『平家物語』の原文・現代語訳32:夕に及んで、蔵人の左少弁兼光に仰せて~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『夕に及んで、蔵人の左少弁兼光に仰せて~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

内裏炎上の事

夕(ゆうべ)に及んで、蔵人(くらんど)の左少弁兼光に仰せて、院の殿上にて、俄(にわか)に公卿僉議(せんぎ)ありけり。去んぬる保安(ほうあん)四年四月に神輿入洛(じゅらく)の時は、座主(ざす)に仰せて、赤山(せきざん)の社(やしろ)へ入れ奉らる。又保延(ほうえん)四年七月に神輿入洛の時は、祇園の別当に仰せて、祇園の社へ入れ奉らる。今度も保延の例たるべしとて、祇園の別当権の大僧都(だいそうづ)澄憲(ちょうけん)に仰せ、秉燭(へいしょく)に及んで、祇園の社へ入れ奉らる。

神輿に立つ所の矢をば、神人してこれを抜かせらる。昔より、山門の大衆(だいしゅ)、神輿を陣頭へ振り奉る事は、去んぬる永久より以来、治承までは六箇度なり。されども、毎度に武士に仰せて防がせらるるに、神輿射奉る事は、これ始めとぞ承る。「霊神(れいじん)怒をなせば、災害ちまたに満つといへり。恐し恐し」とぞ、おのおの宣ひ(のたまい)合はれける。

同じき十四日の夜半ばかり、山門の大衆、又おびただしう下洛すと聞えしかば、主上は夜中に腰輿(ようよ)に召して、院の御所法住寺殿へ行幸なる。中宮宮々は、御車に奉りて、他所へ行啓(ぎょうけい)ありけり。関白殿を始め奉つて、太政大臣以下の卿相(けいしょう)・雲客(うんかく)、我も我もと供奉(ぐぶ)せらる。小松の大臣は、直衣(なほし)に矢負うて供奉せらる。

嫡子権の亮(ごんのすけ)少将維盛(これもり)は、束帯に平胡ぐひ(ひらやなぐい)負うてぞ参られける。凡(およそ)禁中の上下、京中の貴賤、騒ぎののしることおびただし。されども山門には、神輿に矢立ち、神人・宮仕射殺され、衆徒多く疵をかうぶりたりしかば、大宮・二宮以下、講堂・中堂、すべて諸堂一宇も残さず皆焼き払つて、山野に交るべき由、三千一同に僉議す。

これによつて大衆の申す所、法皇御計らひあるべしと聞えし程に、山門の上綱(じょうこう)等、子細を衆徒に触れんとて、登山すと聞えしかば、大衆西坂本におり下つて、皆追つ返す。

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[現代語訳・意訳]

内裏炎上の事

夕方になって、蔵人の藤原左少弁兼光に命令が下り、院の殿上の間で、急ごしらえの公卿の会議が開かれました。去る保安四年四月に神輿が入洛した時、置き去りにした神輿を当時の天台座主・寛慶に命じ、赤山社へと送りました。また保延四年七月に神輿が上洛した時にも、祇園の別当に命じて、八坂神社へ送ったのです。今回も保延の時の前例に従うべきだとして、祇園の別当・権の大僧都の澄兼に命じ、夕方の明かりが灯る頃に、神輿を祇園へ入れました。

神輿に突き刺さった矢は、祇園の神人が抜き取りました。昔から山門の大衆は神輿を陣頭に振りかざして強訴に及ぶことがあり、去る永久から治承に至るまで六回の強訴が起こっていたのです。しかし、院と内裏はいつも武士に申し付けて強訴の神輿・侵入を防いできましたが、神輿に矢が立ったのは初めてです。「霊神が怒ればたちまち災害が巷に満ち溢れると伝えられている。恐ろしや、恐ろしや」と、衆徒たちは口々に言い合いました。

同月十四日の夜半、山門の衆徒が大勢で揃って比叡山を下山したらしいと伝えられ、それを聞かれた天皇は夜中に手輿に乗られ、内裏から院御所・法住寺殿へと安全のために移られました。中宮や宮様たちも御車に乗られて、危難を避けるために内裏を出られました。関白・藤原基房をはじめ太政大臣以下の卿相雲客(高位高官の公家たち)も、(比叡山から押し入ってくる強訴の危害を恐れて)我も我もとお供したのです。小松の大臣は、直衣に矢を背負った出で立ちでした。

その嫡子の権亮少将(ごんのすけしょうしょう)維盛も、束帯に儀式の際に武官が帯びるやなぐい(矢入れ)を背負って参上しました。内裏の中でも京都でも身分の上下・貴賤を問わず、すべての人たちが大騒ぎをして罵り合っていました。しかし、山門の言い分は、神輿に矢が刺さって、神官・宮司を射殺され、衆徒が大勢傷つけられたのだから、比叡山の大宮、二宮(延暦寺の守護神)以下の講堂、中堂その他全ての諸堂を一つ残さず焼き払って、山野に身を隠すことにしようというもので、これが三千以上の衆徒たちの話し合いの結果でした。

これによって、衆徒の申し入れが法皇にも伝わって、法皇の何らかの計らいが為されるのではないかと言われました。そこで比叡山の高僧たちが、事の仔細を衆徒に説明しようとして比叡山に登ったのですが、山門の衆徒が西坂本まで下ってきてその高僧たちを追い返してしまったのです。

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