過去の卓越した哲学者たちの書いた著作の文章は、その構成が複雑で極めて難解です。一般の市井に生きる人達が哲学を娯楽として楽しむのを妨げるかのように、威圧感と権威的な迫力を持って私達に難しい言葉や理屈で語りかけてくるように思われます。
しかし、哲学の原書が真に理解が困難な難しいものであるとしても、そこで取り扱っている事柄は、私達の生命、生活体験と無関係であるわけではないのです。何故なら、どんなに読み難い文章でも、それは私達と同じ人間によって書かれた文章であり、その哲学者本人以外にもそれを理解して人口に膾炙させるべく努力している人がいるからです。
当然、日常的に誰もが感じる『何故~なのだろう?』という問題意識や『こういった政治や経済のあり方はおかしいんじゃないか?』という社会感覚とも哲学は無縁ではなく、むしろそういった物事を本質的に原因を掘り下げて考える手助けをしたり、ある事柄が正しいのか間違っているのかの判断を下す際の原理や自分の行動規範、思考の枠組みを基礎から『自分の頭で考える作業を通して』形作るものなのです。
以上が、私が考える哲学の概略であり、一般的に持たれている『哲学は、生活と切り離された高尚な学問で、ソクラテスやハイデガーなどといった特別な優秀な頭脳を持った賢人達が行う究極的な真理探究の学問』というイメージは哲学史を知るという意味で哲学の一面ではあるが、全てではない。
いずれにしても、学問の自由が保障されている現代民主社会においては、あらゆる学問への門戸は常に開かれています。ある分野の専門家になる為に特定分野に傑出するのも学問であるが、自分の人生や思考をより豊かに充実したものにする学びの行為も学問なのです。
哲学とは、元々、江戸時代末期から明治時代にかけて大学教育の基礎確立に貢献した思想家、西周(にしあまね:1829~1897)が、philosophyという単語の訳語として考案した言葉です。初めは、『希哲学・希賢学』と呼ばれ、『賢きことを希(こいねが)う』といった意味でした。
ギリシア語のfilosfiva、ラテン語のphilosophiaは、共に『叡智(sophia)を愛する(philo)』という事を意味しています。人間の生来的本能である知的好奇心を満たすものとして哲学は生まれたと考えていいでしょう。
現代は、哲学と文学の境界線がやや曖昧となってきていますが、哲学は全ての人々に共通するような原理、全ての人がその論理を追って理解する事が可能ならば、その内容を相互了解する事が出来るような原則を追究する性格を持つのに対して、文学は哲学のような全ての人々に通用するような普遍性を追い求めるというよりも、作者による個人的な理想・美的感覚の追求という側面と特定の人々を深く感動させ、物語の登場人物に感情移入させるといった所に特徴があるような気がします。
とはいえ、哲学と文学の両者を疑いなく明確に区分けする事は不可能であり、文学、純文学に限らずエンターテイメント性の強い一般の小説や映画からでも哲学的な人間洞察を得る人は少なからずいると思われます。
哲学、殊に歴史の厳しい淘汰に耐えた哲学者が考えた理論や知識というものは、その殆どが自分の人生の経験や価値観と密接に関係した『生の場』から導き出されたものばかりです。自らの真摯で継続的な疑問、逃れがたい苦悩や葛藤、のたうちまわるような苦悶の中から徹底的な思考を経て生まれた哲学や考え方の枠組みだからこそ、悠久の時間を超えて私達の胸や知性に訴えかけてくる力を持つのでしょう。
今、書いているこの小論では、その哲学に固有の思考方法について考えてみたい。哲学の萌芽は、宗教の発生よりも遅く、およそ紀元前7~5世紀に、世界のあちらこちらに芽生えてきたと考えられる。
インドでは、バラモン教に起源を持ち、釈迦の仏教にも大きな影響を与えたとされるウパニシャッド哲学が生まれ、古代中国の春秋戦国時代には、諸子百家がそれぞれの世界観や政治哲学を開示して、老子・荘子の説く道教、孔子・孟子の儒教、墨子の説く兼愛思想など正に百花繚乱の思想の花が咲いたのです。
世界各地に哲学の萌芽はあったが、一般的な哲学史の教科書は、哲学のはじまりをギリシア哲学に求めています。それは、東洋の知よりも西洋の知を重んじてきた日本の伝統的な権威主義の波及でもあるでしょうが、やはり、何といっても、ギリシア哲学に最も典型的で本質的な哲学の思考方法の基礎があるからでしょう。
哲学以前には、ギリシア神話におけるカオスからの創世記やユダヤ教の旧約聖書(ユダヤ民族にとっては『旧約』ではありませんが)の創世記などの宗教が哲学的な疑問に対する『絶対的な答え』を物語的に用意してくれていました。
この時代の主要な哲学的な問い掛けとは、『世界はどのようにして誕生したのか?』『人間は何故、この世に生まれてきたのか?』『この私が、何故、他者とは違う形で存在しているのか?』『私は死んだらどうなってしまうのか?』といった形而上的(原理的に検証の方法を持たない)でありながらも、人間が人間である限り考えざるを得ないような疑問でした。
宗教は現代では荒唐無稽な仮想の物語として退ける人達も多いですが、五里霧中の混迷の中にある人類にとって、『自己の生きる意味』『世界の起源と構造』『価値判断の根拠』『世界がある意味』といった根本的かつ原理的な諸問題に明確な答えを与えてくれる知識体系だったのです。
ここから私達が心に留めておくべき最も大切な事柄について考えてみたいと思います。時々、『哲学は自己中心的な宗教と同じ様なものであり、哲学や思想を持っている人は過激なカルト信者のように危険な存在である』と言った間違った認識を持っている人達がいます。
そこで、哲学と宗教の明確な基本的な差異について考えてみましょう。
哲学も宗教も、その目的に『世界の構造(事物・事象・現象)』と『人間の存在(自己・他者・関係性)』についての普遍的な原理原則を概念(キーワード)を用いて説明したいという意志を持っていますが、哲学は人間の知性によって考え出される相対的な理論・説明であり、宗教は前提として神の言葉や教えによって人間に与えられる絶対的な世界観であり倫理規範です。
更に論を進めると、相対的な哲学(科学も含む学問全般と考えてもいいでしょう)には、『私はそうは思わない。何故なら~』という反駁の可能性と反駁による理論の修正、修正による発展前進がありますが、絶対的な宗教には、全知全能の神の言葉に対して、不完全な人間が間違いを指摘したり、修正を求める事は原理的に出来ません。
ハイデガーやフッサールの思想に対して論理的な異議申し立ては出来ても、イスラム教のコーランやキリスト教の聖書に対して『ここが、現実に観察される現象と矛盾しているから間違っていますよ。正しい記述に書き直して下さい』という意見は、宗教的世界観を信じる人には通用しないのです。そこが最も決定的な哲学と宗教の違いと言えるでしょう。
宗教においては、キリスト、マホメット、釈尊などの宗教の開祖の言葉は神聖視され、絶対化されますが、哲学においては、納得したり賛成したりする事はあっても、ある哲学者の言葉が神のものとされ、絶対化されることは通常あり得ません。
全盛期のソ連や初期中華人民共和国などにおいて、マルクス主義が絶対視されたような状況は、思想が宗教になってしまった例とは言えるでしょうが……。
ただ、宗教領域における開祖の言葉に全く変化がないという訳でもなく、鎌倉仏教の興隆やプロテスタントの宗教改革のように、後世において『解釈=言葉をどう読み取り、意味づけするか』によって本質を変えない範囲で若干の変更がなされたり、新たな内容が付け加えられたりする事もあります。
科学は、哲学よりも更に精密な理論体系を持っていて、観察や実験によって得られた数値データに適合する理論が適合しない理論よりも、より確実性のある正しい理論であるという判断が下されます。
哲学は、反証や反論に対しては開かれていますが、『人間が如何に生きるべきか』『善悪の基準は何処にあるのか?』といった原理的に答えのない問題も扱いますので、科学よりも客観性においては劣るものの、精神や価値観の次元を取り扱う事ができて、科学よりも広い領域に言及する事の出来る強みもあります。
周知の様に、自然科学が成立する為にはギリシア以来の哲学の長い歩みが必要とされました。宗教が用いる神話や物語といった形式ではなく、概念と論理によって世界を説明する哲学の思考形式によって、より広範な人々が共通了解できるような世界観や人間観が提出できるようになった功績は大きいと言えるでしょう。
哲学も科学も、より確実で明晰な知識を求める人間の知的欲求によって作り出された『知の体系』ですが、忘れてはならないのは、神ならぬ不完全な人間の頭で積み重ねられて来たもので、科学仮説というようにどんなに確からしく正しいと思われる理論や学説でも『現時点における確かさ』であると言う事でしょう。
『絶対不変の真理』に到達する力は、人間には備わっていませんが、それに一歩でも近づきたいという歩みこそが学ぼうとする意欲に繋がっている事も否定できません。自らを絶対とする為に、それに反対する相手を排除したり、攻撃したりする非理性的な暴力的態度を戒めつつも、私達は自分がより幸福と思える状態や、より真理や正義に近いと思える態度を模索しながら、懸命に生きていくしかないのかもしれません。
最後に、哲学の思考方法についてまとめると、常識的価値観や既成の権威に盲従するのではなく、より多くの人々が納得し了解できるような普遍的な世界や人間、価値の説明体系を構築していくことであり、用意されている答えの中から好きなものを選ぶのではなく、一番初めの根本から自分の頭で論理的に全てを考え直して見る事と言えるのではないだろうか。
しかし、私達は知らない間に、様々な常識や前提を当然に正しいものとして体得してしまっている。その大部分は、確かに社会適応的で正しいのかもしれない・・・『過去の哲学の学習でなく、自分の哲学の思考というのは、言うは易し、行うは難し』であるとつくづく痛感するばかりです。
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