老中・田沼意次の政治と田沼時代の蘭学奨励

田沼意次の老中への出世と重商主義の政治改革
『解体新書』の刊行と町人文化の発展

田沼意次の老中への出世と重商主義の政治改革

『徳川吉宗の享保の改革』の項目では、8代将軍・徳川吉宗の質素倹約と風紀粛清、目安箱などを中心とした幕政改革を解説しましたが、吉宗の後には田沼意次(たぬまおきつぐ)が登場して老中の地位に上り詰め、開明的な商業活動・貨幣経済を重視した財政改革に着手することになります。

田沼意次(1719-1788)は享保4年(1719年)に紀州藩の足軽で旗本にまでなった田沼意行(おきゆき)の長男として産まれ、次期将軍が内定していた9代将軍・徳川家重(1712-1761)に西の丸小姓(こしょう)へと取り立てられます。徳川家重が将軍に就任すると田沼意次は本丸で仕えるようになり、1748年以降は加増に加増を重ねて将軍側近の御側御用取次(おそばごようとりつぎ)となります。

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1758年には意次は1万石を領する大名となり、9代将軍・家重の死後も10代将軍・徳川家治(いえはる:在位1760-1786,1737-1786)に重用されて、明和4年(1767年)に従四位下の側用人に出世し2万石の遠江・相良城(さがらじょう)城主となります。明和6年(1769年)には侍従(じじゅう)となって老中格の扱いを受けるようになり、安永元年(1772年)に相良藩5万7,000石の大名に抜擢されて幕政を担う『老中』を兼任する異例の大出世を遂げます。

田沼意次は600石の旗本の身分から5万7,000石の相良藩の大名にまで急速な昇進を遂げただけでなく、幕府の中枢にあって政治改革を主導する老中の地位を得たのでした。田沼意次は幕政中枢に深く食い込むための『閨閥の発展』にも力を尽くしており、老中首座・松平康福(やすよし)の娘を長男・田沼意知(おきとも)の室に迎え、四男・田沼意正(おきまさ)を老中・水野忠友(ただとも)の養子にしています。意次の弟である田沼意誠(おきのぶ)は、御三卿の一橋家の家老であり徳川親藩との間にも強い結びつきがありました。

老中・田沼意次が幕府の政治を行った時代を『田沼時代(1767/1779頃-1786頃)』と呼びますが、江戸中期に当たる田沼時代は江戸・大坂・京都を中心にした『商業資本・商品経済・貨幣流通』が発達した時代であり、『石高制(こくだかせい)』によって農民から年貢を徴収し換金する幕府・藩の財政が困窮し始めた時代でした。貨幣経済においては『金経済圏の江戸』と『銀経済圏の大坂』の二つの商業圏が活発化しましたが、幕府や藩は金相場や米相場の変動に振り回され、現金収入の手段や商業資本が乏しいこともあって財政赤字が急速に拡大します。相場が下落傾向にあった『米(年貢)』に収入の大部分を依拠する諸藩の大名・旗本は現金が乏しく、貨幣経済には上手く適応することが出来ませんでした。その結果、大名を含む武士階級の多くは商人や高利貸しから多額の借金を重ねるようになり、年賦償還(長期ローン)による『借金返済の負担』もかなり大きくなっていました。

幕府や各藩は財政の建て直しを『年貢の増税・財政の倹約(緊縮財政)』といった改革によって乗り越えようとしましたが、それらの支出を抑える財政改革は財政回復のために必要な『現金収入の増加』には役立たないものであり、幕府・藩の財政は米相場下落と共にますます悪化しました。更に、年貢の重税に喘いで困窮した百姓の百姓一揆や強訴、打ち毀し(うちこわし)も増えてきました。田沼意次の幕政改革を肯定的に見る人は『初期資本主義を先取りした重商主義政策』と評価し、否定的に見る人は『私利私欲や金権主義を蔓延させた賄賂政治』と評価しますが、意次の政治改革の中心は商業資本の有効活用(規制緩和)と商品流通の活性化、庶民的な文化・風俗の容認にあったと解釈することができます。

田沼意次の政治を簡単にまとめてしまえば、『米(現物経済)を中心とする重農主義政策』から『金銭と商品(貨幣経済)を中心とする重商主義政策』への転換を促進する政策を次々に打ち出したということになります。幕府の財政再建という観点では、株仲間(ギルド的な職業組合)を公認したり商業活動の活性化につながる専売制を奨励するなどして、『年貢収入』よりも『現金収入』のほうを優先しました。

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田沼意次の政治改革では、株仲間(同業者組合)を公認して冥加金(みょうがきん)という税金を徴収し、商人階級にも専売制の特権を与えて商品運搬にかかる運上金(うんじょうきん)という税金を課して幕府の財政収入を増やすことに努めました。意次は五匁銀(ごもんめぎん)・南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)といった新貨の鋳造を行って通貨制度の統一を図ると同時に、金・銀の為替相場の調整によって不足しがちな江戸幕府の財政を損失補填しようとしました。田沼意次が行った政治改革の具体的な内容としては、株仲間の結成・公認、銅座など専売制による商業振興、貨幣鋳造のための鉱山開発、蝦夷地の探検と開発計画、ロシア帝国など外国との貿易活動の重視、下総国・印旛沼の干拓事業、学術的知見を拡大する蘭学の将来などがありますが、これらの政策の多くは重農主義や朱子学・身分制度を重んじる守旧派の幕臣には受け容れられないものでした。

田沼意次の開明的・先進的な重商主義政策は幕府財政を回復させて、世の中全体の動きも概ね良い方向に向かっていましたが、商業資本の優遇によって賄賂政治の風潮が定着して『汚職・不正の増加』も生まれました。更に、1783年の浅間山噴火や1786年の関東・畿内・西国での洪水など大規模な天災が相次いで米が不作となります。過酷な天災で農業が不作になったにも関わらず諸藩の大名が米を大坂の商人に輸出したため、飢饉と不満による政情不安が急速に強まりました。1782年-1788年(天明2年-8年)の『天明の大飢饉』によって米が不足して米価高騰が起こり、農民・町民の間には飢餓・疫病の苦しみが広がって政情は急激に悪化します。困窮した庶民が百姓一揆を起こしたり、『打ち毀し』によって富裕な商人の邸宅や米屋の米蔵が襲われたりしました。

江戸でも庶民による打ち毀しが増発する世情の混乱と天明の大飢饉の苦しみの中で、田沼意次の政治改革に対する抵抗勢力も強くなり、1784年には田沼の嫡子で若年寄の田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺される事件が起こります。意知の暗殺以降は10代将軍・家治の勘気を蒙ったこともあり田沼意次の重商主義の財政改革のスピードは鈍化していき、天明6年(1786年)8月25日に家治が死去すると反田沼派と一橋家が反撃に転じます。8月27日に田沼意次は老中の地位を追われることになり、次の幕政の主導者となった松平定信に財産と江戸の邸宅を没収されて、相良城の所領も奪われるという苛烈な処分を受けます。

老中首座・松平定信(まつだいらさだのぶ,1759-1829)とその側近は幕府の重職から田沼派を追放して、田沼政治を完全否定する保守的・重農主義的な『寛政の改革』を行います。しかし、商品流通・貨幣経済を規制して質素倹約や年貢の増税、風紀粛清(風俗の引き締め)、朱子学以外の異学禁止を強権的に行った『寛政の改革』では、現金収入が減って幕府財政を立て直すことができず財政赤字を更に悪化させました。大田南畝は禁圧の多い松平定信の時代に『白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき』という田沼時代を偲ぶ狂歌を歌っています。

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『解体新書』の刊行と町人文化の発展

田沼意次は『江戸中期の万能人』とも評され蘭学・本草学(博物学)・医学の造詣が深い平賀源内(ひらがげんない,1728-1780)と親交があり、オランダを経由して持ち込まれる西洋の学問・技術・文物にも関心を示していました。

平賀源内はオランダ製の静電気発生装置エレキテルを紹介した事績や先駆的な戯作者としての才能で知られますが、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した杉田玄白と面会したこともあり、玄白の書いた『蘭学事始(らんがくことはじめ)』の回想録に源内が登場しています。前野良沢・杉田玄白らが『ターヘル・アナトミア』を日本語に翻訳した『解体新書』は、日本で初めて西洋語で書かれた書物を翻訳したものであり日本人が医学をはじめとする近代的な科学精神に触れる契機になるものでした。

当時の日本にオランダ語を正確に理解できるものは、長崎の通詞(つうじ)を含めてもほとんどいませんでしたが、前野良沢(まえのりょうたく,1723-1803)・杉田玄白(すぎたげんぱく,1733-1817)・中川淳庵(なかがわじゅんあん,1739-1786)らは暗号を解読するような厳しい翻訳作業(3年5ヶ月の期間)を地道に続け、安永3年(1774年)に『解体新書』を須原屋市兵衛の出版で刊行することに成功しました。翻訳のメンバーの中では青木昆陽に師事してオランダ語の基本を学んだ前野良沢が一番語学力が優れていたとされますが、『解体新書』は桂川甫周(かつらがわほしゅう)の手によって将軍に推挙されました。

『解体新書』の発行によって西洋の合理主義精神を伝える蘭学が発展することになり、オランダ語の書物を介して『地理学・天文学の知識』も更に進歩しました。1605年(慶長10)には、イエズス会の宣教師マテオ・リッチが描いた『坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)』が日本に伝来していますが、この地図を手本として日本でも『和漢三才図会(わかんさんさいずえ,1712年)』や地理学者・長久保赤水(ながくぼせきすい)『地球万国全図(1788年)』が描かれました。

浮世絵師・鈴木春信(すずきはるのぶ)の弟子で前野良沢からオランダ語の教えを受けていた司馬江漢(しばこうかん)は、銅版画で世界地図としての『地球図』を制作しましたが、鎖国体制の日本でより正確な世界地図を描けるようになったことは『現実的な世界認識の拡張』に大きく貢献しました。イタリア人宣教師のシドッティを取り調べて書かれた新井白石(あらいはくせき)『西洋紀聞(せいようきぶん)』『采覧異言(さいらんいげん)』も世界の多くの国々の地理・風俗・文化・習慣について言及しています。

18世紀後半に最も権威ある地理学書とされたのは、蘭癖大名として知られる福知山藩藩主・朽木昌綱(くつきまさつな)が1789年(寛政元年)に書いた『泰西輿地図説(たいせいよちずせつ)』でした。『ターヘル・アナトミア(解体新書)』の翻訳作業にも関与した桂川甫周の弟である戯作家・森島中良(もりしまなかよし)は、中国の地理書『職方外記(しょくほうがいき)』を参照しながらオランダ人の伝承や西洋の地理をまとめた『紅毛雑話(こうもうざつわ,1787年)』を刊行しました。

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鎖国体制下にある日本の海防問題について論考した林子平(はやししへい)は、蝦夷地を防衛上の重要拠点と見定めました。林子平は朝鮮・琉球・蝦夷地に関する地理的書籍として『三国通覧図説(さんごくつうらんずせつ)』を刊行しています。18世紀半ばの江戸中期(安永・天明期)には、江戸の町人文化(大衆文化)として戯作(げさく)の文学が急速に発展・普及しますが、その中心にあったのが『滑稽本(こっけいぼん)・洒落本(しゃれぼん)・黄表紙(きびょうし)・読本(よみほん)』と呼ばれるジャンルでした。

江戸時代の風俗や人情を描く戯作は『談義本(だんぎぼん)』と言われ、その走りは1753年の静観房好阿(じょうかんぼうこうあ)『当世下手談義(いまようへただんぎ)』や1763年の平賀源内『風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)』などにあります。戯作のうち『洒落本(しゃれぼん)』と呼ばれるジャンルは、江戸吉原の遊郭・遊里を舞台にした人情ものの文学であり、多田爺(ただのじじい)『遊子方言(ゆうしほうげん)』など吉原の遊郭で遊びなれた『通(つう)』の視点を通した洒落本が書かれました。

『黄表紙(きびょうし)』というのは多色刷り(たしょくずり)の挿絵が付けられた大人向けの文学であり、1775年(安永4年)の恋川春町の『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』から始まり、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)や天明期で一番の戯作家と称される山東京伝(さんとうきょうでん)へと引き継がれていきました。北尾重政から浮世絵を学んだ山東京伝は1782年の『御存商売物(ごぞんじしょうばいもの)』をヒットさせ、1785年に江戸で幅広い層の人気と関心を呼んだ『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』で、洒落本・黄表紙の戯作家として高い評価を受けることになりました。1776年には中国白話小説から題材を取った上田秋成(うえだあきなり)が怪異小説の最高傑作とされる『雨月物語(うげつものがたり)』を完成させています。

18世紀半ばの絵画の世界では、狩野派が衰退して精緻で写実的な『写生派』として知られる円山応挙(まるやまおうきょ)・松村呉春(まつむらごしゅん,応挙の弟子)や中国画の影響を強く受けた『南画(なんが)』池大雅(いけのたいが)・与謝蕪村(よさぶそん)などが台頭しました。色鮮やかでダイナミックな『錦絵(にしきえ)』が登場した『浮世絵』の世界も最盛期に突入し、勝川派・鳥居派・北尾派・歌川派といった流派の浮世絵だけではなく、1794年5月には魅力的で臨場感溢れる役者絵を短期間で次々と完成させた天才的な絵師・東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)が現れました。

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