シャクターの情動二要因理論と情動の形成機序

ジェームズ=ランゲ説

ジェームズ‐ランゲ説とは、アメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズとデンマークの心理学者カール・ランゲが提唱した情動の形成過程にまつわる理論で、生理学的反応が情動経験(感情の自覚)よりも先に起こるという説です。

『心拍・血圧・呼吸などの身体の生理的変化』『喜怒哀楽の精神の情動体験』の間に密接なつながりがあるという事は明らかなことですが、ジェームズ‐ランゲ説は『悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ』という言葉に象徴されるように常識的な情動の形成とは逆の心的過程を考えるところに特徴があります。

常識的な人間感情の理解では、『大切な人を喪失したという悲哀感情』がまずあって、その後に『悲しみの余り涙を流す』という生理学的反応が起こるという時間的順序を考えます。ここでは、情動(emotion)と感情(feeling)をほぼ同義の用語として用いますが、厳密には情動のほうがより原初的な快・不快に近い感情内容であり、その持続時間が短く感情の程度が生理的変化を伴うほどに激しいという特徴を持っています。

普通の感情形成過程の理解は、『外部刺激→感情体験(感情反応)→生理学的変化(涙を流す・血圧の上昇・呼吸数の増加・筋肉の緊張や弛緩・表情の変化)』といった時間的生起の順序を持って理解されていますが、ウィリアム・ジェームズとカール・ランゲは『外部刺激→生理学的変化・行動の形成→感情体験(感情の自己知覚)』といった時間的順序で情動の形成過程を捉えなおしたのです。

ジェームズ‐ランゲ説は、『情動の末梢神経説』とも言われ、末梢神経系の生理学的反応が自覚的な情動経験に先行して起こるという考え方を意味します。悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのであり、嬉しいから笑うのではなく、笑うから嬉しいのであり、敵意を抱くから怒るのではなく、怒るから敵意を抱くというのがジェームズ・ランゲ説の考え方です。

ジェームズ・ランゲ説の興味深いところは、自分自身の情動の生起を経験するよりも早く、涙が流れたり、心臓の鼓動が早くなって発汗したりといった生理学的反応が起こるという事です。これは、恐怖体験の瞬間を思い起こすと分かりやすいのですが、突然、自動車が自分の真横をビュンとぶつかりそうな距離で走り去った時などには、やはり生理的反応が感情の自己認識よりも先に起こっています。

危険運転をする車が走り去った瞬間には、心臓がドキドキと激しく脈打ったり、背筋が冷えるような感覚を感じたりして生理学的変化が起きます。その後に、危なかったなという恐怖を認識し、あの車は何処見て運転してるんだと怒りを覚えたりします。他人と喧嘩をするような緊張状態に急に置かれた時も、喉がカラカラになったり、手に汗をかいたりしてから、相手への怒りや攻撃欲求を確認したりすることが多いことに気づくでしょう。

キャノン=バード説

身体の生理的変化が、内的な情動経験に先駆けて起こるとしたジェームズ‐ランゲ説に反論したのが、シェリントンウォルター・キャノンです。シェリントンは、末梢神経の自律神経系を損傷した犬が、心臓などの内臓器官からのフィードバックを脳に受けることの出来ない状態で情動反応を見せた事例を挙げて、ジェームズ・ランゲ説の矛盾を指摘しました。

キャノンは、同一の生理学的変化が、複数の情動経験で起こることを挙げて、ジェームズ‐ランゲ説では複数の質的な差異のある情動経験の存在を説明できないという反論をしました。更に、自律神経系を介在する微妙な弱い生理的変化は、通常、知覚することが困難であることや内分泌系の副腎皮質ホルモンによる感情形成過程に関してはタイムラグがあり過ぎることを指摘しました。しかし、現段階では、ジェームズ‐ランゲ説の骨子である『生理学的変化が情動の自己認知に先駆ける』という部分は基本的に正しいと考えられています。

キャノン‐バード説は、ジェームズ・ランゲ説が『情動の末梢神経説』とすれば、『情動の中枢神経説』とも呼ぶべきもので、脳(中枢神経系)の『視床』という器官で情動が形成されるとする説です。

キャノン・バード説では、末梢神経系の生理学的変化を起こす前に、脳の視床で外部事象の情報処理をして状況の正確な知覚を行います。そして、大脳新皮質の記憶機能や運動機能と協調することで、情動の経験が起こります。視床は、末梢神経系に生理的変化を引き起こす信号を送りますが、末梢神経(末梢器官)が変化するスピードは遅いので、通常は『情動の経験・知覚』のほうが先に起こることになります。キャノン‐バード説は、生理的変化よりも情動の経験が先に起こるとした点でジェームズ‐ランゲ説とは異なっています。

情動の経験と表出に関する理論は、その他にもトムキンスやゲルホーンらの『顔からのフィードバック説』というものもあり、これは感情と対応した顔の表情を作る顔筋の変化が脳幹や大脳辺縁系、視床下部などにフィードバックして情動の経験と自覚を生じるというものです。つまり、主観的な情動の経験よりも先に、顔の筋肉の変化が起きて感情に合った表情が作られることによって情動が自己知覚されるという考え方が『顔からのフィードバック説』と呼ばれるものです。

シャクターの情動二要因理論

上述してきたジェームズ・ランゲ説とキャノン・バード説は、外部刺激が身体の生理的変化を引き起こし、一義的に情動の経験をもたらすという意味で共通点のある情動形成過程の説明理論だといえます。しかし、この2つの説明理論では、『身体の生理的変化が同一なのに、異なる情動の経験があるという事実』をうまく説明できません。

例えば、頭に来て怒っている時には、心拍数が増加して発汗量が増しますが、好きな相手に告白しようとして緊張している時にも、心拍数の上昇や発汗量の増大という同じ生理的変化が見られます。有名な心理学実験に、ダットンアロンが行った『吊り橋実験』(1974)というものがあり、この実験では被験者の男性は『吊り橋を渡る恐怖感による生理的緊張』『魅力的な異性と対面した生理的興奮(性的興奮)』と間違えて認知してしまいます。

ダットンらの『吊り橋実験』から分かる興味深い事実は、感情の種類に関係なく、生理学的な心拍数の上昇や緊張の増大は殆ど変わらず類似したものであるということです。つまり、生理学的な変化だけから感情の種類を区別することは難しく、逆に言えば、感情経験の豊富な種類に比べると生理学的な変化は決まった少ないパターンしか持っていないということでもあります。

シャクター情動二要因理論(1964)は、以下の2つの要因によって情動の経験と情動の知覚を説明しようとするものです。その最大の特徴は、生理学的変化の原因を推測する無意識的(潜在的)な過程が考えられていることで、生理的反応から自動的に情動経験が引き出されると考えたジェームズ‐ランゲ説などとはその点で大きく異なります。

  1. 原因帰属を伴わない機械的な生理的興奮状態の認知
  2. 生理的興奮の原因がどういった感情や状況によるものなのかという『原因帰属』あるいは『情動のラベリング』

シャクターの情動二要因理論のポイントは、緊張・発汗・心拍増加・血圧上昇・手足の振るえなどの生理学的指標そのものが情動の種類を決定するわけではなく、生理学的変化から原因を類推しようとする『原因帰属の認知』が情動の種類や生起を決定するという事にあります。この生理的反応の原因はどういった情動にあるのだろう、今どういった状況に置かれているのだろうという原因帰属の推測によって私たちは特定的な情動体験をしているという事になります。

シャクターの情動二要因理論によって、『同じ生理的反応(内的状態)を示した状態』でも『置かれている環境や状況をどのように認知しているかの違い・生理的変化に関して与えられた情報の違い』によって『生起してくる情動・感情』が異なってくることが実験的に確認されました。この情動や行動の原因をどこに求めるのかという心的過程を『原因帰属』といい、社会心理学分野の研究では、人間の行動原理の一つとして非常に重要なキーワードになっています。しかし、通常、この情動に関する原因帰属は意識的な推測過程ではなく無意識的な推測過程として働くので、自分がどういった思考経路を経てその原因に行き着いたかということを意識することは殆どありません。

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