交流分析では、人間の成長や幸福、自己肯定のために必要な対人的刺激をまとめて『ストローク(Stroke)』という。ストロークは人間を対人コミュニケーションへと動機づける基本的な感情的刺激であり、生まれたばかりの新生児(乳児)もスキンシップや声掛けのストロークを求めていることから、ストロークの刺激を求める欲求には生物学的根拠がある。ストロークには身体接触(スキンシップ)や授乳、愛撫といった乳幼児期に感情を安定させる『肌のふれあい』もあるが、成長するに従って肯定・賞賛・承認といった『心のふれあい』を促進させる言語的なストロークの重要性が高まってくる。
ルネ・スピッツやジョン・ボウルビィの乳幼児心理学の研究で『施設症候群(ホスピタリズム)』の問題が指摘されているように、乳児に親(養育者)の手厚い愛情や保護のストロークが与えられるか否かは乳児の生存(健康状態)さえも大きく左右してしまう。人間の対人コミュニケーションや互助的な社会生活は、他者からのストロークや社会的な承認・評価を求めて行われているのであり、ストロークとは他者から自分の存在が認められることが伝わってくる刺激として解釈することができる。
ストロークには、自分の存在が肯定される快適な刺激である『肯定的ストローク(陽性のストローク)』と自分の存在が否定的に取り扱われる不快な刺激である『否定的ストローク(陰性のストローク)』とがあるが、いずれも自分の存在が他者に認知されるという作用を持っている。
一般的には、『批判・叱責・罵倒・否定・拒絶・値引き』といった言動として与えられる陰性のストローク(否定的ストローク)は受け取りたくないものであるが、幼少期から長く陽性のストローク(肯定的ストローク)が与えられていないと、相手を挑発したり怒らせたり困らせたりすることで、陰性のストロークを受け取ろうとする行動パターンが形成されることがある。これは相手に完全に無視されて存在を否定されるよりかは、批判や軽視、叱責といった陰性のストロークを受け取ったほうがマシだという無意識的判断に基づく行動パターンであり、陰性のストロークを求めることで『ひねくれ者・天の邪鬼・偏屈な人』という印象を周囲に持たれやすくなる。
ストロークには『無条件のストローク(無条件に相手を肯定したり否定する)』と『条件つきのストローク(~だから褒める・~だから拒絶する)』があるが、幼少期に両親からどのようなストロークを受け取ってきたかによって、自己と他者に対する信頼感のレベルが規定されてくる。交流分析では、幼少期の親子関係やその後の対人的な経験によって形成される自分と他者に対する『基本的な構え』として、以下の4種類を定義している。
私はOKである。他人もOKである(自他肯定)……真実の信頼感に根ざして自分と他者を素直に肯定できる理想的な構え。他者と共感的な協力関係を構築することができ、無益な他者を利用するためのゲームに時間と労力を費やすこともなく、自分の目的実現に向かった建設的な行動を行うことができる。
私はOKである。他人はOKでない(自己肯定・他者否定)……自己愛と支配欲求が強いので、他人を自分の思い通りに利用(操作)しようとしてゲームを仕掛けることが多い構え。他人の人格や尊厳を認めることができず、幼児的な全能感の元に他人を自分の道具として利用する傾向があり、『他人はOKではないという構え』が強くなり過ぎると、他人を傷つけても良心の呵責や反省を感じない反社会的パーソナリティになってくる。
私はOKでない。他人はOKである(自己否定・他者肯定)……劣等コンプレックスや自己否定が強いので、他人と親密な関係を結びにくく人生を前向きに楽しむことができない構え。自分は愛されておらず重要な人間ではないという否定的な自己認知を持っているので、それを確認するために、わざと他人に嫌われる行動や他人を怒らせる発言をしてしまうこともある。抑うつ的で消極的な気分になりやすく、自己肯定感を得るために権威のある人物や大きな組織に従属して忠誠を尽くすようなこともある。
私はOKでない。他人もOKでない(自他否定)……人生には何の価値もなく、人間の存在にも意味はないとする極端に絶望的で虚無的な構え。人生に対する空虚感や社会生活に対する虚無感が強いので、生産的な活動に対するモチベーションが高まりにくく、他者との人間関係に対する欲求も小さい。幼少期から陽性のストロークを受け取った経験が少なく、他人からストロークを与えられることに拒絶的な態度を示しやすいので、親密な対人関係へと発展することが難しい。『人生や人間は無価値なものである』という悲観的で虚無的な発言が多いので、人が寄り付きにくく『他人(社会)と関わらない自閉的な生活様式』に陥りやすい。現実認識能力が低下する精神病の発症リスクが高まったり、人生や自分に強い虚無感(無意味さ)を感じて自殺企図をしてしまうこともある。
交流分析では、日常的な人間関係を通して『他者からのストローク』を得るために、自分の生活時間の使い方を構造化するという考え方があるが、これを『時間の構造化』と呼んでいる。交流分析における『時間の構造化』には、『自閉・儀式・活動(仕事)・雑談・ゲーム・親交』の6種類が仮定されている。
自閉(閉じこもり)……自分が傷ついたり落胆することを恐れて、『他者とのコミュニケーション・交流』から離れて、自分ひとりで自己愛的な時間を過ごそうとする構造化である。否定や批判をされる可能性がある他者とできるだけ関わらずに、大部分の時間を『想像・思索・空想による自己充足(自己愛的なストローク獲得)』に費やすのが自閉(閉じこもり)であり、非社会的行動パターンの一つである。
幼少期に両親から拒絶や放置をされてストロークを受け取れなかったり、児童期・思春期以降のいじめや失恋、裏切りなどで他人を信用できなくなったりすることで、『自閉(閉じこもり)』の時間の構造化をしやすくなり、現実の他者ではなく空想(思索)の内容によって欲求を満たそうとするようになる。悲観的な認知に支配されるうつ病や現実社会との接点を見失う統合失調症でも、自閉(閉じこもり)の時間の構造化が見られやすくなるが、複雑な人間関係やストローク交換を回避することで自分を守っているという自己防衛的な構造化の側面を持つ。
儀式……伝統や習慣、常識によって規定される『定型的な対人関係・コミュニケーションのパターン』によって、ストロークを得ようとする時間の使い方である。日常の挨拶、冠婚葬祭の行事、地域のお祭りやイベント、盆と正月、同窓会など『習慣的な行動・伝統的なイベント』に従っているだけというのが『儀式』の構造化であり、他人と個人的に深く関わらなくても安定的にストロークを得られるというメリットがある。
儀式は『個人的なコミュニケーションのやり取り』や『一対一の人間関係の深さ』が無くても、決まりきったしきたりや伝統行事に従っているだけで、それなりの自己承認や存在の認知が得られるので、自閉に次いで安全な時間の構造化とされている。会話が苦手な人や他人と付き合うことにストレスを感じる人でも、伝統行事や慣習的な行動(イベント)に従い、他人と軽く関わるだけの『儀式』を通して社会参加していることが多い。子どもの誕生日や盆・正月の行事、冠婚葬祭、地域のお祭りなどでは、直接的に他人と関わらなくても、間接的なイベントへの参加によって一定のストローク(自己承認)を得られるからである。
活動(仕事)……『生産的な活動・社会的な仕事・義務的な役割』を介在させることで、他人と関わりを持とうとする時間の使い方である。他人と直接的に親密な交流をするわけではないが、集団組織や家族関係の中で『自分に与えられた役割・仕事』をこなしていくことで、ストロークを得ることができる。しかし、仕事や活動、勉学、育児といった『生産的な行動・役割意識』だけを自分の存在意義にしてしまうと、直接的な対人コミュニケーションの喜びや充実感を見失ってしまうというリスクがある。
会社で仕事に関係する『共通の目標』を持って協力しながら活動したり、学校で勉学・行事に関係する『共通の目的意識』を持ってクラスメイトと一緒の時間を過ごしたりするのが、『活動(仕事)』による時間の構造化である。家族関係でも父親が家計を支えるために仕事に励み、母親が家庭生活を維持するために家事・育児をこなし、子どもが両親の期待を受けて勉強を頑張るというような役割分担の形で、『活動(仕事)』をメインにした時間の構造化が見られることがある。
雑談(社交)……『趣味・社会問題・読書・天気・恋愛・噂話・スポーツ・仕事』などに関する他愛の無い雑談をして楽しむという時間の使い方である。雑談のテーマや内容自体にそれほど深い意味があるわけではなく、生産的な結果を得られるわけでもないが、何気ない雑談を通してストローク交換をすることができ、『自分の性格・価値観に合う相手』を見つけ出すきっかけにもなる。
雑談は相手のプライベートや心理に深く踏み込んだコミュニケーションではないが、雑談を楽しく行うことで社交的な場面に参加しやすくなり、『相手の人柄・興味・価値観』などを推測しやすくなったりする。雑談(社交)は他者と直接的にコミュニケーションをする最も気軽な時間の構造化であり、それほど生産的な時間の使い方ではないが、『関係を築きたい他者の選別・発見(社交的な人脈形成)』につながるという実用性もある。ストレスや問題の多い日常生活の中では、職場や学校、家庭での何気ない雑談、夫婦や恋人、友人との楽しいおしゃべりが『肯定的ストローク』をもたらしてくれることも多い。
ゲーム……相手を自分の思い通りにコントロールしようとして行われる非生産的なコミュニケーションがゲームであり、雑談(社交)以上の深い人間関係を求めてゲームによる時間の構造化が行われることがある。ゲームによる時間の使い方は、正攻法では相手の『肯定的ストローク』を得るのが難しいので、歪んだ方法や誘導的な技術によって『相手の否定的ストローク』を引き出そうとするところに特徴がある。
好意のある相手にわざと嫌がらせや挑発をしたり、会話のとっかかりとして皮肉めいた批判や意地悪な発言をするというのもゲームによる時間の構造化であり、素直に相手に好意や興味を伝えられない人に多く見られる。ゲームの時間の構造化は、『雑談(社交)』よりも親密な人間関係を築きたいという欲求に基づいているが、本来であればお互いに存在を認め合う『親交(親密さ)』に向かうべきものが、傷つけられる不安を回避しようとして『ゲームの悪循環』に陥りやすくなっている。相手をコントロールしようとするゲームでは、他者から十分なストロークが得られないので、非生産的で不快な結末を迎えるゲームが繰り返されやすくなるのである。
親交(親密さ)……相互の人格や価値観を尊重し合いながら、本音と本音で真実の交流を深めていくという時間の構造化であり、相互信頼に根ざした理想的な人間関係の構築と関係している。親交(親密さ)の時間の使い方をするためには、自分と他者に対する基本的信頼感が高まっていなければならず、幼少期から現在に至るまでの対人関係・人生経験を通して、『私はOKである・あなたもOKである』という自他肯定の基本的な構えが成立していなければならない。
交流分析における時間の構造化では『親交(親密さ)』が最も理想的な時間の使い方とされているが、親交には自分の内面や考え方をオープンにして相手と感情的に深く関わるという煩わしさもあるので、状況や気分によっては『雑談・ゲーム』による時間の構造化のほうが望ましいという事もある。
しかし、親交(親密さ)の時間の使い方で最も重要なことは、自分の存在を受容して信頼すること、そして他者の存在や価値を積極的に承認することであり、『自他肯定・相互尊重』をベースにして生産的で共感的な人間関係を深めていくということである。他人と直接的に深く関係しながら肯定的ストロークを得ようとすれば、必然的に『親交(親密さ)』の時間の構造化に行き着くことになるが、人は誰でも他人と親密な人間関係を取り結びたいという本来的な欲求や共感感情を持っている。