エーゲ海文明を制圧したギリシア人の文明
ローマ的な同化政策・拡大戦略を不可能にするギリシア人のアイデンティティ
アレクサンドロス大王のギリシア統一とギリシア文明圏の歴史的な衰退
ヨーロッパ世界の思想・文化の源流は古代文明のギリシアとローマにありますが、古代ギリシア文明は紀元前2,000年頃のエーゲ海文明(クレタ・ミケーネの青銅器文明)から始まり、ペルシア戦争後の紀元前5世紀にアテナイ(アテネ)とスパルタの都市国家(ポリス)で最盛期に達しました。トロイア文明の中心地である小アジアのトロイ遺跡(イリオス遺跡)は伝説的なトロイ戦争(紀元前12世紀頃)の舞台であり、ドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマンによって発掘されました。
古代ギリシアを代表する詩人ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』の悲劇的な叙事詩によると、ヘクトールを総大将とするトロイ軍はアガメムノンを総大将とするアカイア人の軍勢(ギリシア人)に打ち破られてトロイ文明は滅亡したとされています。トロイで豪勇無双の将軍とされたヘクトールは、ギリシア軍最強を誇る無敵の戦士アキレスとの一騎打ちに敗れ、都市国家トロイはオデュッセウスの『トロイの木馬』の計略に騙されて消滅します。
文字と青銅器を持つエーゲ海文明の起源は、B.C.20世紀頃に線文字Aを持つ文明として繁栄した『クレタ文明』とB.C.15世紀頃に線文字Bを持つ文明として優勢となったペロポネソス半島の『ミケーネ文明(ミュケナイ文明)』にあります。青銅器を持つクレタ文明(クレタ島)とミケーネ文明(ミュケナイ・ティリンス)は、青銅器よりも戦闘に適した鉄器を持つギリシア民族(アカイア人・イオニア人・ドーリア人)によって圧迫されるようになり、B.C.14世紀にはエーゲ海島嶼部へと進出したアカイア人やドーリア人(ギリシア民族の一派)によってエーゲ海文明(クレタ・ミケーネ)は滅ぼされます。B.C.20世紀頃から、高い攻撃力を持つ「鉄器文明」を持ったギリシア民族が移住を始め、イオニア人はギリシア北部・中部や小アジア(アナトリア半島)に移動しました。ギリシア民族の総称とされることもあるアカイア人は、B.C.14世紀頃に主にエーゲ海周辺の島嶼部へと移動し、最も高い軍事力を持っていたドーリア人は、B.C.12世紀頃に主にペロポネソス半島に移住しました。
B.C.8世紀にはギリシア人が形成したポリスが地中海世界の覇権と海運を掌握するようになり、ギリシア世界は海上貿易(通商交易)で莫大な富を得て、創造的なヘレニズムの文化芸術や思想哲学を発展させていくことになります。古代ギリシアの代表的なポリスには、イオニア人のアテナイ(アテネ)とドーリア人のスパルタがあり、イオニア人やドーリア人は地中海沿岸部やアナトリア半島(小アジア)、イタリア半島、シチリア島(シラクサ)、クレタ島、ガリア沿岸部(マルセイユ)などに多くの植民都市を建設してヘレニズム(ギリシア風)の文化・慣習を広大な領域に普及させました。
アテナイは、ダレイオス1世率いるアケメネス朝ペルシアを打倒するペルシア戦争(B.C.492-B.C.449)後に、直接民主制で政治運営を行うペリクレス(B.C.495頃-B.C.429)の時代に最盛期に達しますが、スパルタとのペロポネソス戦争に敗れてからは急速に衰退しマケドニア王国(その後のディアドコイの帝国)の勢力圏に組み込まれていきます。紀元前5世紀にアテナイは、アテナイ海洋帝国と呼ばれるほどの権勢を誇りましたが、デロス同盟の『対ペルシア帝国の軍事資金』をアテナイ一国の軍事増強やインフラ整備のために流用したため、同盟関係にあった周辺ポリスの信頼と協力を失ってスパルタとのペロポネソス戦争に敗退したのです。
質実剛健を基本理念とするスパルタの市民は、贅沢や装飾を抑制して団結力を高めるリュクルゴス制度に従って共同生活を行い、ギリシア世界屈指の強力な軍団を作り上げていました。デロス同盟の盟主アテナイを打倒するペロポネソス戦争(B.C.431-B.C.404)期にスパルタは最盛期を迎えます。しかし、ペロポネソス戦争後の自由貿易の浸透による『経済格差の拡大』でスパルタ市民の一体感と団結心が減退して、エパミノンダス率いるテーバイとのレウクトラの戦い(B.C.371年)に敗れてスパルタは急速に衰退しました。
古代ギリシア文明の拠点地は民族的・文化的同一性の高い小規模な『ポリス(都市国家)』であり、帝国主義的な領土国家でもなく官僚主義的な制度国家でもなかったので『市民人口の増大・異民族の同化政策・軍事力の増強・政治制度の整備・行政機構の拡大』に一定の限界を抱えていました。
つまり、ギリシアの文化・政治・軍事の担い手は飽くまで各ポリスの主権者である『市民(citizen)』であり、アテナイ(アテネ)やスパルタに生まれた市民でない奴隷や在留外人(メトイコイ)には、決して参政権や兵役の義務が与えられることはなかったのです。ギリシアの各ポリスでは、ノブレス・オブリジェ(貴族・市民の義務)としての『軍事活動(共同体の防衛義務)』と『参政権』が絶えずセットで意識されていたので、アテナイやスパルタでは奴隷(捕虜)や外国人を兵士として活用することがない代わりに、両親がギリシア人(当該ポリスの出身者)である純粋な市民以外に『ポリスの参政権』が付与されることもありませんでした。
大帝国へと発展するローマは、ガリア人やゲルマン人などの異民族を政治的・文化的・心理的に同化することで『安定統治できる支配領域』と『広大な帝国領土を防衛できる軍事力』を確保しましたが、ポリス市民とそれ以外の人間を排他的に区別する古代ギリシアのポリスには『ローマ的な同化政策』に基づく拡大戦略を採用する余地がありませんでした。古代ギリシア文明を繁栄させたギリシア的なポリス(都市国家)の限界は、点在する植民都市を建設することはできるが、政治権力や軍事力を首都(中央)に集中させるローマ的な帝国を計画することができないということであり、アテナイやスパルタなどのポリスを防衛しようとする『ギリシア市民の数』を継続的に拡大させることが極めて困難であるということです。
アテナイ市民やスパルタ市民ではない外国人(メトイコイ)や捕虜(奴隷)は、どんなに努力してポリスの国益に貢献しても『参政権を持つ正式な市民』にはなれないので、ギリシア的なポリスではポリス防衛の義務を担う兵士(市民)の数に自ずから限界があります。『戦争の敗者の領土・人民』を同化して取り込もうとするローマやペルシアのような帝国と比較すると、ギリシアのポリスは自立自尊の気概が強く他民族や異民族をギリシア民族の内部へと取り込んで『ポリスの人口の増大や軍事力の拡大』を目指そうとする意欲が殆どなかったのです。誇り高きギリシア人は自らを神々の子孫であるヘレネス(ヘレンの子)と呼び、異民族をバルバロス(意味不明の言語を話す蛮族)と呼んで蔑視していましたが、その『選良的・排他的な市民意識』によって古代ギリシア世界の軍事的拡大(帝国化)には一定の限界がありました。
その為、古代ギリシア文明を繁栄させたポリス群は、飽くまで個別的な自立性を優先する『バラバラの都市国家』に過ぎず、ローマのように広大な版図(属州)と強大な集権システム(元老院・民会・元首・皇帝)を持つ『帝国(多民族・多文化の世界帝国)』にはなれなかったのです。紀元前1世紀~紀元2世紀頃の最盛期のローマには、ポンペイウスやユリウス・カエサル、アウグストゥス(オクタヴィアヌス)、トラヤヌス、ハドリアヌスといった強力で有能な軍事指導者(政治指導者)が次々と出現して、ローマの支配領域と政治的影響力を急速に拡大していきました。ローマ帝国(共和政ローマ)の飛躍的発展を支えた最大の原動力は、戦争の敗者を補助兵(アウジリアリス)としてローマ軍(レガートゥス)に編入する『異民族の同化政策(ローマ軍の効率的増強策)』であり、ローマに帰属した異民族の自治(敵対勢力の支配層の温存・信教の自由)を積極的に認める『機能的な分割統治(反乱のリスクを下げる異民族の心情に配慮した統治)』でした。
しかし、ギリシア人(ヘレネス)と異民族を厳しく区別して、戦争の敗者を奴隷化するギリシアのポリスでは『ローマ帝国のような同化政策や分割統治』を採用できず、ポリスの政治判断や軍事活動に参加できるのは『純粋なギリシア市民』に限定されていました。『純粋なギリシア市民』だけの人口規模や軍事能力には一定の限界があるので、『排他的な市民意識』を持つギリシア人では、ローマ人のような寛容と共存の精神を活用した世界帝国を建設することは出来なかったのです。『先進的な文化芸術・理性的な思想哲学・実用的な航海や建築の技術』を誇ったギリシア民族のポリスの弱点は、『ポリス間の利害対立』が大きくてギリシア人全体で一致団結することが殆ど出来なかったことであり、内戦や内部抗争によって自滅的にポリスの国力を疲弊させてしまいました。その結果、『強大な軍事力と高い成長力を持つ周囲の大国・帝国』に対する安全保障の能力を失ってしまい、ギリシア世界全体の凋落はマケドニアのフィリッポス2世に敗北したカイロネイアの戦い(B.C.338)で決定的となりました。
古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの『歴史』に記述されているペルシア戦争(B.C.492-B.C.449)は、小アジア(アナトリア半島)を勢力圏に収めようとするアケメネス朝ペルシアにギリシア人(イオニア人)が住むイオニア植民都市が反乱を起こし、その『イオニアの反乱(B.C.499)』をアテナイが支援したことで起こりました。アテナイを盟主とするギリシア連合軍は、アケメネス朝ペルシア(B.C.550-B.C.330)を強大な軍事力と経済力を持つ大帝国へと成長させたダレイオス1世の大軍をマラトンの戦い(B.C.490年)で撃破しました。
ダレイオスの後を継いだクセルクセス1世もギリシア全土の制圧を計画しますが、B.C.480年のサラミスの海戦でギリシア連合軍に敗れてペルシア本土へと撤退していきます。B.C.479年にはマルドニオス率いるペルシア帝国軍を、プラタイアの戦いで打ち破ったギリシア連合軍が戦勝を濃厚なものとしました。続くミュカレの戦いでもギリシア軍が勝利して、ギリシア優勢のままに和平条約(カリアスの平和, B.C.448年)を結ぶことに成功したのです。
ギリシアの有力ポリスであったアテナイとテーバイの連合軍が、フィリッポス2世率いるマケドニア王国にカイロネイアの戦い(B.C.338)で敗退したことで、ギリシア世界全体はマケドニアの勢力圏に置かれるようになります。その後、マケドニアに世界史に不朽の名前を残す一代の英雄・アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王, B.C.356-B.C.323)が現れて、天才的な軍事能力と政治指導力を発揮しギリシア文明圏にマケドニアの覇権を確立します。ギリシアの諸ポリスの軍事的な弱点は、『ギリシア世界の権力を集中できないポリス間の内部分裂』と『強力なリーダーシップを発揮する専制君主の不在(否定)』でしたが、マケドニアのアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)はギリシアの諸ポリスを統一する『集権的政治体制』を確立して、驚異的な軍事指導力を発揮し各ポリスのギリシア軍を結集してペルシア遠征を断行しました。
ギリシア世界を大同団結させて軍事力を充実させたアレクサンドロス大王の東方遠征によって、西はギリシアやエジプト(北アフリカ)、シリア(中東)から東はペルシアやインド国境線にまで及ぶ史上空前の大帝国が建設され、ヘレニズム文化(ギリシア風文化)がペルシア帝国やインド・中国といったオリエント世界にまで普及することになりました。アレクサンドロス大王は、ダレイオス3世率いるアケメネス朝ペルシアをイッソスの戦い(B.C.333年)で打倒し、紀元前330年には首都ペルセポリスを陥落させてアケメネス朝ペルシアを滅亡させました。アレクサンドロス大王は、さらにアラビア遠征とインド文明圏の支配を計画していましたが、大帝国を拡大する軍事行動を起こす直前に原因不明の熱病(伝染病)に冒されて急逝しました(B.C.323年)。
マケドニアの世界帝国の安定統治は、アレクサンドロス大王のカリスマ的な指導力と天才的な軍事戦略にその多くを支えられていたので、アレクサンドロス大王の死後は世界帝国の維持や拡大が不可能となり、ディアドコイ(後継者)と呼ばれる複数の将軍がアレクサンドロス大王の地位・権力を巡って争う『ディアドコイ戦争』が勃発しました。苛烈な権力闘争であるディアドコイ戦争を勝ち抜いた将軍によって、広大無辺なマケドニア帝国の版図は分割統治されることになりました。軍事的に優位に立つ複数のディアドコイたちは帝国を分割して、アンティゴノス朝マケドニア(B.C.306-B.C.168)・セレウコス朝シリア(B.C.312-B.C.63)・プトレマイオス朝エジプト(B.C.306-B.C.30)などの王国が建設されました。
その後、アレクサンドロス大王の遺産を継承したヘレニズムの王国は、勢力を拡大し続けるローマとの戦争に敗れ、ローマの支配領域の一部へと組み入れられることになりました。最後まで独立を維持し続けていたプトレマイオス朝エジプトも、マルクス・アントニウスと結んだ女王クレオパトラ7世が、ローマの初代皇帝アウグストゥス(オクタヴィアヌス)に政権闘争で敗れて紀元前30年に滅亡しました。エジプト王国はローマが間接統治する『エジプト属州』へと変わり、農業生産力と海洋交通の利便性が高かったエジプト属州は『ローマの穀倉』の役割を果たすようになります。
ギリシア世界の覇権は、『群雄割拠するポリス群』から『有力ポリスのアテナイ・スパルタ・テーバイ』へと移り、『ギリシア世界を統一するアレクサンドロス大王』によってギリシア世界全体が単一の政権の支配下に置かれることになりました。アレクサンドロス大王の死後に古代ギリシア文明が急速に衰退すると、それに取って代わる新興勢力としてイタリア半島のローマが現れ、軍事力と経済力が充実した紀元1~2世紀のローマ帝国の最盛期にはアレクサンドロス大王の世界帝国に匹敵する広大な領土を獲得しました。
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