イースター島は南米のチリから西へ約3700キロの海上にある『絶海の孤島』であり、最も近い有人の島であるピトルケン島からも約2000キロを隔てている。イースター島は現地の言葉では『ラパ・ヌイ』と呼ばれるが、この島に初めてポリネシア人が移住してきたのは12世紀頃(4~5世紀,8~9世紀という説もかつてはあった)と考えられている。
イースター島は巨大な石像彫刻の『モアイ』が見られる観光地としても有名だが、モアイの製作が始まったのは10世紀頃と推測されている。18世紀になってヨーロッパ人に発見される以前の島の人口は、約3000人~4000人(あるいは1万人前後)であった。2016年現在のイースター島の人口は約4000人、島にはチリ海軍が駐留していて、空港や道路、港湾、市街地、店舗などが整備され近代化している。
18世紀以前には存続していたポリネシア人の文明が突如として崩壊してしまったため、イースター島の歴史やモアイ像の起源・宗教的な意味には謎が多く残されている。移住してきたポリネシア人は、絶対権力者の酋長を中心とした部族社会を構成していて、複数の身分に分かれる階級制度を持っていたと考えられている。ポリネシア人たちの宗教は基本的には偉大な祖先がいつまでも見守っていてくれるという『祖先崇拝の宗教』であり、神格化された王・勇者の霊を『部族の守り神』として祀っていたとされる。
ポリネシア人が移住してきた時のイースター島は化石・花粉の研究から、世界でも有数の巨大椰子(チリサケヤシ)の近縁種が生い茂る亜熱帯性雨林の緑豊かな島だったとされている。焼き畑農業・モアイ製造を拡大した乱開発、木材資源を大量に使った文明社会によって、イースター島の亜熱帯雨林の森林は次第に失われていくことになる。16世紀頃になると、森林資源・食料資源の不足が常態化して島内で戦争が起こりやすくなり、最終的に文明崩壊に至ったというジャレド・ダイアモンドの説もある。
7~8世紀頃にプラットホーム状の石の祭壇(アフ)の作製が始まり、10世紀頃にはモアイ像の作製が始まったと考えられている。モアイは一般に『海を背にして立っている』と言われるが、正確には集落を守るように立っているので、内陸部の集落に向かっているモアイには海の側を向いているものもある。イースター島で最大の遺跡である『アフ・トンガリキ』は島の東端にあるが、アフの祭壇の長さは約100m、その上に高さ5mを超える15体のモアイが立ち並んでいる。この15体のモアイ像は、1994年に考古学者クラウディオ・クリスティーノが大型クレーンを使って立て直したものである。
イースター島で最大のモアイは、高さ7.8m、重さ80tであるが、現在、島のアフの祭壇に立っている全てのモアイ像は、倒れていた石像を近年になって改めて重機で立て直したものである。18世紀の文明崩壊以降、ほぼすべてのモアイ像は横倒しになったまま放置されていたが、20世紀後半に近代化・観光地化が進められる過程で立て直されることになった。
イースター島では17世紀までモアイ像が作られたが、18世紀以降は作られなくなり、その後は環境破壊による食糧不足・耕作地や漁場の奪い合いなどが原因で、『モアイ倒し戦争』が勃発して破壊されていったのだという。
『文明崩壊』の著書があるジャレド・ダイアモンドによれば、18世紀前後に島の人口が約4~5倍にもなる『人口爆発』が起こり、モアイ像作製・焼き畑農法のための『森林破壊』が同時に進行していき、深刻な食糧不足を原因とする部族間の武力戦争が勃発したのだという。ダイアモンドはこういった自然破壊・環境破壊による人口激減や文明崩壊をジェノサイド(虐殺)になぞらえて『エコサイド』と呼んでいる。
モアイ倒し戦争が起こった理由は、モアイは目に不思議な『霊力(マナ)』が宿ると考えられていたからである。敵対する部族を攻撃する時には、その守り神であるモアイ像をうつ伏せに倒して、霊力(マナ)が発動しないように目の部分を粉々に破壊していた。乱開発とモアイ作製による過剰な森林伐採は、家屋やカヌーなどの原住民の生活維持のためのインフラストラクチャーの維持をも不可能にしていき、ヨーロッパ人がイースター島を発見した18世紀には、島民の生活は石器時代にまで退行してしまっていた(元々イースター島には青銅器・鉄器の類はなかったが)のだという。
イースター島を初めて発見したヨーロッパ人は、1722年の復活祭(イースター)の夜に島に到達したオランダ海軍提督のヤーコプ・ロッヘフェーンであり、その際に1000体を超えるモアイ像とその前で火を焚いて地に頭を付けて祈る島人を目撃している。1774年にイギリス人探検家のジェームズ・クックがイースター島に上陸した時には、まだ島のモアイの半数ほどが立っていたというが、伝承では最後のモアイは1840年に倒されたという。
18~19世紀にかけて、ペルーやフランスなどによる激しい奴隷狩りが行われて、ポリネシア人の原住民の約半数が島外へと拉致されることになり、更に白人・ペルー人によって天然痘や結核が持ち込まれたことでイースター島の原住民の人口は激減して滅亡寸前に追い込まれた。1872年に生き残った島民の人口はわずか111人で、識字能力のある支配階層がほとんど死に絶えてしまったので、原住民の絵文字のロンゴロンゴが解読不能となり現地の伝統的な文化と言語(文字)の伝承は断絶してしまった。イースター島は、1888年にチリ領となった。
イースター島は森林破壊・食糧不足・部族間戦争(モアイ倒し戦争)による『文明崩壊』が起こった結果、ポリネシアの原住民の歴史・文化・神話の多くは散逸して忘却され失われてしまった。しかし、現地民の間にわずかに残されていた文書から移住神話が再発見されることになった。
有史以前の太古の時代、マオリ(真の意味)の土地に、ポリネシア神話で主神のような位置づけにあるタンガロアをはじめ、10人の神々が住んでいたのだという。初代の王となった神に仕える海神が、初代王に『やがてマオリ(現在ある大地)は海底に沈んでしまいます』と預言すると、その後に本当に海の水位が高くなってきて大洪水が発生し、島に住む人々・神々の子孫の多くは死んでしまった。
マトゥア王が統治する時代になると、シャーマンの預言者ハウ・マカが幽体離脱を起こして眠っている間に、海の彼方にある島々を巡ってきたといってマトゥア王に進言した。『海の向こうにある島で、8番目に訪れた島が一番素晴らしいものでした。この島にラパ・ヌイ(イースター)という名前をつけました。』とハウ・マカが伝えると、マトゥア王はハウ・マカの長男イラをリーダーとする探検隊を組織させた。イラたちにイモやバナナの食糧を大量に積み込ませて航海の準備をさせた。マオリの地を出発したイラ一行は、長い航海の末、35日後にラパ・ヌイ(イースター島)に到着することができたのである。
イースター島に向けて出発させたイラたちがなかなか戻ってこないので、マトゥア王は今度はホトゥという男をイースター島に向かわせた。イースター島に何とかたどり着いたホトゥはイラに会ったが、イラはこの島は雑草が多すぎて食物の栽培に適していないといって、移住には悲観的であった。
しかし、この時には既にマオリの故郷は大洪水の被害によって農耕も生活も困難になっていたので、ホトゥはイラに『イースター島への移住計画』を実行するしかないと伝える。ホトゥが農耕・栽培が難しいのであれば、海で魚を取ればいいと考えて周囲の海域で漁場を探していると、妊娠していたホトゥの妻が急に産気づいて娘を出産した。
『やがてマオリ(現在ある大地)は海底に沈んでしまいます』という海神の預言には、実際にマオリに住めなくなった自然災害のエピソードが反映されているのではないかとも推測されている。遥かな太古の昔、原住民の祖先が住んでいたというマオリの島に、暴風雨・高波、地震の大津波が襲ってきたのだろうか、あるいは敵対する他の部族の侵略攻撃のようなものがあったのだろうか。
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