群馬県の誕生:かかあ天下と空っ風で知られる上州(上野国)の歴史
群馬県も1869年(明治2年)の廃藩置県後に『県名』が二転三転した県ですが、最終的には前橋の所属していた群馬郡の名前が採用されました。群馬県の領域は、上代には栃木県域と合わせて『毛野国(毛の国)』と呼ばれており、毛野国を上下に分割して『上毛野国(かみつけぬのくに)』といわれる国が、現在の群馬県と重なっていました。飛鳥時代から奈良時代、平安時代にかけての『律令制』の時代には、群馬県のあたりは『上野国(こうずけのくに)』とされ、栃木県のあたりは『下野国(しもつけのくに)』とされました。そのため、群馬県(上野国)の異称には『上州(じょうしゅう)・上毛(じょうもう、かみつけ)』という言い方もありました。
群馬郡(久留間)は古代では初め『くるまのこおり』と読まれていて、藤原京の遺構から発見された木簡には『車』という一字表記だけで群馬郡を指していました。奈良時代初期に、全国の郡・郷の名を二文字で表記するルールが制定されて、『車』から『群馬』の表記に改められましたが、群馬は『馬が群れる』という意味でありこの地域一体は『良い馬の産地』だったのではないかと推測されています。群馬県といえば『かかあ天下と空っ風・雷』などの言葉で有名ですが、一世帯あたりの自動車保有台数が首位を争っており女性の免許保有率も高いなど、古くから『女性の社会進出・労働参加』が進んでいた地域としても知られます。
近代日本の繊維業では群馬県は『富岡製糸場・養蚕業』でも有名であり、養蚕・製糸は『おかいこさん』と呼ばれて女性が従事することが多く、現在では製造業も盛んで、遊技機(パチンコ・パチスロ機)の製造拠点としては日本有数の県にもなっています。戦時中も軍需産業が集中する工業の盛んな県であり、高崎市・前橋市・桐生市・伊勢崎市などが工業の拠点になっていました。群馬県は政治的には自民党支持層の多い『保守王国』とされ、戦後は自民党から福田赳夫(高崎市)、中曽根康弘(高崎市)、小渕恵三(中之条町)、福田康夫(高崎市)の4人の総理大臣を輩出しており、地方の県では山口県と並んで首相を出すことの多い県になっています。
中世期には『治承・寿永の乱(源平合戦)』で、源義仲が多胡郡から西部を支配するようになり、東部には新田荘の新田義重(にったよししげ)が勢力を伸ばしました。この源平合戦において、新田荘の隣の足利には秀郷流藤原氏の惣領である藤原姓足利氏がいて平家に付きましたが、秀郷流藤原氏の一族である新田氏やその分家(里見・山名)は源氏(源頼朝)に味方しました。乱の勝者となる源頼朝の敵になった源義仲に付いた『佐位氏・那波氏・桃井氏』や平家に味方した『藤原姓足利氏』は没落することになり、頼朝に付いた東国武士団は『鎌倉御家人』として源氏に臣従しました。
鎌倉末期には、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕活動に新田義貞と足利尊氏が協力して『建武の新政』にも参加しますが、結果として建武の新政は失敗して足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し、天皇方についた新田義貞を打ち破って、1338年に京都で室町幕府を開設します。足利尊氏と足利直義の兄弟が争いあった『観応の擾乱(かんのうのじょうらん)』の後には、現・群馬県の『上州武士』は守護となった山内上杉家の被官(御家人)になっていきますが、上州武士の集団性は戦国時代まで続いたとされます。戦国時代においては、鎌倉公方(堀越公方)を補佐していた『山内上杉家』が戦国大名化して影響力が強くなりますが、相模国に台頭した新興勢力の『後北条氏』と対立して敗れたことで、上野国は後北条氏が統治するようになっていきます。
上州から追われた山内上杉家は越後国の守護代である長尾氏を頼り、長尾景虎が山内上杉家の家督と関東管領職を継承していきますが、この長尾景虎が後の上杉謙信になります。上杉謙信は信濃北部で武田信玄と4度にも及ぶ『川中島の戦い』を行いますが、上野国を含む北関東では後北条氏と向き合っており、現・群馬県では『上杉氏・武田氏と後北条氏(甲相同盟)』がぶつかり合う対立状況が生まれていました。上杉・武田・後北条の三者関係では、『甲相同盟・越相同盟・甲越同盟(甲州の武田・相模の後北条・越後の上杉の間の同盟)』が頻繁に結びなおされて複雑な政治・軍事が展開されましたが、最終的には豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅ぼされ、上州(上野国)は徳川家康の家臣が統治するようになっていきました。
徳川将軍家が幕府を開く江戸時代になると、東国の防衛拠点である上州には譜代大名が配置されるようになり、『前橋藩・高崎藩・沼田藩・館林藩・安中藩・小幡藩・伊勢崎藩・吉井藩・七日市藩』など沢山の藩が置かれました。交代寄合旗本では岩松(新田)氏の岩松陣屋があり、岩鼻には上野国内の幕府領を支配する代官のための陣屋(岩鼻陣屋)が置かれたので、群馬県は廃藩置県の前には『岩鼻県(いわはなけん)』とされた時期もありました。明治2年(1869年)12月26日には、版籍奉還後の『府藩県三治制』に基づいて『岩鼻県』が置かれますが、明治4年(1871年)10月24日には『高崎県』に改められました。
しかし、『高崎県』とする旨が大久保利通と井上馨の名前で通達されたわずか3日後の1871年10月27日に、『群馬県』とする変更が行われました。この短期間での県名変更の理由は、『高崎藩8万石』と『前橋藩15万石』との威信をかけた対立であり、どちらの藩も自らの藩名を県名にしたいという思いを持っていたのですが、明治新政府は対立を調停するために二つの地域が含まれている『群馬郡』の群馬を県名として採用したのでした。明治4年(1871年)11月19日には、群馬県の県庁が高崎城跡地に建てられる計画が立てられますが、富国強兵の国策によって高崎城は兵部省によって接収されることになり、県庁の建設予定地から外されてしまいます。
明治5年(1872年)5月27日に、県庁の建設予定地が『高崎』から『前橋』に変更されることになり、元前橋藩をライバル視していた元高崎藩の人たちの不満が募ってしまいます。更に明治6年(1873年)6月15日に、『群馬県』がいきなり廃止されてしまい、群馬県の領域は『入間県』と『熊谷県』の管轄になったのですが、その理由はただ当時の県令であった河瀬秀治(かわせしゅうじ)が入間県と群馬県の県令を兼務していて、県庁所在地の川越と前橋が離れすぎているので政務がとりにくいということだけでした。『熊谷県』となった群馬県の県庁所在地は、前橋ではなく高崎に置かれるという変更もそこに加わりました。
明治9年(1876年)8月21日には、再び『群馬県』という県名が復活することになりますが、県庁所在地は『前橋』には戻らず、熊谷県時代と同じ『高崎』のほうになりました。しかし明治9年(1876年)9月21日には、当時の県令・楫取素彦(かとりもとひこ)が『高崎』ではなく『前橋』のほうで執務を行いたい旨を宣言して政府がそれを許可するという事態になります。それに対して、高崎では『県庁を前橋ではなく元の高崎に戻してほしい』という嘆願運動が起こるのですが、高崎側の住民が嘆願書を提出しても県から即座に却下されました。高崎の抗議運動は過熱しかけましたが、県令の楫取素彦がじきじきに出向いて『県庁を前橋に置くのは地租改正の事業が終わるまでのことで、一時的に執務上の都合で移転しているに過ぎない。いずれは高崎のほうに県庁を戻す。』と約束したために、抗議は沈静化しました。
しかし、楫取素彦県令はこの高崎市民との約束を守ることなく、明治14年(1881年)2月16日に、『前橋での執務に馴染み落ち着いてきたので、正式に前橋のほうを県庁所在地にしたい』と政府に申し出てそれが承認されてしまいます。約束を破られた高崎市民は憤慨して前橋の県庁へと押し掛け、激しい抗議活動が行われましたが、楫取県令は『高崎の住民と県庁移設に関して正式の約束をしたことはない』と突っぱねました。
明治14年(1881年)8月10日~11日にかけて、数千人以上の高崎市民が抗議のために早朝から県庁へと押し掛け、シュプレヒコールを上げましたが、県はかつての約束を知らぬ存ぜぬで通し、デモ行動に対して『惣代人無効の達(たっし)』を出して牽制しました。この高崎市か前橋市かの県庁所在地の問題は、法廷闘争にまで縺れ込みましたが、結論としては高崎側が敗訴して群馬県の県庁所在地は、現状のまま前橋市にするという判決がでました。『高崎市』は県庁所在地では『前橋市』に遅れを取りましたが、現在の市の経済状況や街(都市)の賑わいにおいては、高崎市のほうが前橋市を超えて発展していったという皮肉な歴史の流れも指摘されます。
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