないという困難な事態になってしまいます。

ひきこもりになる原因から、ひきこもりの型を分類してみると以下のようになります。

ひきこもりの原因と分類
<分類><原因となる出来事>
いじめ型いじめられた事がきっかけになりひきこもる
虚弱型肉体的・精神的な弱さがあって集団生活に適応できずにひきこもる
家庭問題型夫婦の不仲や離婚、親子関係の悪化などの家庭の問題が原因でひきこもる
学力低下型学校の勉強についていけない、または、自分のプライドが許さない成績低下の為にひきこもる
精神障害型うつ病、統合失調症、人格障害といった心の病気によってひきこもる
この場合は、ひきこもりよりも精神疾患の結果としての問題として見る事が必要です。
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