太閤豊臣秀吉の天下一統:小牧・長久手の戦いと四国・越中・九州の征伐

小牧・長久手の戦いと秀吉の朝廷工作
豊臣秀吉の紀州・四国・越中・九州の征伐と天下統一

小牧・長久手の戦いと秀吉の朝廷工作

『豊臣秀吉の台頭』の項目では、『山崎の戦い』で明智光秀を討ち『賤ヶ岳の戦い』で柴田勝家を滅ぼした秀吉の急速な勢力拡大について説明しましたが、1583年には賤ヶ岳の戦いで勝家に味方した信長の三男・神戸信孝(織田信孝)も尾張・大御堂寺で自害しました。秀吉の下剋上を恨みながら死去した織田信孝は、『昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前』という辞世の句を残したと言われますが、この歌が信孝本人のものかどうかという真贋は明らかではありません。

信長の次男・織田信雄(のぶかつ,1558-1630)は賤ヶ岳の戦いでは秀吉方に付きましたが、羽柴秀吉の権力の拡大に反発を覚えた信雄は、徳川家康と同盟を結んで秀吉に『小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい, 1584年)』を仕掛けます。織田信雄は、岡田重孝(おかだしげたか,尾張星崎城主)、津川雄春(つがわたけはる,伊勢松ヶ島城主)、浅井田宮丸(あさいたみやまる,尾張刈安賀城主)の三人の重臣に、『羽柴秀吉に密通した』との嫌疑を掛けて切腹を命じました。これは織田信雄の秀吉に対する実質的な宣戦布告であり、秀吉は数万の大軍を結集させて信雄・家康連合軍の侵攻に備えました。

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1584年3月9日、信雄方の神戸正武が北伊勢・亀山城の関万鉄(せきまんてつ)父子を攻撃したことで戦闘が始まり、関万鉄を秀吉方の蒲生氏郷(がもううじさと)と堀秀政が支援して神戸を退けました。信雄方の峰城(伊勢)を守っている間に、犬山城が秀吉方の池田元助(池田恒興の子)と森長可(もりながよし)に占領されましたが、尾張山の小牧山を占領した織田信雄・徳川家康は羽黒の前線にでていた森長可(もりながよし)を大敗させました。信雄・家康連合は、関東の北条氏政や四国の長宗我部元親、紀州・雑賀衆・根来衆にも援軍を要請して大坂城を包囲しようとしましたが、羽柴秀吉は適材適所で武将を配置して紀州勢を打ち破り関東や四国を牽制しました。

犬山城に入った秀吉は、小牧山に陣取る信雄・家康連合軍を取り囲みました。秀吉は羽黒での敗戦を恥じる池田恒興・池田元助・森長可の献策を認めて、精鋭1万6千で家康の領国の三河を急襲させることにしましたが、この別働隊の三河急襲作戦は失敗し、三河に舞い戻った家康軍の猛攻撃によって、長久手の岩崎城攻略に手をこまねいていた池田恒興・元助の父子と森長可が戦死しました。この三河侵攻を目的とした秀吉方の池田恒興・元助の父子と森長可を、徳川家康が討ち果たした戦いを『長久手の戦い』といいます。長久手の戦いにおける秀吉方の総大将は、秀吉の養子・羽柴秀次(1568-1595, 姉の日秀の子)でした。

羽柴秀吉は楽田城に陣取り、徳川家康は小牧山で守りを固めて、双方にらみ合いをしていましたが、秀吉は美濃へと戦線を移して信雄方の加賀野井城や竹鼻城を落としました。信雄は伊勢長島へと引いて、家康は6月12日に清洲へと移っていましたが、家康は6月16日に秀吉方の滝川一益(たきがわかずます)と九鬼嘉隆(くきよしたか)が守る尾張の蟹江城を落として、かつて信長政権の重臣だった滝川一益を完全に引退へと追い込みました。

秀吉も家康も周辺諸国への外交戦略を巧みに仕掛けていましたが戦線は膠着し、11月15日になると桑名南方の矢田河原で織田信雄が家康と相談することもなく単独で秀吉と講和を結んでしまいました。浜松へと退いていた家康の元に秀吉の講和の使いが赴くと、家康は『信雄に援軍を頼まれていただけなので信雄が秀吉と和睦するのであれば自分も異存無し』と答えて、小牧・長久手の戦いは双方互角といった様相のまま終結します。家康は講和の証として、実子・於義丸(おぎまる)を養子として秀吉の元に送りましたが、この於義丸は長じて越前松平氏の祖である結城秀康(ゆうきひでやす, 1574-1607)になりました。

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結城秀康を養子として送ったことで表面的には羽柴秀吉が徳川家康に勝ったようにも見えますが、『小牧・長久手の戦い』でライバルの家康を武力で制圧できなかったことは秀吉の征夷大将軍就任を極めて困難なものにしました。こうした小牧・長久手の戦いの経緯によって、秀吉は武家の棟梁である征夷大将軍ではなく、朝廷の最高位である関白・太政大臣への就任を目指すことになったという解釈もあるわけですが実際のところは明らかではありません。

天下布武を完成間近に控えていた豊臣秀吉が、唯一軍事力で圧倒できない存在が『海道一の弓取り(かいどういちのゆみとり)』と言われた徳川家康であり、秀吉は家康を武力で直接的に服従させることを諦め、政治的な方策で形式的に服従させる(関白太政大臣になって計略を用い家康を臣従させる)という選択をすることになります。しかし、異説として1584年に朝廷からいったん征夷大将軍への就任を勧められたが、秀吉自身がそれを断ったとする説もあるようです。1584年10月2日に、秀吉は従五位下左近衛権少将(さこのえごんのしょうしょう)になり、小牧・長久手の戦いが終わった1584年11月22日には大幅に官位を進めて従三位権大納言(ごんだいなごん)に就任して朝廷の公卿(従三位参議以上の高位貴族)になりました。

信長・秀吉は第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう,在位1557-1586)から誠仁親王(さねひとしんのう)への早期の譲位を期待していたといいますが、信長の死後の1586年に正親町帝が譲位する直前に誠仁親王は病没し、誠仁親王の子の和仁親王(かずひとしんのう)が第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう,1586-1611)として即位しました。1584年に、秀吉は上皇の御所である仙洞御所(せんとうごしょ)を造営するために銭一万貫を自ら献上しており、この頃から朝廷・禁裏の伝統的権威を政治的に利用しようとする意図があったものと推測されます。

正親町天皇の在位期間は織豊政権の最盛期に合致しますが、秀吉は特に自らの政治権力の正統性を『関白・太政大臣』という朝廷の位階に求めた部分があったので、朝廷の権威と文化を尊重していました。1588年には、関白豊臣秀吉の政庁兼邸宅である豪壮優美な聚楽第(じゅらくてい,1586年9月に完成)で後陽成天皇を盛大に饗応しており、豊臣政権の時期に即位した後陽成天皇の御世には朝廷の伝統的権威性が大きく回復しました。

秀吉は1584年末に、養子の羽柴秀勝を毛利輝元の娘と結婚させており、西国の大大名である毛利氏との同盟関係を強化しようとしました。一方、秀吉が徳川家康を自らの家臣にするためには更に二年の月日を要しました。最後の決め手になったのは、1586年に妹の朝日姫を家康の正室として送り、その上に更に高齢の母・大政所(なか)を人質として差し出したことであり、この政略的な婚姻と人質によってさすがの家康も家臣としての上洛を断りきることができなくなりました。

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1585年(天正13年)3月10日には、秀吉は正二位・内大臣へと昇進しており、7月11日には近衛前久(このえさきひさ)の猶子として関白宣下を受けています。秀吉は1585年中に紀州征伐と四国征伐もやり終えて版図を拡大していますから、家康が秀吉に臣従の意思を示した段階で、既に秀吉は日本の最高権力者としての公式の地位を固めつつありました。豊臣秀吉の官位昇進と朝廷工作については『本能寺の変後の羽柴秀吉の地政学的優位と朝廷工作による『豊臣姓』の授与』のブログ記事も参考にしてみてください。

豊臣秀吉の紀州・四国・越中・九州の征伐と天下統一

1585年(天正13年)3月10日に正二位・内大臣に叙任された羽柴秀吉は、3月21日に総勢10万とも言われる大軍勢を率いて紀州攻めに向かいますが、これは小牧・長久手の戦いで秀吉に敵対した雑賀一揆(さいかいっき,雑賀衆)根来衆(ねごろしゅう)を征討するための軍勢でした。この時点における秀吉の仮想的は、紀州勢(雑賀衆・根来衆)四国・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか,1539-1599)越中・佐々成政(さっさなりまさ,1536-1588)であり、まず最初の標的として近畿南部で秀吉の領域を脅かす紀州勢に狙いを定めたのでした。

紀州の雑賀衆(雑賀一揆)は精強な鉄砲隊の存在で知られていましたが、その軍勢の中心勢力は農民・土民・豪族の一揆集団であり、村落共同体が同盟を結んだ惣村連合的な性格を濃厚に持っていました。根来衆は、鉄砲攻撃を得意とする根来寺の僧兵たちの軍勢であり、度々中央の政変や争乱に傭兵として参加することがありました。

3月21日に、秀吉は自ら陣頭指揮を執って紀州・根来衆が守る千石堀城を落とし、それに続いて雑賀衆が篭もっていた沢城も陥落させましたが、この二つの拠点を制圧すると紀州勢の抵抗は途端に弱くなりました。3月23日に、秀吉が和泉山脈を越えて根来寺へ進軍すると、僧侶が僧院・坊舎に放火して一部の寺院建築を残して根来寺は焼け落ち、一時、仏教文化の栄華と鉄砲隊の精強を誇っていた根来衆はあっけなく崩壊しました。3月24日になると、紀州勢の雑賀一揆を数万の大軍で激しく攻め立て、統制を失った農民・土民の雑賀衆の勢力は雲散霧消してしまいました。

紀州勢(雑賀一揆・根来衆)の最後の抵抗拠点が、現和歌山市にあった太田城でしたが、太田城も水攻めで攻撃されて開城することになり、秀吉は武器を捨てない者を斬首して、武器を捨て農耕に専念すると誓ったものの生命を助けました。これは後に、平民・土民・僧侶に武装解除させる『刀狩り(1588年)』の政策にも似た対応ですが、秀吉の『兵農分離の思想』の現れであると解釈することができます。農民や町衆から武器を奪い取る刀狩りは、身分階層が固定化され職業分化が進んだ近世封建主義(江戸時代的な身分社会)の到来を告げる政策であり、土民の一向一揆や僧兵の宗教勢力に悩まされ続けた豊臣秀吉が選択した合理的な民衆統治政策の一環でした。

秀吉は既に浄土真宗の門主・本願寺顕如(けんにょ)を支配下に組み入れており、一向一揆の脅威は取り除かれていましたが、紀州征伐によって比叡山延暦寺と本願寺(一向宗)に並ぶもう一つの大宗教勢力である真言宗の高野山金剛峰寺・高野聖(こうやひじり)が秀吉に帰属しました。平安時代の空海(弘法大師)以来の仏教勢力である高野山が武装解除に応じた背景には、織田信長が武力で抵抗した比叡山延暦寺を徹底して焼討ちしたことの効果もありましたが、秀吉は高野山の聖人・木食応其(もくじきおうご,1536-1608)に帰依して膨大な資金支援を行いました。

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紀州攻めを終えた秀吉は、長宗我部元親が統治する四国への遠征を1585年6月3日に計画しますが、秀吉は体調不良で出陣することができず、6月中旬に秀吉の弟・羽柴秀長(ひでなが,1540-1591)を総大将として四国征伐が行われました。秀吉は四国の周辺諸国の武将を総動員して四国攻めを計画し、秀吉代理の総大将・羽柴秀長と羽柴秀次(秀吉の甥)は淡路から阿波へと進軍し、宇喜多秀家(うきたひでいえ,1572-1655)・蜂須賀正勝(はちすかまさかつ,1526-1586)・黒田官兵衛孝高は讃岐屋島へと攻撃を仕掛け、小早川隆景・吉川元春の毛利軍は伊予から四国を攻めることになりました。

四国の覇者である長宗我部元親と弟の香宗我部親泰(こうそかべちかやす,1543-1593)も必死の抵抗を試みましたが、三方面からの大軍による同時攻撃に対抗するのは不可能と判断して、土佐一国のみの安堵を条件にして秀吉に降伏を願い出ました。羽柴秀長を総大将に立てた秀吉の四国征伐は短期間で成功し(7月25日に長宗我部元親が降伏)、長宗我部氏は土佐一国の領主となり、讃岐は千石秀久・十河存保(そごうまさやす)の領地になり、阿波は正勝の子の蜂須賀家政に、伊予は小早川隆景・安国寺恵瓊・来島通総(くるしまみちふさ)に与えられました。

四国征伐の指揮を執って大功を挙げた羽柴秀長は、紀伊・和泉の領地に加えて大和(奈良)を与えられ、114万石の大大名へと成長し豊臣政権の中枢で重要な役割を果たしていきます。四国攻めをしている秀長の援軍に赴こうとしていた羽柴秀吉ですが、秀長から援軍の必要はないと返事が届いたことから、越中富山に拠点を置いて秀吉に抵抗する佐々成政(さっさなりまさ, 1536-1588)を討伐するために大軍を率いて京都を出発しました。

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佐々成政は織田信長に仕えた重臣でしたが、本能寺の変が起こると柴田勝家に付き、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅ぼされると秀吉に付いたものの、小牧・長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康に協力して秀吉の背後を脅かしました。その後も、秀吉に完全に服従することなく越中富山に居留して、信雄や家康に反秀吉の軍勢を起こすように説得を続けていましたが、信雄・家康は秀吉に臣従するようになっており軍事的に孤立してしまいました。

羽柴秀吉の大軍が織田信雄や前田利家(まえだとしいえ, 1539-1599)を従えて越中に進軍してくると、佐々成政は抵抗することは無意味と悟り即座に降伏し生命だけは救われました。秀吉は越中の一郡だけを佐々成政に分け与え、越中全域を前田利家の子の前田利長に与え、飛騨を金森長近(かなもりながちか)に与えました。1585年までに、紀州攻め・四国攻め・越中攻めを成功させた秀吉の前に立ちふさがるのは、京都・大坂の畿内から遠く離れた九州・関東・奥州だけとなり、秀吉が信長から継承した『日本国統一の夢=天下布武の完成』はいよいよ現実的なものになってきました。

秀吉は佐々成政を攻める前の1585年7月11日に、“藤原姓”の近衛前久の猶子として関白に任命されており、翌1586年9月9日には公家最高位の五摂家が持つ“藤原姓”を超える“豊臣姓”を正親町天皇から賜ります。1586年12月25日に、豊臣秀吉は関白に加えて太政大臣にも任官され、無位無官の農民から戦国武将になった秀吉は『関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん)』という人臣の最高位にまで上り詰めることになります。天皇から位階・官職を授与されている以上は、豊臣秀吉と雖も形式的には『天皇の家臣』であることに変わりはないわけですが、実質的にはあらゆる公家と武家の頂点に立つ日本の最高権力者に近づきつつありました。

1587年に九州薩摩の島津義久・義弘兄弟を降伏させて『九州征伐』を成し遂げ、1590年に後北条氏(北条氏政・氏直父子)の小田原城を陥落させて『小田原征伐(関東平定)』を達成した豊臣秀吉は、応仁の乱から続く戦国時代を終焉させる『天下一統(天下布武)』を遂に完成させたのでした。天正19年(1591年)に、関白及び豊臣家家督を甥の豊臣秀次に譲って、豊臣秀吉は『太閤(前関白の尊称)』と呼称されるようになり、実質的な日本の最高権力者として君臨しました。その後、太閤・豊臣秀吉は戦国時代の負の遺産である『過剰な軍事力・武士の軍勢』の活用と失業対策に苦慮することになり、『唐入り(明征服)』を見据えた朝鮮出兵(文禄・慶長の役)へと突き進んでいくことになります。

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