利尻山(りしりざん,北峰1719m・南峰1721m),利尻岳(りしりだけ)

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利尻山の標高・特徴・歴史

利尻山・利尻岳の標高は、『北峰1719m・南峰1721m』である。登山難易度は、中級者向けの山である。

利尻山の登山口のアクセスは、利尻島までは『稚内から鴛泊港までのハートランドフェリー(約1時間50分)』か『新千歳空港から利尻空港までの航空便(約50分)』である。登山口になるのは、『利尻北麓野営場』か『見返台園地』であるが、いずれも港・空港から車で10~30分ほどで入島してしまえばアクセスは良い。

利尻島(りしりとう)は、北海道本島の最北・稚内(わっかない)の西の日本海に浮かぶ島である。利尻島は礼文島(れぶんとう)の南にある島で、礼文島・利尻島は本州には余り見られない高山植物の宝庫としても知られている。利尻山は利尻島に聳える秀逸な形態をした整った独立峰であり、その山容の優美さを讃えて『利尻富士(りしりふじ)』と呼ばれることもある。

島全体に一つの高山が聳え立っているような景観は、山がちな島嶼の多い日本でもこの利尻山くらいしかないという。鹿児島県屋久島にある百名山の一つ『宮之浦岳(みやのうらだけ,1935m)』も島にある素晴らしい景観の高山だが、島の独立峰である利尻山とは違って複数の峰が連なっている形態である。『海に浮かんでいる山』という形容がぴったりと来る利尻山だが、古くから島民に山岳信仰の対象とされてきた。

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利尻という言葉の起源はアイヌ語の『リイ・シリ(高い島)』である。近代以前から島民に『霊峰』として崇められてきた山で、航海の安全や漁業・狩猟の成功などを利尻山に祈願する宗教行事が執り行われいたようである。現在は北峰山頂付近に、『利尻山神社・奥宮』が設置されていて、日本本土の山々と同じく『神道の信仰体系』に組み込まれている。

利尻山には7~8月の夏山シーズンになると、黄色の可愛らしい花を咲かせるリシリヒナゲシ(利尻島の固有種)を見ることができ、ボタンキンバイも見事な群生を見せてくれる。5合目付近までは、エゾマツ、トドマツの針葉樹林帯が広がっているが、山頂付近では尾根の崩壊や山肌の侵食が進んでおり、『鬼脇(おにわき)』方面からの登山道は途中から封鎖されていて頂上までは登れない。

しかし、崩壊が進んでいる鋭く尖った岩峰郡が逆に美しい景色を構成している部分もあり、特に頂上近くに垂直に鋭利に聳えている『ローソク岩』は一見の価値があるものである。北峰(1719m)と南峰(1721m)の二つのピークがあるが、実際に登れるのは北峰だけであり、崩落した危険箇所の多い南峰登頂のためのルートは立ち入り禁止となっている。

利尻山は成層火山としての来歴を持つ休火山とされるが、記録に残された時代における噴火は確認されておらず、相当に古い時代に噴火した際の火口も既に失われている。火山としての活動レベルは現状極めて低く、噴火警報が出された履歴もないので、火山噴火・噴煙増加にまつわる心配はまず不要な山である。北海道の山のリスクである『ヒグマ』も、利尻島には熊そのものが生息していないため、季節・天気をしっかり確認して登れば安全登山を達成しやすい名山と言えるだろう。

利尻山の一般的な登山コースとしては、『鴛泊(おしどまり)コース』と『沓形(くつがた)コース』がある。

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深田久弥の利尻山・利尻岳への言及

深田久弥は著書『日本百名山』において、利尻山ではなく利尻岳(りしりだけ)という山名で表記しているが、初めに礼文島の側から夕焼けに照らされる美しい利尻山の姿を観賞している。深田以前には利尻山に登山した記録を文章にした人は殆どいなかったが、深田が初めて利尻山登山の紀行文に接したのは、明治36年(1903年)8月に登った植物学者・牧野富太郎(まきのとみたろう,1862-1957)が投稿した雑誌『山岳』の紀行文であるという。

深田は北海道本島から海で遮断されている利尻山には、蛇・マムシ・熊といった危険生物がいないことについても触れている。利尻島は中央に巨大な利尻山が聳えているため、人が住んでいるのは海岸部だけであり、島をぐるりと一周するバスで町・村がつながれていると語る。利尻島の町は『沓形(くつがた)・鴛泊(おしどまり)・鬼脇(おにわき)・仙法志(せんぼうし)』の4つであり、利尻山が最も美しい三角錐の尖った形で見えるのは、鬼脇と仙法志の中間地帯に当たる三日月沼付近なのだという。

深田は登山の往路は『沓形コース』、帰路は『鴛泊コース』で、利尻山の登山を行っている。出発地点が海抜0メートルから始まる利尻山登山の大変さや歩く距離の長さについて説明しているが、深田たちは利尻山登頂までに実に8時間もの時間をかけている。現在とは登山道の整備の度合いと登山の装備のクオリティが全く違うので時間がかかっているが、昔の登山は利尻山クラスでもテントを持ち込んでの山中泊が多かったのである。

深田は利尻島・利尻山を後にする時の景観について、『稚内へ向かって船が島から遠ざかるにつれて、それはもう一つの陸地ではなく、一つの山になった。海の上に大きく浮かんだ山であった。左右に伸び伸びと稜線を引いた美しい山であった。利尻島はそのまま利尻岳であった……』と山の島の旅情を感じさせる筆致で綴っている。

参考文献
深田久弥『日本百名山』(新潮社),『日本百名山 山あるきガイド 上・下』(JTBパブリッシング),『日本百名山地図帳』(山と渓谷社)

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