『平家物語』の原文・現代語訳2:然るに忠盛、未だ備前守たりし時~

スポンサーリンク

13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『然るに忠盛、未だ備前守たりし時、鳥羽の院の御願、得長寿院を造進して~』の部分の原文・意訳を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

楽天AD

[古文・原文]

殿上の闇討1

然るに忠盛、未だ備前守たりし時、鳥羽の院の御願、得長寿院(とくちょうじゅいん)を造進して、三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏を据え奉らる。供養は天承元年三月十三日なり。勧賞には欠国を賜ふべき由仰せ下されける。折節但馬国のあきたりけるをぞ下されける。上皇なほ御感(ぎょかん)の余りに、内の昇殿を許さる。忠盛三十六にて、始めて昇殿す。雲の上人これをそねみ憤り、同じき年の十一月二十三日、五節豊(ごせちとよ)の明(あかり)の節会(せちえ)の夜、忠盛を闇討にせんとぞ、擬せられける。

忠盛、此の由を伝へ聞きて、われ右筆(ゆうひつ)の身にあらず、武勇の家に生まれて、今不慮の恥にあはん事、家の為身の為憂かるべし(うかるべし)。詮ずる所、身を全うして君に仕へ奉れと云ふ本文(ほんもん)ありとて、かねて用意を致す。参内(さんだい)の始より、大きなる鞘巻(さやまき)を用意し、束帯の下に、しどけなげに差しほらし、火のほの暗き方に向かつて、やはら此の刀を抜き出いて、鬢(びん)に引当てられたりけるが、余所(よそ)よりは氷などの様にぞ見えける。

諸人目をすましけり。又忠盛の郎等(ろうどう)、本は一門たりし平木工助貞光(たいらのむくのすけさだみつ)が孫、新三郎大夫家房が子に、左兵衛尉家貞(さびょうえのじょういえさだ)と云ふ者あり。薄青の狩衣(かりぎぬ)の下に、萌葱緘(もえぎおどし)の腹巻を着、弦袋つけたる太刀脇挟んで、殿上の小庭に畏まつてぞ候ひ(さぶらい)ける。貫首(かんしゅ)以下奇しみ(あやしみ)をなして、『空柱(うつぼばしら)より内、鈴の綱の辺に、布衣(ほうい)の者の候ふは何者ぞ、狼藉なり。とうとう罷り出でよ』と、六位を以て云はせられたりければ、家貞畏まつて申しけるは、『相伝の主、備前守殿の、今夜闇討にせられ給ふべき由承つて、其のならん様を見んとてかくて候ふなり。えこそ出づまじ』とて、又畏まつてぞ候ひける。これらをよしなしとや思はれけん、その夜の闇討なかりけり。

忠盛又御前の召に舞はれけるに、人々拍子を替へて、『伊勢瓶子(いせへいじ)は酢甕(すがめ)なりけり』とぞはやされける。かけまくも忝く(かたじけなく)、此の人々は、柏原の天皇の御末とは申しながら、中頃は都の住居もうとうとしく、地下(じげ)にのみふるまいなつて、伊勢国に住国深かりしかば、その国の器に寄せて、伊勢平氏とぞはやされける。その上忠盛の目の眇まれ(すがまれ)たりける故にこそ、かやうには囃されけるなれ。忠盛、如何にすべき様もなくして、御遊も未だ終らざる前(さき)に、御前をまかり出でらるるとて、紫宸殿の御後にして、人々の見られける所にて、横たへさされたりける腰の刀をば、主殿司(とのもづかさ)に預け置きてぞ出でられける。家貞待受け奉つて、『さて如何候ひつるやらん』と申しければ、かうとも云はまほしうは思はれけれども、正しう云ひつる程ならば、やがて殿上までも斬り上らんずる者の面魂(つらだましい)にてある間、『別の事なし』とぞ答へられける。

スポンサーリンク

[注釈・意訳]

そして平忠盛がまだ備前守だった時、鳥羽院のご希望を受けて得長寿院という寺を建造することになった。三十三間の御堂を建てて、1001体もの仏像を安置することになった。その供養は、天承元年の3月13日に行われた。その褒賞に、国司・受領のいない欠国を与えるようにと鳥羽院が仰せになった。ちょうど但馬国が空いていたので、その国を忠盛に与えられた。鳥羽上皇はなお感激の余りに、忠盛に清涼殿の殿上への昇殿をお許しになられた。平忠盛は36歳で、始めて昇殿したのである。雲上の貴族(公家)たちはこれを妬んで怒り、同じ年の11月23日、五節の舞姫を宮中に召し出して舞わせる公事がありその夜に、平忠盛を闇討ちにしようかという話し合い(陰謀)が行われた。

忠盛はこの闇討ちの件を伝え聞いて、私は文官ではなく、武勇の家門に生まれた者であり、今思いがけない恥を受けた事(武者が公家に闇討ちを仕掛けられようとしている事)、家のため我が身のためにも不本意で情けないことだ。考えるに、我が身を尽くして君に仕えよという本文があり、以前からその準備をしている。参内の初めから、大きな刀の鞘巻を準備して束帯の下に何気なく差し、火が微かに暗くなっている方角に向かってその刀を抜き、鬢(もみあげ)に引き当てたのだが、その刃物は他所から見ると冷たい氷のようにも見える。

殿上人は目を澄ましている。また忠盛の郎党には、先祖が平氏一門である平木工助貞光の孫で、新三郎大夫家房の子、左兵衛尉家貞という者がいた。薄い青の狩衣の下に、萌葱緘の腹巻を着ており、弦袋をつけた太刀を脇に挟んで、殿上の下にある庭に畏まって控えている。蔵人頭以下はそれを怪しんで、『雨水を受ける中空の樋(とい)より内側、鈴のついた綱の辺りに、粗末な布衣を着た者がいるが何者なのか、これは無礼な狼藉である。さっさと退出せよ』と、六位の官吏に言わせたのだが、家貞が畏まって言うには、『伝え聞くことには、備前守殿が今夜、闇討ちに遭うかもしれないということであり、それを防ごうと思ってこうして控えているのございます。ここを出て行くわけには参りません』ということであり、また畏まってそこに控えている。この家貞の待機が都合が悪いと思われたのだろうか、その夜の闇討ちは無かったのである。

忠盛が院の御前で舞を舞った時、人々はいつもとは違う拍子を打って、『伊勢瓶子は酢甕である』と囃し立てた。このように(天皇の血筋とのつながりがあるなどというのは)畏れ多いことであるが、この人々は桓武天皇の末裔とは言えど、その後は都住まいからも疎遠になっており、貴族ではない地下人のように振る舞っており、伊勢国に長く住んでいるので、その国で作られる器物になぞらえて、伊勢平氏(瓶子)と呼んで馬鹿にされたのだった。その上、忠盛の目は斜視の眇(すがめ)だったので、このように囃し立てられてしまったのだ。忠盛はどうしようもなくて、お遊びもまだ終わらないうちに、御前を退出すると言って紫宸殿を後にしたが、人々が見ている前で、横に差していた腰の刀を主殿司に預けて出て行った。

待ち受けていた家貞が、『さて今宵はどうでしたか』と聞くので、これこれのことがあったと言いたくもなったのだが、本当のこと(侮辱されたこと)を伝えると、家貞はそのまま殿上まで刀を抜いて斬りつけに行くような荒々しい精神を持った男なので、『特別なことはない』と答えておいた。

スポンサーリンク
楽天AD
Copyright(C) 2012- Es Discovery All Rights Reserved