織田信長と足利義昭の対立:第一次信長包囲網の形成
武田信玄の急死と信長による将軍義昭の京都追放
『織田信長の天下布武と京都上洛』の項目では、信長が『尾張・美濃・伊勢』を軍事的に統治するプロセスと、足利義昭を奉じて京都に入り将軍の権威を復権した事績について解説しました。義昭が15代将軍に就任した翌年の1569年には、三好三人衆の反乱が起こりますが、この反乱は浅井長政や池田勝正、明智光秀らの奮闘で撃退しました。
この事態を重く受け止めた信長は、京都市井の治安と周辺情勢の鎮静を図るために、『幕府殿中御掟9か条(ばくふでんちゅうごおきて)』と追加7か条を制定して将軍義昭に承認させました。これは幕府の政策指針・政治判断の決定権を、将軍の義昭ではなく信長が握っていることを周知するものでしたが、この時までは信長が義昭の権威を尊重していたこともあり『信長と義昭の蜜月時代』が緩やかに続いていました。織田信長(1534-1582)は将軍義昭のために居城となる二条城を突貫工事で新築し、朝廷の内裏の修復にも莫大なお金を拠出して京都の町並みや建築物の整備を進めます。
1569年8月には、信長は北伊勢に続いて南伊勢の支配にも乗り出し、国司の北畠具教(きたばたけとものり,1528-1576)が守る大河内城を包囲して降伏させ、次男の茶筅丸(織田信雄・おだのぶかつ,1558-1630)を北畠家の養子に入れました。しかし、信長が将軍の許可を得ずに自分勝手に伊勢を乗っ取ったことに足利義昭は不満を抱き、信長と義昭の最初の対立が起こり、京都に事後報告に来た信長はそのまま岐阜へと帰還します。
この将軍義昭の反抗的な態度に怒りを感じた信長は、翌1570年(元亀元年)1月に『五ヶ条の条書』を作成して義昭に突きつけます。五ヶ条の条書の内容は以下のようなものであり、『天下の真の実力者』が将軍の義昭ではなく後見人の信長であることを明確にした内容になっており、『公的な武家の棟梁』である将軍義昭の自負心と名誉感情を酷く傷つけるものでした。これによって、信長と義昭の心情的対立は決定的なものとなり、信長の傀儡になることを嫌う義昭は信長打倒を画策して戦国諸侯や宗教勢力(一向一揆)に出兵を要請する文書(御内書)を送りつけます。
1.諸国へ御内書(将軍の書状)を発給するときには、信長の添状を副えること。
2.今までの義昭の下知(命令)を無効とし、よく現実を見極めて施政方針を定めること。
3.忠節を働いたものに恩賞を与えたくても所領のない場合には、信長の領分から提供する。
4.天下の問題は信長に委任されているので、将軍の意向を確認せずに逆賊を成敗できる。
5.禁中(廟堂)のことは丁重に行わなければならない。
信長は更に幕府や将軍に対する忠誠心を確認するという大義名分を立てて、近畿・東海・中国東部などの戦国大名や地方勢力(国衆)に『上洛命令』を出しましたが、これは幕府や信長に叛逆の意志が無いことを証明させるためのものでした。つまり、『幕府の上洛命令』を受けているのに京都に上洛して将軍に服従・忠節の挨拶をしない大名・国衆・勢力は、『叛逆・謀反の意志』ありと見なされて将軍義昭を後見する織田信長から成敗される危険が出てくるわけです。
この上洛命令を拒絶したのが越前一乗谷を本拠とする朝倉義景(あさくらよしかげ,1533-1573)であり、信長は朝倉義景は幕府に対する謀反の意志ありと見なして朝倉討伐の軍勢を差し向け支城である天筒山城と金ヶ崎城を落とします。しかしここで、信長が妹のお市を嫁がせていた北近江・小谷城を拠点とする浅井長政(あざいながまさ,1545-1573)が朝倉義景と連携して謀反を起こすという想定外の出来事が起こり、背後を脅かされた信長軍は窮地に陥って池田勝正(いけだかつまさ)や羽柴秀吉に殿軍を任せながら一時的に撤退しました。この朝倉・浅井軍の攻撃を受けた絶体絶命の退軍のことを『金ヶ崎の退き口』といい、信長はこの浅井長政の裏切りに激昂して後に浅井と朝倉の双方を徹底的に壊滅させます。
信長軍の窮地と見た将軍義昭は、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、比叡山延暦寺・石山本願寺など寺社勢力に反信長の挙兵を呼びかけて『信長包囲網(第一次信長包囲網)』を狭めていこうとします。しかし、羽柴秀吉・柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・美濃三人衆の軍勢を集めた信長は、浅井・朝倉の連合軍に対して反撃に転じます。1570年6月、同盟軍の徳川家康の軍勢も駆けつけて『織田・徳川の軍』と『浅井・朝倉の軍』が姉川を挟んで激しくぶつかり合う『姉川の戦い(あねがわのたたかい)』が勃発し、織田・徳川の連合軍が大勝して浅井・朝倉の連合軍は約9600人という膨大な死者を出し小谷城に逃げ帰りました。
姉川の戦いの後には再び、三好三人衆が淡路の安宅氏など国人の軍勢を加えて、摂津の野田・福島で反乱を起こします。信長と義昭の軍勢は強力な鉄砲隊を持つ紀州の根来衆(ねごろしゅう)の支援を受けて、三好三人衆の反乱の鎮圧に向かいます(1570年9月)。この時、浅井長政・朝倉義景・延暦寺などが連携した連合軍3万が近江坂本へと進軍を開始しており、織田軍はこれに抗しきれず重臣・森可成(もりよしなり,1523-1570)と信長実弟・織田信治(おだのぶはる,生年不詳-1570)を失うことになります。
三好三人衆の反乱に呼応するように、浄土真宗(一向宗)の総本山である石山本願寺が『反信長の姿勢』を明確にして、本願寺11代法主の顕如(顕如光佐,1543-1592)が、全国の一向宗門徒に信長に対抗する挙兵を促す書状(檄文)を送りました。顕如が反信長に決起した一番の理由は『次は本願寺も武力制圧の標的になるのではないか?』という信長の軍事戦略に対する不安であると考えられますが、この石山本願寺の武装決起によって11年間も継続する『石山合戦(1570-1580)』が幕を開けるのです。
石山合戦は日本最大の宗教武装勢力である石山本願寺が、戦国の覇者の織田信長と真っ向から戦った『宗教戦争』です。信仰に支えられた無数の一向宗門徒が粘り強い攻撃(一揆)を仕掛けてくるので、さすがの信長も石山合戦では相当な苦戦と被害を強いられますが、信長でさえも武力で石山本願寺を完全に屈服させることはできず、1580年4月20日に石山本願寺が自発的に開城・武装解除することで石山合戦は終結しました。
姉川の戦い(1570)の後に、石山本願寺・毛利輝元・武田信玄・上杉謙信・浅井長政・朝倉義景らが『信長包囲網』を形成することで、信長は窮地に立たされていましたが、浅井・朝倉をかばって入山させた比叡山延暦寺に対して『信長に味方するか浅井・朝倉を引き渡さなければ、延暦寺の一山すべてを焼討する』と恫喝しました。しかし、三好三人衆の反乱が河内・摂津へと広がりを見せ、六角承禎父子も信長に反抗の姿勢を見せて、京都近郊で一向一揆や土一揆が相次いだので、さすがの信長もいったん浅井・朝倉・本願寺と講和を結んで態勢を立て直すことにしました。
将軍の権威や権限を軽視して実権を握る信長に憤りを感じていた足利義昭は、石山本願寺や有力大名(武田・上杉・北条・毛利)と連携して更に強力な『信長包囲網』を形成しようとし始め、全国の大名や地方勢力に信長討伐の御内書を出し続けます。1570年代の戦国大名の勢力地図を見てみると、奥羽地方では陸奥北部の南部氏・安東氏、陸奥南部の伊達氏・蘆名氏(あしな)、出羽地方では最上氏が勢力を持っています。
相模・武蔵・伊豆では北条氏康・氏政の父子、甲斐・信濃では武田信玄、越後では上杉謙信、三河・遠江では徳川家康がしのぎを削りあっており、信玄は本願寺の顕如と深い関係がある(信玄の妻=顕如の妻の姉)ので、越中の一向一揆を煽動して上杉謙信に当たらせていました。九州地方では、豊後の大友宗麟の影響力が強まっており、肥前(佐賀県)では新興勢力の龍造寺隆信が台頭し、九州南部の薩摩では島津貴久・義久の父子が勢力を伸ばしていました。
1571年になると、上杉謙信と結んでいた北条氏康が死去すると子の氏政は謙信との同盟を破棄して再び『北条-武田』の同盟が形成され、武田信玄に後顧の憂いがなくなったので『上洛の可能性』が生まれてきます。一方、長期にわたって『上洛の意志・将軍補佐の覚悟』を持っていた上杉謙信のほうは越中と加賀で連続的に発生する一向一揆に悩まされており京都進軍のチャンスをなかなか掴めませんでした。
1571年になると、信長を排除して将軍の独立的権力を確立したい足利義昭は、日本各地の有力大名(上杉と武田・毛利と大友など)の紛争を調停して反信長の出兵を御内書で促しますが……これは1570年に出した五ヶ条の掟の明白な違反であり、信長は1572年9月に17ヶ条の厳しい批判書を義昭に叩きつけます。信長はこのような不公平で利己的な悪政を続けるならば、赤松満祐に殺害された6代将軍・足利義教のようになると強い口調で脅迫しましたが、この時には義昭がもっとも頼りにしている反信長派の代表格・武田信玄が上洛の気配を強めていました。
1571年、伊勢長島一向一揆との死闘が続いている中、浅井・朝倉の連合軍を匿った件について激怒していた信長は、昨年宣告したとおり『比叡山延暦寺の焼討』を決行します。1571年9月12日、比叡山延暦寺へと侵攻した信長は、天台宗の信仰拠点である根本中堂を焼き払い、山上であるか山下であるかを問わずすべての寺院・神社・僧坊を徹底的に攻撃して焼却し、逃げ出してくる僧侶(僧兵)たちを容赦なく切り捨てました。
古代から中世における仏教信仰の総本山である比叡山延暦寺を焼討して近江を支配権に組み込んだ信長は、京都~北陸間の軍事交通の利便性を確保することに成功し、反信長の連合軍に対して攻勢を強めます。1572年になると六角承禎と一向一揆が同盟し、松永久秀・三好義継もそれまで服属していた信長を裏切って義昭の側に加勢し、浅井・朝倉の連合軍も不穏な動きを強めてきます。1572年には信長の嫡子・織田信忠(のぶただ)が元服しますが、信長が最も強力なライバルとして恐れていた甲斐の戦国武将・武田信玄(1521-1573)が、相模の北条氏と和睦して京都上洛の決意を固めていました。
1572年1月、甲斐・信濃の武田信玄のもとに、石山本願寺の顕如から反信長の出兵要請があり、信玄と顕如は信長の挟み撃ちを計画しますが、4月に信玄は将軍義昭に対して忠誠を誓う文書を提出し、義昭を抑圧する逆賊・信長を追討する決意を伝えます。武田信玄が誇る精鋭の騎馬部隊は意気軒昂であり、京都西上の準備が万端整った信玄は勇ましく号令をかけて、1572年10月3日怒涛の勢いで京都に向かい進軍を開始します。
武田信玄が『風林火山』の旗の下に率いる当時最強と恐れられた甲州の軍勢は総勢約3万(本軍2万・北条氏政の支援軍2000・山県昌景の別働隊5000)、疾風怒濤の威力に乗って信長方の徳川家康が守る三河・遠江に押し寄せてきます。流石の家康軍も信玄の強靭な精兵の猛攻撃を支えられず、10月13日には、只来城、天方城、一宮城、飯田城、各和城、向笠城など家康方の諸城がわずか1日で陥落させられます。東美濃の重要拠点であった岩付城も、秋山信友軍によって11月までに落とされてしまうのですが、当時信長は浅井長政・朝倉義景・石山本願寺の一向一揆に同時に対応しており、家康にわずか3000騎の援軍しか送ることが出来ませんでした。
圧倒的な強さとスピードで京都の信長を目指していく信玄の猛兵たちの前に立ちふさがるのは、信長の同盟者である三河・遠江の徳川家康ですが、1572年10月14日の『一言坂の戦い(いちごんざかのたたかい)』で家康軍は信玄に惨敗を喫します。徳川家康は浜松城で篭城を決め込みますが、勢いに乗った信玄は12月19日に遠江の重要拠点・二俣城を陥落させて遠江の支配を家康から奪い取ります。
12月22日、信玄軍に痛撃を加えたい家康は覚悟を固めて、浜松城を1万1千の軍勢と共に出兵し、一世一代の『三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)』に臨みます。しかし、家康軍は信玄軍に無残なまでに蹴散らせられて大敗を喫し、命からがら浜松城に逃げ帰りました。信長と秀吉の後を継いで天下人となる徳川家康ですが、後年になって三方ヶ原の戦いの敗北を振り返り、生涯最大の敗戦であったと述懐しています。三方ヶ原の戦いには馬に乗って必死に逃走する家康が、恐怖のあまり馬上で脱糞したというエピソードまで残っていますが、家康はこの大敗北を『戦において忘れるべからぬ教訓』としたようです。
家康の守る遠江の大部分を制圧した信玄は、刑部(おさかべ)で年を越して翌1573年の2月17日に三河の野田城を落とし京都に更に近づきますが、昨年の暮れに信玄の予期せぬアクシデントが起こっていました。将軍・足利義昭の信長討伐令によって固められてきた『信長包囲網』の重要な一角である朝倉義景が、1572年12月3日に領国の越前に帰国してしまい包囲網がやや緩んでいたのです。後一息で信長を討伐できるという状況になっているのに、いったい朝倉義景は何をやっているのか、憤懣やるかたない信玄と義昭は越前の朝倉義景に繰り返し再挙兵を呼びかけます。
しかし、ここで誰も予想していなかった戦国の歴史を変える大きな出来事が起こります。野田城を攻める頃から喀血するなどして体調を崩しかけていた武田信玄の病状が急激に悪化、これ以上の進軍を続けることが不可能となり、4月初旬に信玄は甲斐への退却を開始します。信濃に帰ろうとする三河街道途上の4月12日、戦国最強の武将として勇名を馳せた武田信玄が享年53歳でこの世を去りました。上洛・信長征伐を目指した信玄の余りにも突然の死は、甲斐の武田家の隆盛の終わりを告げる合図であると同時に、信玄の上洛の脅威がなくなった織田信長にとっては最大のチャンスでした。
甲州の歴史書である『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』では、信玄は遺言で『自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事』と指示していたといいますが、織田信長や上杉謙信は比較的短期間で信玄の死についての情報をキャッチしたようです。甲斐の武田信玄が信長を討伐するために快進撃を続けているという報告を受けた足利義昭は、二条城の防御を固めて反信長の挙兵を行いますが、この段階では『石山本願寺(一向一揆)・浅井長政・朝倉義景・三好三人衆』に包囲されている信長が不利な情勢で、信長は何度も将軍義昭に和睦を申し入れます。この和睦を拒絶し続けていた義昭ですが、信長が4月に京都洛外と上京に放火したことで義昭はいったん和睦を受け容れます。将軍義昭は武田信玄に大きな期待を寄せており、信玄さえ上洛すれば信長を追討することが出来ると信じていましたが、信玄が病気で急死したという情報が伝わると落胆し、1573年7月3日、宇治・槙島城(まきしまじょう)で再挙兵して大勝負に出ます。
しかし、織田信長の精強な軍勢に義昭が対抗できるはずもなく、1573年7月18日に宇治・槙島城は陥落して義昭は降伏します。信長は生まれたばかりの義昭の子・義尋(よしひろ)を人質にとって、15代将軍・足利義昭を京都から河内に追放し室町時代(室町幕府の統治)を実質的に終わらせました。後醍醐天皇と対立した足利尊氏が1336年(1338年)に開設した室町幕府も、15代約240年でその幕を閉じることになりました。
1573年8月には、信長を度々攻撃した越前の朝倉義景を攻めて自害に追い込み、越前一乗谷の城下町を燃やし尽くしました。朝倉の同盟軍として信長を裏切った浅井長政(妻は信長の妹のお市)と浅井久政(長政の父)も小谷城を落とされて自害することになります。信長は浅井氏に対する積年の恨みを晴らし、浅井の近江の旧領をすべて功臣の羽柴秀吉に与えました。京都支配を確立し天下布武の基礎を固めた織田信長は、1573年7月28日に戦乱が続いた『元亀(げんき)』の年号を『天正(てんしょう)』へと改元し、新たな織田政権の整備へと邁進することになるのです。
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