『今昔物語集』は平安時代末期の12世紀初頭~半ばに掛けて、収集編纂されたと考えられている日本最大の古説話集です。全31巻(現存28巻)で1,000以上のバラエティ豊かな説話のエピソードが収載されていますが、作者は未詳とされています。一説では、源隆国や覚猷(鳥羽僧正)が編集者ではないかと推測されていますが、実際の編集者が誰であるのかの実証的史料は存在しません。8巻・18巻・21巻が欠巻となっています。
『今昔物語集』は、『天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)』の三部構成となっており、それぞれが『仏法・世俗の部』に分けられています。因果応報や諸行無常の『仏教的世界観』が基底にあり、『宗教的・世俗的な教訓』を伝える構成のエピソードを多く収載しています。例外を除き、それぞれの説話は『今は昔』という書き出しの句で始められ、『と、なむ語り伝えたるとや』という結びの句で終わる形式で整えられています。
参考文献
『今昔物語集』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),池上洵一『今昔物語集 本朝部(上・中・下)』『今昔物語集 天竺・震旦部』(岩波文庫)
[古文・原文]
巻第23第15話(部分).今は昔、陸奥前司(むつのぜんじ)橘則光(たちばなのりみつ)といふ人ありけり。兵の家にあらねども、心極めて太くて思量(おもばかり)賢く、身の力なども極めて強かりける。見目(みめ)などもよく、世の思え(おぼえ)などもありければ、人に所おかれてぞありける。
然るに、その人未だ若かりける時、前一条院天皇(さきのいちじょういんてんのう)の御代(みよ)に衛府(えふ)の蔵人(くろうど)にてありけるに、内の宿直所(とのいどころ)より偲びて女の許(もと)へ行きけるに、夜漸くふくるほどに、太刀ばかりを提げて(ひさげて)、歩(かち)にて小舎人童(こどねりわらわ)一人ばかり具して、御門より出でて大宮を下りに行きければ、大垣の辺り(ほとり)に人あまた立てる気色の見えければ、則光極めて恐ろしと思ひながら過ぐるほどに、八日九日ばかりの月の西の山の端近くなりたれば、西の大垣の辺りは陰にて人立てるも確かにも見えぬに、大垣の方より声ばかりして、「あの過ぐる人罷り止まれ(まかりとどまれ)。君達(きんだち)のおはしますぞ。え過ぎじ」と言ひければ、則光、さればこそと思へど、――に返るべき様もなければ、疾く(とく)歩みて過ぐるを、「されは罷りなむや」と言ひて、走りかかりて来たる者あり。
則光突き伏して見るに、弓の影は見えず、太刀きらきらとして見えければ、弓にあらざりけりと心安く思ひて、かき伏して逃ぐるを、追ひつづきて走り来たれば、頭打ち破られぬと思えて、にはかにかたはらざまに急ぎて寄りたれば、追ふ者走り早まりて、え止まり(とどまり)あへずして我が前に出で来たるを、過ぐし立てて太刀を抜きて打ちければ、頭(かしら)を中(なから)より打ち破りつれば(うちわりつれば)俯し(うつふし)に倒れぬ。
よく打ちつと思ふほどに、また、「あれはいかがしたることぞ」と言ひて走りかかりて来たる者あり。されば、太刀をもえ差しあへず脇に挟みて逃ぐるを、「けやけき奴かな」と言ひて走りかかりて来たる者の、初めの者よりは走り疾く(とく)おぼえければ、これをば、よもありつるやうにはせられじと思ひて、にはかにいかりついゐたれば、走り早まりたる者、我にけつまづきて倒れたるを、違ひて(たがいて)立ち上がりて起こし立てず、頭を打ち破りてけり。
今はかくなめりと思ふほどに、今一人ありければ、「けやけき奴かな。さてはえ罷らじ」と言ひて走りかかりて疾く来たりければ、「この度(たび)は我はあやまたれなむとする。仏神助け給へ」と、太刀を鉾(ほこ)のやうに取りなして、走り早まりたる者ににはかに立ち向かひければ、腹を合はせて走り当たりぬ。
彼も太刀を持ちて切らむとしけれども、余り近くて衣だに切られで、鉾のやうに持ちたる太刀なれば、受けられて中より通りにけるを、太刀の柄を返しければ仰け様(のけざま)に倒れにけるを、太刀を引き抜きて切りければ、彼が太刀を抜きたりける方のかひなを、肩より打ち落としてけり。
[現代語訳]
今となっては昔の話だが、陸奥の前国司・橘則光という男がいた。橘氏は武士の家門ではなかったが、橘則光は剛胆で思慮深く、腕っ節の力も極めて強い人物であった。外見も整っていて世間の評判も良く、周囲の人々から一目置かれる存在だった。
則光がまだ若かった頃、一条天皇の治世では、衛府の蔵人(天皇に仕える武官)の役職を務めていた。夜にこっそりと宮中の宿直所を抜け出して、則光は女のもとへと出かけていた。夜が少しずつ更けていく時間帯に、護身用の太刀一振りだけを携えて、少年ひとりを従え、御門を出て大宮大路を南に下っていった。すると、大垣のあたりで、人が何人も立っているのが見え、則光は(何か危害を加えられるのではないかと)恐ろしく思いながらそこを通り過ぎようとした。ちょうど八日・九日ごろの淡い月が西の山の端近くに沈みかかっていたので、西に見える大垣は月の逆光によって陰になっていて、そこに立っている人影が誰なのかよく見えなかった。
その時、大垣の暗がりから声がかかり、「おい、そこを通る者、止まれ。貴人がお通りになるぞ。ここを通り過ぎることはできない」と言われた。則光はそうなのかと思ったが、今更引き返すこともできず、急いで通り過ぎようとした。すると、「このまま通り過ぎるつもりか」と言って走りかかってきた。
則光は素早く身をかがめて敵の様子を伺ってみると、弓の影は見えず太刀だけがキラキラと光っている。敵は弓は持っていないと安心して、前かがみになって逃げたが、後ろから追いかけてくる。頭を打ち割られると思った瞬間に、体をひねって脇に相手の太刀を逸らしたので、追ってきた敵は、勢いがつきすぎてつんのめることになり、体勢を立て直すこともできない。そのまま、則光の目の前に飛び出してきた。それをそのままやり過ごして、太刀を振りかぶって、頭を真っ二つに打ち割った。敵は仰向けに倒れた。
上手くやったと思う暇もなく、新しい相手が「いったいどうしたんだ」と言いながら走りかかってくる。抜き身の太刀を鞘に収める暇もなく、則光は小脇に太刀を抱えて逃げ始めた。「むかつく奴め」と、叫びながら走ってきた敵は、さっきの相手より足が速そうなので、さっきと同じようにはいかないだろうと思って、瞬時の判断で立ち止まってしゃがみこんだ。走っていて勢い余った敵は則光の体につまずいて転んでしまった。則光はすっと立ち上がると、敵に体勢を立て直す時間を与えずに、太刀を振り下ろして頭を叩き割った。
もうこれで終わりだろうと思って安堵していると、敵はまだ一人残っていた。「むかつく野郎だ。このまま行かせるわけにはいかない」と叫びながら走りかかってきたので、則光は「今度は自分がやられてしまうだろう、神仏よ、私を助けて下さい」と念じた。太刀を鉾のように突き出して身構え、勢いをつけて走りこんできた敵に対して、突然、正面を向いたのである。
敵は体勢を立て直すこともできず、そのまま真正面から太刀に腹をぶつけるようにして突っ込んできた。敵も太刀で切りつけようとしたが、近すぎて切ることができず、着物さえ切り裂くことができない。則光のほうは鉾のように太刀を突き出していたから、その太刀は背中まで相手を突き刺して、太刀の柄を引き抜くと、敵は仰向けにひっくり返ってしまった。そこに更に引き抜いた太刀で切りつけたから、敵の太刀を握っていたほうの腕は付け根から切断されてしまった。
[感想]
橘則光は『枕草子』を書いた清少納言の夫として知られる人物であるが、橘家は『詩歌文学』に優れた文人を多く輩出している平安貴族の名門である。清少納言との間にはひとりの男児(橘則長)を儲けているが、その後二人は離婚することになったようだ。橘則光はこのエピソードにあるように、『橘家の文人的な貴族』には珍しく剛胆で武勇に秀でた豪傑とも言える人物だったようだ。夜中に女性と逢瀬を楽しもうとして出かけた時に、3人の盗賊に襲われるのだが、自らの機略と剣術によって見事に盗賊を撃退している。
ここに続く部分では、3人の盗賊を切り倒したことを知られたくない則光と友人が事件現場に一緒に出かける場面が描かれるが、そこでは30歳くらいの髭面の男が「自分がこの3人の盗賊を成敗したのだ」と自信満々に言いふらしている。嘘をついて自慢しているこの男が、自分の斬殺の罪業を代わりに背負ってくれるのかと安心した則光の姿が描かれる。則光は武芸(太刀捌き)に優れた武人のような男ではあったが、『殺生』を宗教的禁忌とする平安時代の公家の気質を受け継いでいたようにも感じられる。
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