大航海時代とアメリカ大陸の地図上の発見
スペインのアメリカ大陸への進出
トーマス・フリードマン『フラット化する世界』の書籍を題材にして、経済活動のグローバル化と競争環境のフラット化の相互的な進展についてブログを書きましたが、その冒頭でヨーロッパの大航海時代について触れました。ポルトガルとスペインを中心にして起こった15~16世紀の大航海時代によって、ヨーロッパ世界(キリスト教世界)は、アフリカの喜望峰廻りでインドとの通商航路を開拓し、大西洋を横断して新大陸のアメリカを発見しました。15世紀当時のキリスト教国(西ヨーロッパ)は、イスラム教国のオスマン帝国(1299-1922)によって経済活動が盛んなオリエント(東方地域)との交易ルートを塞がれており、オリエント(インド・中国・アジア)と貿易を行う為に、新たな通商航路を発見する必要に迫られていたのです。
イスラム教を信仰する強大な多民族国家・専制君主国家であったオスマン帝国は、スレイマン1世(在位1520-1566)が治める最盛期には東ヨーロッパから北アフリカ、小アジア、中東地域、中央アジアまでを支配する広大な領土を誇り、かつてヨーロッパ全土を網羅する史上最大の帝国を構築したローマ帝国に迫る勢いでした。小アジア(アナトリア)の小国として建設されたオスマン朝はイスラム教を布教しながら順調に支配領域を拡大していき、1453年にはオスマン朝の君主(スルタン)メフメト2世(在位1451-1481)が、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープルを陥落させました。
東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世ドラガセス(在位1448-1453)は、オスマン帝国の10万の大軍勢に勇敢に突撃しましたがそのまま行方不明となり、東ローマ帝国軍は完全に壊滅させられました。紀元前8世紀のロムルスとレムスによる伝説的なローマ建国から数えると、西ローマ帝国滅亡後(476年以後)は名目的な継続性だけになっていたとはいえ、2,000年以上にわたる長大なローマの歴史は完全に終焉しました。
キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝(在位307-337)によって建設された東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(ビザンティウム)は、メフメト2世に占領されて以降はオスマン帝国の首都イスタンブールとなり、この名称は現在のトルコ共和国に引き継がれています。ヨーロッパとオリエント(中東・インド・アジア)をつなぐ東西交易路の重要な中継地点だったイスタンブールがイスラム帝国であるオスマン朝の首都になったため、スペインやポルトガル、神聖ローマ帝国などのキリスト教国はオリエントとの貿易を自由に行うことが出来なくなりました。東西交易の利益をイスラム教徒が独占するようになり、イタリア商人をはじめとするヨーロッパの商人は非常に厳しい状況に置かれたのです。
イスラム教国によってインドやアジアとの陸上ルート(交易ルート)が塞がれてしまったことが大航海時代の直接の引き金となりましたが、大航海時代の成功を実現した要因には『イタリア・ルネッサンスによる科学技術(地理学・羅針盤・造船技法・航海技術)の発達』と『イベリア半島からイスラム教徒を追い出すレコンキスタ(国土回復運動)の完成』がありました。香料と商品が豊かなインド(アジア)との海上ルート(海上貿易路)を確立しようとして、あるいは、未知の新世界にある莫大な財宝と黄金を求めて、ポルトガルやスペインの国王(パトロン)から資金援助を受けた荒くれ者の船乗りが危険な航海に乗り出したのです。
ヨーロッパから遥か遠く離れた東方(オリエント)に、黄金・宝石・財宝・珍味が溢れる桃源郷(理想郷)があるという話は、中国(元)を実際に訪れたマルコ・ポーロ(1254-1324)の『東方見聞録』によってヨーロッパ世界に広められました。モンゴル民族が世界帝国の元王朝(1271-1368)を築いていた時代にフビライ・ハーン(在位1260-1294)に謁見したマルコ・ポーロは、理想のキリスト教国プレスター・ジョンや黄金の国ジパング(日本)の存在を信じていたといいます。当時のヨーロッパ人が黄金や香料に満ち溢れた豊かな国として夢想していたオリエント(東方世界)は、イスラム圏やシルクロード周辺国、インド、中国、日本などを漠然とイメージさせるものでした。
大航海時代は、ポルトガルのエンリケ航海王子(1394-1460)によって始まり、バルトロメウ・ディアス(1450?-1500)がアフリカ大陸最南端(アガラス岬)に近い喜望峰(嵐の岬)に到達したことで、アフリカ廻りのインド航路の可能性が開けました。ポルトガルは1460年頃までに、カナリア諸島とマデイラ諸島を探検して領土化して、シエラレオネ付近まで船を進めました。ポルトガルは、黄金や物産の豊富な象牙海岸(コートジボワール)と黄金海岸(ガーナ沿岸)も手に入れて、1482年には、現在のガーナに城塞を築き西アフリカに勢力拠点を広げました。
しかし、ヨーロッパ世界の国々が喉から手が出るほどに欲しかったのは、何と言っても、胡椒・丁子(チョウジ)・ニクズク・シナモン・メボウキ・パプリカを中心とした香料(香辛料)であり、香料の安定供給を実現するためには何としてもインドかモルッカ諸島に到達する必要がありました。近代以前のヨーロッパ世界では、胡椒は黄金に匹敵する貴重な香辛料であり、腐敗しかけた古い肉や匂いのきつい肉を食べるためには香料が必需品となっていました。穀物(大麦・小麦)を主食とする南ヨーロッパなど一部の地域を除いて肉食中心だったヨーロッパ世界では、『防腐剤・調味料としての香料』がなければ肉を美味しく安全に食べることが出来なかったのです。西欧列強が海外に植民地を拡大していく帝国主義の歴史は、正に、『生活必需品の香料』を目指す大航海時代によって幕を開けたのです。
ポルトガルのマヌエル1世からインド航路開拓の命令を受けたヴァスコ・ダ・ガマ(1469?-1524)は、ディアスが到達した喜望峰を越えて更に航海を続け、アフリカ大陸東岸を北上してインドに到着することに成功しました。ヴァスコ・ダ・ガマが、アフリカ廻りのインド航路でインドのカリカットに到達したのは1498年5月20日でした。これ以降のポルトガルは、マレー半島とセイロン島(スリランカ)も勢力圏に組み込んで全盛期を迎えます。更に、イスラム商人を介在させずに(中間マージンを取られずに)香料と貴金属のインド貿易を行って莫大な利益を上げました。極東地域にある日本の種子島にポルトガル人が、1543年に鉄砲を伝来し、1549年にキリスト教を布教したのは有名ですが、ポルトガルの経済を潤したのは1512年のモルッカ諸島(香料群島)への進出でした。
イタリアの海港ジェノバの野心旺盛な商人(船乗り)だったクリストファー・コロンブス(1451年頃-1506)は、大西洋を横断してインドを目指す西周り航路を発見しようとして、ポルトガル王・ジョアン2世に資金援助を依頼するが断られます。その後、スペイン(カスティリヤ王国)の女王イザベラ1世(イサベル1世)とその夫フェルナンド5世(アラゴン王としてはフェルディナンド2世)から資金援助を得ることに成功したコロンブスは、旗艦サンタ=マリア号で大西洋横断を達成します。
スペイン王室がコロンブスへの資金援助(ハイリスクな投資)を受諾した背景には、イベリア半島に残っていた最後のイスラム教徒の拠点グラナダを陥落させて(1492年)、国力と財力が充実していたことがありました。コロンブスは、アメリカ大陸の南東部に浮かぶ西インド諸島(バハマ諸島のサン・サルバドル島)に到達して、更に、周辺の小島とキューバ島、イスパニョーラ島を発見してキューバ島をフアナ島と命名しました。コロンブスは、結局、北アメリカ大陸本土には到達できませんでしたが、南アメリカ大陸のベネズエラのオリノコ川付近には上陸して植民活動を行いました。
今まで、ヨーロッパ人の誰もたどり着けなかった南北アメリカの海域に初めて到達したということで、コロンブスが『地理上の発見者(アメリカの発見者)』と認識されることが多いですが、コロンブス自身はカリブ海に浮かぶ島々を『インド周辺の島』と誤認していました。元々、大西洋を横断する西廻り航路でインドに行こうとしていたコロンブスは、(南アメリカ大陸を含めて)自分が到達した領域を死ぬまで『アジアの一部』だと思い込んでいました。実際に、北アメリカ大陸に初めて到達した白人(ヨーロッパ人)が誰なのかについては特定不能なのですが、アメリカという名称はフィレンツェの裕福な商人で冒険家のアメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci, 1454-1512)にちなんだものです。アメリゴ・ヴェスプッチは、コロンブスの発見した大陸はインドや中国のあるアジア大陸ではなく、アジアとは異なる新大陸であると主張しました。しかし、アメリゴ・ヴェスプッチの名前が南北アメリカ大陸に冠された最大の理由は、彼自身の探検の成果というよりも、ドイツの地理学者ワルトゼー・ミュラーが書いた『世界誌序論』の発刊と資金力を活用した彼の自己宣伝力にあったようです。
白人の誰が一番初めにアメリカ大陸に到達したのか分からない理由としては、コロンブスやアメリゴ・ヴェスプッチがアメリカに到達する以前に、北欧のバイキングたちがアメリカ大陸にやってきている形跡があることが上げられます。中世の9~10世紀頃に、スカンディナビア半島にいたスウェーデン人やノルマン人、そして、デンマーク人がアイスランドやグリーンランドに植民地を建設し、11世紀には、北アメリカ大陸の何処かにヴィンランド(ワインの土地)という農作物が育ちやすい地域を見つけて定住生活を送っていたのです。いずれにせよ、コロンブスのアメリカ到達やマゼラン(1480-1521)の世界周航(1519-1522)によって、ヨーロッパ諸国のアメリカ大陸への進出が始まり、南北アメリカ大陸はスペインやフランス、イギリスによって探検され支配され植民地化されていきます。
ヨーロッパ諸国の中で逸早くアメリカ大陸に到達したスペインは、主に中央アメリカ(メキシコ)と南アメリカ(ペルー)に進出して、強大な軍事力を背景に苛烈で非情な支配を行いましたが、北アメリカ大陸には殆ど勢力圏を広げることが出来ませんでした。軽火器(鉄砲)と鉄製の鎧で武装した軍隊を持つスペインは、中南米の植民地化と原住民の奴隷化を短期間で成し遂げました。スペインの征服者のことを『コンキスタドール』といいますが、歴史上に名前を残す代表的なコンキスタドールには、インカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロ(1471,1478-1541)とアステカ文明を滅ぼしたエルナン・コルテス(1485-1547)がいます。当時、帝国主義国家として全盛期を迎えようとしていたスペインの国王はカルロス1世(在位1516-1556)であり、カルロス1世は後に、神聖ローマ帝国の皇帝としても戴冠しカール5世(在位1519-1556)とも呼ばれました。
中南米に埋蔵された金・銀を掘削して収奪することに熱中したスペインは、安定した文明社会の形成につながる産業の育成や市場の拡大に力を入れませんでした。その為、遅れてやってきたイギリスやフランスと比較すると、植民地経営から長期的な利益(交易活動・定住する拠点)を得ることが出来ませんでした。しかし、16世紀当時のヨーロッパ諸国の人権感覚や政治理念、経済システムを考えると、アメリカに一番乗りしたのがスペインでなく仮にイギリスやフランスであっても、アステカ王国やインカ帝国の滅亡と固有文明の破壊は免れなかったでしょうし、黄金・物資・女性の略奪、原住民の奴隷化(労働力の搾取)は起こっていたでしょう。
15~16世紀に、スペイン王国は、中米メキシコで栄華を極めていたメソアメリカ文明のアステカ文明(アステカ王国)を壊滅させ、南米ペルーを中心として広大な版図を誇っていたインカ帝国(インカ文明)を滅亡させました。ユカタン半島やグアテマラを拠点として存続していたマヤ文明も、スペインの侵略によって終焉の時を迎えました。マヤ文明の都市国家は、9世紀頃から、焼畑農法や漆喰の製造に必要な森林伐採によって土地が生産力を失い、人々の生活水準は悪化していきました。食糧と資源の不足によって戦争が多くなり、マヤ文明は総体的に衰退傾向にありましたが、スペインの進出によって1697年にマヤ文明は完全に消滅しました。マヤ文明は鉄器や青銅器を持っていなかった為、軍事力の進歩は停滞していましたが、高度な建築技術や精巧な土器、4万文字にも及ぶマヤ文字を持っていました。
テノチティトランを首都にするアステカを滅亡させた征服者エルナン・コルテスは、初めアステカ王・モクテスマ2世から白い神ケツァルコアトルの化身として歓迎されたという面白いエピソードを持っています。コルテスを神と間違えて厚遇したモクテスマ2世は貴族階級の反乱によって暗殺され、新たな王としてクイトラワックが立ちますがクイトラワックはスペイン人が持ち込んだ天然痘ですぐに死去します。その後、武力に優れた戦士クアウテモックが王となってスペインに抵抗しますが、コルテスはトラスカラやテスココといった都市国家と軍事同盟を結んで首都テノチティトランを陥落させ(1521)、アステカ全土はスペインに制圧されました。
南アメリカ大陸の現地人であるケチュア族が建国したインカ帝国(インカ文明)は、全盛期には、ペルー(首都クスコ)、ボリビア、チリ、アルゼンチンまで包摂する広大な領土を持っていました。しかし、スペインのコンキスタドール(征服者)であるフランシスコ・ピサロ総督は、少数の軍勢を率いてインカ帝国を侵略し、数万の軍隊を従えたインカ帝国皇帝アタワルパをカハマルカで捕虜にしました(1532)。ピサロは、アタワルパを釈放する身代金として莫大な財宝と黄金をインカ帝国から受け取ったにも関わらず、1533年にアタワルパを殺害して首都クスコに無血入城しインカ帝国を滅ぼしました。
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