葡萄と演劇の神ディオニュソスの祝祭と狂乱

光(理性)と秩序の神アポロンと闇(情念)と無秩序の神ディオニュソス

ドイツの哲学者フリードリヒ・ウィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900)は、1872年に公表した『悲劇の誕生』の中で古代ギリシアの悲劇やソクラテス以前の神秘主義的な哲学を振り返って、『ディオニュソス的』という概念でその特徴を表現しています。ニーチェは、『ディオニュソス的』というギリシア神話の神の比喩を用いることで、原始的な生命力の強さや無秩序な世界での陶酔を表現したわけですが、ディオニュソスは深淵な『暗い闇』が漂わせる不気味さと解放感を併せ持っています。

暗い闇の帳が辺りを覆う夜の時間帯はディオニュソス的な時間であり、暗い闇は不安感や不気味さを感じさせると同時に、何処か懐かしく解放的なお祭騒ぎ(夜遊び)の享楽を予感させます。暗き闇と背徳的な恍惚を象徴するディオニュソスと対照的なのは、明るい光を象徴するアポロンであり、善なる神の秩序を象徴するキリスト教です。恍惚と狂乱のディオニュソス的なものには善悪の分別である道徳規範の制約がなく、強靭で豊穣な神的なものを讃美して現世の生を最大限に楽しもうとします。

キリスト教の『貧しき者は、幸いなり』の言葉に象徴される強者を断罪して弱者を聖別する道徳的な価値判断の転換(逆転)を、ニーチェは人間の豊かな生を弱体化するものだと厳しく批判しましたが、ディオニュソス的なものはキリストの世界観の対極にあって、現世の肉体的な生を楽しみ、無意識的な欲求を抑圧せずに実現しようとするものです。社会的弱者のルサンチマンに道徳的正当性を与え来世の幸福を約束するキリストに対し、ディオニュソスは強者の享楽と陶酔を肯定して現世の繁栄を謳歌しようとするイメージになっています。

理性的な秩序志向のアポロン的なものは、情念的な無秩序な様相を持つディオニュソス的なものと対置され、アポロン的な精神は、自然科学へと連なる西欧哲学の系譜と重なり、ディオニュソス的な精神は、学術体系に囚われない不可逆的な一回性の人生に対する『聖なる肯定=運命愛』へと結実します。神の死を告げる『ツァラトゥストラはかく語りき(ツァラトゥストラはこう言った)』の著作に端的に示されるニーチェの実存主義的な生の哲学は、無限回に繰り返される『永劫回帰の生』を無条件に愛せるか否かという『運命愛』へと着地します。現在生きている人生と全く同じ人生が無限に永劫回帰すると仮定した時に、あなたは今の人生のあり方と結末を『然り』と肯定できるでしょうか。

『ディオニュソス的な肯定』とは、永遠に延々と繰り返され続ける人生と同じ性質を持つ『自らの一回限りの人生』を受け容れ、不可避の運命としての生を無条件に肯定して楽しむことなのです。自分の現在の人生が不幸で苦痛だからといって、私たちは今ある人生を途中放棄したり初めからやり直すことなどは出来ません。ニーチェの生の哲学では、『一回性の自分固有の人生』と向き合いその人生が永劫回帰すると想定してもなお、ディオニュソス的な運命愛を貫ける人をギリシアの神々の神々しさと比肩する『超人』と呼びました。あらゆる苦悩や困難を力強く克服して自らの生の意味を堂々と確立する『超人』こそは、神の死後のニヒリズムの時代を生きる人類の理想的な存在形態なのです。

大神ゼウスと人間セメレの子ディオニュソス

ローマ神話で(英語読みの)バッカス(バックス)と呼ばれるギリシア神話のディオニュソスは、オリンポス12神に含められない事がありますが、それはディオニュソスが純粋な男神と女神から産まれた子供ではなく、ゼウスと人間の女性から産まれた子供だからです。テーバイの町を建設して君臨した初代の王カドモスは、目映いばかりの美貌を誇る女神ハルモニアと結婚して、稀代の美女となる娘セメレを生むことになりました。

美しく若々しい女性に目がない浮気性の大神ゼウスは、嫉妬深い妻のヘラの目を盗んで、セメレに情熱的なアプローチを繰り返して愛人とし、セメレとの間に子供を設けました。この神と人間から産まれた子供が、葡萄と祝祭の神ディオニュソスですが、ディオニュソスの生誕は通常の出産とは異なって、ゼウスの太腿から産まれるという奇妙なものでした。ゼウスの度重なる不倫行為に対して、執念深い憎悪と嫉妬の情念を燃え上がらせていたヘラは、ゼウスの粘り強いアプローチに負けて愛人となったセメレを恨み、セメレの生命を奪う謀略を画策します。この謀略によって、ディオニュソスはセメレの腹からではなく、ゼウスの太腿から産まれることになるのです。

女神ヘラは、セメレを愛情深く育てた優しい乳母の姿に変身してテーバイの宮殿へと赴き、セメレに逢引きの相手がゼウスであることを疑わせるような言葉を巧妙に吹き込みます。『セメレ様と関係を持って身篭らせた男性は、自分をこの世界の支配者である雷神ゼウスであると言っているようですが、果たして、神々の頂点に君臨するゼウス様が、いかに絶世の美女であるとはいえ、人間の女のもとへ軽々しくやってくるものなのでしょうか。若しかすると、目も眩むほどに美しいセメレ様を欲しいままに弄ぶ為に、誰か人間の男が不遜にゼウス様のお名前を騙っている可能性もあるのではないでしょうか。幼い頃からセメレ様を献身的に世話してきた私は、セメレ様が若しかして悪い男に騙されているのではないかと心配でならないのです』と、乳母に化けたヘラはセメレの心に警戒心や疑念を植えつけていきます。

もし本当に神々を統率する大神ゼウスであるというならば、その高貴で逞しいお姿を一瞬でも見せて欲しいとお願いしてみたらいいのではないかと乳母はセメレへ勧めます。更に、乳母に化けたヘラは、ゼウスが『人間の前で、神の身体を見せる事は出来ない』と答えることを予想して、最高神であるゼウスといえども約束を守らなければならない『ステュクスの宣誓』を利用することを思い付きます。『ステュクスの宣誓』というのは、冥界の神ハデスが支配する地下の王国で湧くステュクスの泉に手を浸して誓いを立てることです。ステュクスの泉は、不可侵の契約を象徴する泉であって、どんなに高位に位置する高貴で有力な神であっても、ステュクスの泉の水に手を触れて宣誓した以上、その誓いを守らなければならないのです。

セメレの願いを聞き入れてステュクスの泉に手を浸し、『セメレのどんな願いでも聞き届ける』と宣誓してしまったゼウスは、『あなたがゼウスである証拠に、その神々しく高貴なお姿を見せてください』というセメレのお願いを聞かざるを得なくなります。人間には耐えられない高い温度で燃え盛る雷神ゼウスの姿は、人間には一瞬であっても見ることが出来ません。食い下がるセメレを焼け死なせたくないゼウスは必死になって、『人間では雷神ゼウスの姿を見た瞬間に、灼熱の雷撃の熱に焼かれて死んでしまうから止めておけ』と説得しますが、どうしてもゼウスの姿を見ないと納得できないというセメレに押し巻かされてその願いを聞いてしまいます。

ヘラの口車にまんまと乗せられてしまった可哀想なセメレは、ゼウスの燃え盛る強靭な身体を目撃した瞬間に、その美しい容貌をたたえた肉体を焼き尽くされて死んでしまいました。ヘラの謀略によってその身体を醜く焼かれてしまったセメレを見て、ゼウスは嘆き悲しみその死を哀悼しましたが、ふと自分との間に出来ていたセメレのお腹の胎児のことを思い出しました。自分の頭部から戦争と智慧の女神アテナを産んだこともあるゼウスは、セメレのお腹からまだ胎児だったディオニュソスを取り出すと、自分の太腿を切り開いてその中に縫い込んでしまいました。

ゼウスの太腿の中で胎児ディオニュソスはすくすくと健康に成長を続け、出産しても大丈夫な時期になるとゼウスは太腿の縫い目を切り開いてディオニュソスを産み出しました。ゼウスは伝令の神ヘルメスにディオニュソスを託し、オルコメノスという町の王アタマスの妃イノにディオニュソスの養育を頼みに行かせました。イノはゼウスが愛したセメレの姉に当たる女性だったのです。

しかし、嫉妬深いヘラは、ディオニュソスが無事に養育されて高い能力を持った大人の神になることを妨害しようとして、アタマスとその配偶者イノを発狂させます。発狂して現実認識能力を喪失し錯乱状態に陥ったアタマスと妻のイノは、自分たちの子供であるレアルコスとメリケルテスを残酷な方法を用いて殺してしまいます。レアルコスは父であるアタマスから動物の鹿と間違われて弓矢で射殺され、メリケルテスは母親であるイノから熱湯が煮えたぎっている釜の中で釜茹でにされてしまいました。

正気の精神を取り戻した母親は、わが子を釜茹でにしてしまった恐ろしさに震え人生の先行きに絶望して、暗く深い海中の闇へメリケルテスを強く抱き締めながら投身自殺をしてしまいました。本当は浮気をしたゼウスこそが責任を問われるべきなのに、抑えがたいヘラの嫉妬の犠牲になってしまったイノとその息子メリケルテス。その不条理な母子の運命を憐れみ同情した海の女神のネレイスは、母親のイノをレウコテアという海の女神に、息子のメリケルテスをパライモンという海の神霊と変えてあげました。レウコテアとパライモンは、慈悲深く温厚な海の神となって、広大な海を航行する人々の安全を守り、遭難や座礁、漂着などから人間の生命を救う働きをするようになりました。

大神ゼウスは、ディオニュソスの養育を任せるはずであったイノが、ヘラの陰謀によって不遇の死に追いやられたのを見て、人間の女性にディオニュソスを預けるとまたもやヘラの凶悪な策略による犠牲者が増えてしまうと考えました。そこで、ゼウスはヘラに気づかれないようにディオニュソスを山羊(やぎ)へと変身させて、ニュサという遠方の小国に送り、ニュサの自然の河川や山々、森林を守るニンフという女神にディオニュソスの育児を託しました。

森林や河川の精霊であるニンフたちに大切に育てられたディオニュソスは、無事に大人の神へと成長し、葡萄の栽培とブドウ酒(ワイン)の製造に精通した『葡萄の神(酒の神)』となりました。しかし、美麗な容姿と優れた能力を持って成長したディオニュソスを妬ましく思っているヘラに発見されてしまい、ディオニュソスは母親セメレの姉イオと同じように発狂の超能力を受けて狂ってしまいます。自分が何者であるのか分からない、ここが何処であるのかも分からない発狂状態に陥ったディオニュソスは、前後不覚の混乱状態のままで異国のエジプトへと渡ります。狂気を抱えたままで、王国として繁栄したエジプトから商業都市として知られる海運国のフェニキアへ移動し、更に、中東の中心都市であるシリアへと彷徨っていきました。

ディオニュソスが狂気の錯乱と興奮の闇から正気を取り戻したのは、ヘラに匹敵する絶大な能力を持つキュベレという女神が支配する小アジアのフリュギアでした。フリュギアの女神キュベレの超越的な能力で、発狂の混乱状態を治癒して貰ったディオニュソスは、更に『コリュバス』というキュベレ崇拝の祭祀の秘儀を伝授して貰うことになります。葡萄の神であるディオニュソスは、葡萄の樹木を自由自在に栽培して繁殖させる特殊能力を持っており、豊かに実った葡萄の果実を使って、理性を失わせ情動的な陶酔(狂乱)をもたらす美味しいブドウ酒(ワイン)を製造することが出来ます。

コリュバスというフリュギア伝統の祭祀は、奇妙で不可思議なお祭りであり、女装した聖職者階級(司祭階級)の男たちが、笛を激しく吹き鳴らし太鼓を乱打しながら、踊りながら街中を練り歩きます。コリュバスでは、日常的で平穏な『ケの生活』とは異なる非日常的で狂騒的な『ハレの儀式』が執り行われ、女神キュベレの偉大さと慈悲深さを顕彰して崇拝します。女神キュベレから『コリュバスの祭儀』の秘密を伝授されたディオニュソスは、祭祀にはブドウ酒(ワイン)と同様に人々の理性を失わせて興奮させ、陶酔的な快楽と喚起をもたらす魔力があることに気づきます。

ブドウ酒と演劇、祭祀(祝祭)を司る神となったディオニュソスは、独自の宗教的な祭祀をギリシア全土に普及させる旅に出ますが、ディオニュソスは女性達に自分が製造した特上のワインを飲ませて、理性を喪失させ音楽を掻き鳴らしながら踊り狂い、恍惚とした快楽を共に味わいました。ディオニュソスが開発した独自の祭祀を楽しむ信者の女性達は『バッカスの信女』と呼ばれ、狂気的な精神状態でどんな軍隊も蹴散らす驚異的な力を発揮するので、周囲の人々から恐れられていました。

ディオニュソスのワインに酔い、奇妙な祭祀に陶酔しているバッカスの信女たちは、誰も対抗することが出来ない怪力と破壊力を発揮して、鳥獣を素手で八つ裂きにしてその生肉を食らうという狂態を演じました。ディオニュソスは、ギリシアから遥か東へと自らの宗教勢力を進めて、広大なインドの大地までを自らの支配領域に収め、ギリシア含む欧州各地からインドにまで自分の権威と勢力を誇示するブドウ酒と祭祀を普及させました。

ワインと宗教祭儀がもたらす快楽と陶酔を世界各地に伝道したディオニュソスは、女性達を妻や母親としての義務から開放して山中での儀式と飲酒に耽溺させるので、男性達からは嫌悪されると同時に畏怖されました。ディオニュソスの妻は、クレタ島の王として君臨したミノスの娘アリアドネとされていますが、アリアドネは複雑に入り組んだ迷宮と迷宮に住む凶暴で邪悪なミノタウロス(牛頭人身の怪力の怪物)に拘束されていました。アリアドネをミノタウロスの虜囚の身から救ったのはアテナイの英雄テセウスです。テセウスはアテナイからクレタ島に送られる生贄の一員として迷宮へ潜入しました。クレタ島の複雑怪奇な迷宮からテセウスが迷わずに抜け出せたのは、アリアドネが魔法の糸玉と剣を事前に渡してくれていたからです。長い間、クレタ島やアテナイの人々を苦しめた怪物のミノタウロスを鋭利な剣で突き殺したテセウスは、魔法の糸玉を手繰り寄せながら帰り道を歩いたので、出口へと迷わずに辿り着くことが出来たのです。

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