『天智系』の光仁天皇と桓武天皇の即位
桓武天皇による長岡京・平安京の建都
『飛鳥時代の歴史』の項目では、推古天皇の時代の豊浦宮(とゆらのみや)から藤原京・平城京までの都を紹介しましたが、奈良時代末期になると第49代・光仁天皇(在位770‐781)の長子である第50代・桓武天皇(在位781‐806)が長岡京への遷都を断行することになります。桓武天皇は平城京から長岡京への遷都(784)だけではなく、長岡京から平安京への遷都(794)を決断した人物として日本の古代史(貴族政治)の中で最も重要な人物の一人となっています。『鳴くよ(794)ウグイス平安京』は日本史の年号の語呂合わせで最も有名ですが、長岡京への首都移転を具体的に見ていく前に桓武天皇に至るまでの『天皇の血統(系譜)』を振り返ってみます。
桓武天皇の父は光仁天皇(こうにんてんのう)であり、母は高野新笠(たかののにいがさ)ですが、幼名を白壁王(しらかべおう)と言った光仁天皇は『天武系から天智系の血統へと皇位を取り戻した人物』であり、高野新笠は『百済の王族系氏族(渡来人)の末裔』として知られる女性です。高野新笠の父は和乙継(やまとのおとつぐ)と言い、6世紀初頭の伝説的な武烈天皇の時代に和氏(やまとし)は日本人として帰化したといいます。母は土師真妹(はじのまいも)は葬送儀礼に専従した豪族・土師氏の末裔ですが、広大な勢力圏を持っていた土師氏の中では立場の弱い氏族に位置づけられていたといいます。
高野新笠の身分は皇族の妃としては高くなく光仁天皇の寵愛を受けていたものの、皇后である井上内親王(いのえないしんのう)よりも明らかに低い地位にありました。その為、光仁帝と高野新笠の間に産まれた長子である山部親王(やまべのみこ,桓武天皇)には皇位継承権はなく、光仁帝と井上内親王の間に産まれた第四子の他戸親王(おさべのみこ)が次期天皇になる予定でした。高野新笠は元々父親の姓である和(やまと)を名乗って和新笠と言っていましたが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると宝亀の年に高野朝臣を賜姓されたといいます。『高野』という姓には、死後に奈良県の高野山陵に葬られて、高野天皇と呼ばれた称徳天皇(天武系)との血縁関係をイメージさせるという政治的意味合いもあったようです。
皇后の井上内親王は聖武天皇の娘であり、子の他戸親王は立太子されていましたが、772年に井上内親王が光仁天皇を呪詛して禍いをもたらそうとしたとして、井上内親王は廃后され退けられました(光仁天皇呪詛事件)。当然、母親が天皇を呪詛して廃后されたのですから、子の他戸親王も廃太子されることとなり、山部親王(桓武天皇)に皇位が回ってくることになりました。なぜ、既に身分が保障されていて我が子の皇位継承が決まっていた井上内親王が光仁天皇を呪詛したのかには諸説あります。最も有力な仮説としては、藤原百川を首謀者とする陰謀説があります。井上内親王・他戸親王を支持していた藤原北家の藤原永手(ふじわらのながて)が771年に死去しますが、その後、山部親王(桓武天皇)を立太子しようとする藤原式家の藤原良継(ふじわらのよしつぐ)・藤原百川(ふじわらのももかわ)が勢力を拡大し井上内親王と他戸親王を陰謀に陥れたという説です。
中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が主導した645年の大化の改新(乙巳の変)によって、専横を極めた蘇我入鹿が暗殺され天皇親政の政治体制(天皇自らが政治の指揮を執る体制)が一時的に復活します。一時的に天皇親政が復活するというのは、東大寺の大仏建立で有名な第45代・聖武天皇(在位724‐749)を懐柔した藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)が登場する奈良時代末期から、臣下である藤原氏の影響力が急速に強大化していくからです。奈良時代が終わって平安時代になってくると、天皇を傀儡化して外祖父である藤原氏が政権を掌握する『藤原摂関政治』によって朝廷の政治が動かされるようになっていきます。藤原摂関政治というのは、まず藤原氏の娘が天皇の皇后になり皇太子を出産して、皇太子(次期天皇)の祖父に当たる藤原氏の男性が『摂政・関白』という最高位の官職に就いて政治の実権を握るというものです。
平安時代末期には、保元の乱(1156)と平治の乱(1159)で源氏に勝利した武家の一族である『平氏(平清盛)』が政治の実権を握りますが、武家である平氏も公家の藤原氏を真似て自分の娘を天皇に嫁がせる『摂関政治』を行いました。その為、藤原氏のようになろうとした平氏は『質実剛健な武士の気風』を弱めていき急速に貴族化の度合いを強めていくのですが、平氏が源氏に敗れた背景には『生活様式の貴族化』と『(地方武士に恩恵を与えない)貴族化による地方武士の支持率低下』があったとも言えます。白村江の戦い(663)など朝鮮半島政策において強硬に『百済の復興(防衛)』を目指した第38代・天智天皇(626-672)が没すると、天皇家の内乱である壬申の乱(672)が勃発して、天武天皇(大海人皇子)が大友皇子に勝利し皇統に乱れが生じます。中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)は中大兄皇子を兄とする兄弟であり大友皇子は天智天皇の子ですが、天武天皇が大友皇子(第39代・弘文天皇)を打倒したことで皇位継承権が天智系から天武系へと移行しました。
第40代・天武天皇(在位673‐686)は『天皇』という呼称を初めて公式に使用した天皇と言われ、事実上の初代天皇は推古天皇か天武天皇ではないかと推測されています。飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇は、天皇・皇族が政権を掌握する中央集権的な律令国家体制(皇親政治体制)を整備し、『八色の姓(やくさのかばね)』という身分制度を制定して実力主義的な論功行賞を行いました。天武帝以降は、持統天皇・文武天皇・元明天皇・元正天皇・聖武天皇・孝謙天皇(称徳天皇)・淳仁天皇と『天武系(女帝を4人含む)』で皇位が継承されてきましたが、道鏡の愛人としての俗説でも知られる第48代・称徳天皇(孝謙天皇)の後に久々に『天智系』の光仁天皇に皇位が巡ってきました。
光仁天皇(白壁王)は、称徳天皇に反旗を翻した『恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(764)』の鎮圧に貢献したことで称徳天皇からの評価は高かったのですが、天武系から隔たった血統から考えると皇位に就くことは難しいと見られていました。しかし、称徳天皇の死後に『有力な天武系の皇太子がいなかったこと』と『白壁王の皇后が聖武天皇の娘である井上内親王』であったことから、62歳という高齢で光仁天皇が即位する運びになりました。左大臣・藤原永手、右大臣・吉備真備(きびのまきび)、参議・藤原宿奈麻呂(ふじわらのすくなまろ・藤原良継)らの支持を受けての即位でした。光仁天皇は天智天皇の孫に当たり、桓武天皇は曾孫に当たりますが、藤原百川・藤原良継らの謀略によって天武系の井上内親王と他戸親王が排除され、天智系の桓武天皇(山部親王)も皇位に就くことになります。
第50代・桓武天皇(山部親王)は、773年に立太子して781年に即位しますが、天武系の血統でないというハンディキャップは大きく、782年には天武系の塩焼王を父に持つ氷上川継(ひかみのかわつぐ)が反乱を起こしています(氷上川継の変)。782年には三方王(みかたおう)という天武系の皇子も反乱を起こしており(三方王の魘魅事件・えんみじけん)、天智系の天皇である桓武天皇の正統性を周囲に認めさせるにはある程度の時間がかかりました。
そして、旧世代の天武系とつながった政治機構(貴族勢力)や政治に容喙(ようかい=口出し)する寺社勢力を一掃するために桓武天皇とその側近が考えたアイデアが『長岡京への遷都(新都建設)』でした。100年近く続いてきた平城京での政治運営に終止符を打つために、桓武天皇は平城京の造宮や修繕を役務とした『造宮省(ぞうぐうしょう)』の廃止を宣言し、784年には藤原種継の補佐を受けて長岡京への遷都を決断します。藤原式家(藤原宇合が始祖)に属する藤原種継(ふじわらのたねつぐ,737-785)は、桓武天皇からの信任が非常に厚く長岡京遷都に重要な役割を果たした人物です。
他戸親王(天武系)を排して桓武天皇(天智系)の即位に貢献したとも言われる藤原百川(732-779)ですが、藤原百川に連なる親族はその後桓武天皇に厚遇されており、百川の子・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)と百川の甥・藤原種継は二人とも年少で参議(さんぎ)という高官に抜擢されています。長岡京建設の任務を負う造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)に任命された藤原種継は、藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)らと共に784年5月に山背(京都)の長岡の地を視察し、784年11月には桓武天皇が遷都を宣言することになります。
ほとんど新都建設の下準備をする時間がない中での慌しい遷都となりましたが、ここに、桓武天皇の新政権を構築せんとする意志の強さと旧都を廃棄しなければならない切実な状況が現れているようでもあります。なぜ、京都(山城・山背)の長岡京の地に都(宮)が置かれたのかの理由について桓武帝自身は『水陸の交通の便の良さ』を上げていますが、それ以外にも怨霊信仰をベースとする『都(首府)のケガレ』によって平城京を棄てざるを得なかったという説や東大寺の大仏建設による公害問題が深刻化したというような意見もあるようです。
約半年という極めて短い工期(建設期間)で長岡京は造都されたわけですが、長岡京を構成する建築資材は旧都の平城京や難波宮(なにわのみや,天智帝が建設)を解体して集められ、朝廷の中心にある大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)は難波宮の建築物をそのまま再現したとも言われます。長岡京の建設に伴って難波宮の解体作業が進められたといいますが、その任務には摂津職の和気清麻呂(わけのきよまろ)が当たりました。
和気清麻呂(733-799)は怪僧・弓削道鏡を天皇にしようとした孝謙天皇(称徳天皇)に逆らって、宇佐八幡宮神託事件を起こしました。その結果、孝謙天皇から別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅国(鹿児島県)へと流された人物ですが、桓武天皇の時代には名誉回復が為されて高位の官職に就いていました。
長岡京遷都を先頭に立って指揮した藤原種継は桓武帝の強い信任を受けながら造都計画を進めましたが、遷都反対派の大伴継人・大伴竹良や佐伯氏、丹治比氏の陰謀によって暗殺されました(785)。藤原種継暗殺の前に死去していた大伴氏の頭領である大伴家持も官位を剥奪され、暗殺を阻止できなかった皇太弟(天皇の弟である皇太子)の早良親王も乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されて廃嫡されました。早良親王は最終的には淡路島に流刑されており、長岡京を棄都して平安京という新たな都(宮)を建設した理由として、早良親王の怨霊やケガレを恐れたという仮説もあります。早良親王は無実の罪で淡路島に流された可能性が高く、藤原種継暗殺事件そのものが、早良親王ではなく我が子である安殿親王(あでしんのう,第51代・平城天皇)に皇位を譲りたかった桓武天皇が仕組んだ陰謀であるという説もあります。
早良親王は桓武帝と同じく光仁帝と高野新笠との間に出来た子ですが、11歳時に東大寺で出家しており、初代の東大寺別当・良弁(ろうべん)の後継者に指名されるほどの高潔で禁欲的な人物であったと言われます。早良親王を淡路島に配流した後に、東北(蝦夷)遠征の失敗や母・高野新笠や皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の死など不幸を経験した桓武天皇は、早良親王の怨霊を恐れて800年に『崇道天皇(すどうてんのう)』という諡号を早良親王に送っています。
東大寺建立や大仏建設などに関わり造長岡宮使としても活躍した佐伯今毛人(さえきのいまえみし)も中央の官職を解任されて太宰帥(だざいのそち)として九州に左遷されています。長岡京建設に当たって藤原種継の母方(秦朝元,はたのちょうげん)の親族である秦氏が大きな経済支援をしていたといいますが、藤原種継暗殺によって秦氏の支援の割合は小さくなりました。長岡京の造都事業に優れた手腕を発揮していた藤原種継と佐伯今毛人という二人の人物を失うことで長岡京の建都は頓挫して失敗しますが、その背景には自分の子である安殿親王を天皇にしようとした桓武天皇の個人的願望が潜んでいたのかもしれません。
桓武天皇は和気清麻呂の勧めもあり792年頃に長岡京を棄てて新都建設を決断し、平安京の地の地相調査を実施させていますが、平安京遷都の原因には上述した早良天皇の怨霊説や天災(水害)による長岡京の疲弊説などがあります。平安京の造都は、和気清麻呂と菅野真道(すがののまみち)らによって推進されましたが、現在の京都の地を『山背(やましろ)=大和・奈良から見た山の向こう』ではなく『山城』と呼び始めたのは平安京遷都後に出した桓武天皇の詔(みことのり)に起源があります。大規模な平安京の羅城門・大極殿・朝堂院などの造宮には無数の技術者と労働者が参加していたと考えられますが、この時代に建築の技術者を多く輩出していたのは飛騨国(岐阜県)であり、飛騨の工匠たちは『飛騨匠(ひだのたくみ)』と呼ばれていました。
平安京の造営や官衙(かんが)の修繕は基本的に律令制(公地公民制)に基づく『公民(百姓)の徴発・労役(強制労働)』によって行われましたが、造都の労働力として徴発された人民を『造宮役夫(ぞうぐうやくぶ)』といいます。飛騨匠のような木工技術者は造宮役夫の中で『諸国匠丁(しょこくしょうてい)・年貢匠丁(ねんこうしょうてい)』と呼ばれ、一般労働者は労働対価として一定の食糧が配給されたので『雇民(雇夫)』と呼ばれました。
桓武天皇の業績の中で最も重要なのは、『平安京の新都建設』と坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍に任命して行った『東北地方(陸奥地方)の征討』ですが、これら二つの国家の大事業は大人数の公民(百姓)たちの徴兵や労役を必要としたので非常に大きな負担となりました。しかし、805年に桓武天皇の御前で徳政(仁徳のある良い政治)について藤原緒嗣(参議・右衛士督)と菅野真道(参議・左大弁)が議論する『徳政相論』があり、『人民・百姓の大きな負担・不満になる軍事(蝦夷征服)と造都(平安京建築)を停止すべきである』とした藤原緒嗣の意見が桓武天皇に採用されました。
この徳政相論によって、平安京建設の任務に当たる『造宮職(ぞうぐうしき)』と徴兵(兵役)による国家の正規軍が大部分廃止されましたが、桓武天皇は兵役の軍隊に代わって平安京や重要拠点を守るための精鋭部隊である『健児(こんでい)』を置きました(奈良時代からある健児の制の拡大)。また桓武天皇は、地方政治の公正と中央集権的な指導体制を守るために国司(地方長官)の行政を監査・監督する『勘解由使(かげゆし)』という令外官(りょうげのかん=律令に規定のない官職)を置きました。文化的で貴族的というよりも東北征討(蝦夷攻略)に見る武断的なところの多かった桓武天皇は、平安京の建都を始めとして『平安時代の礎石』を固めた天皇と言えるでしょう。
桓武天皇と皇后・藤原乙牟漏の間には、安殿親王(平城天皇)とその弟・神野親王(嵯峨天皇)がいましたが、桓武帝の死後に情緒的に不安定で病弱だった安殿親王(あどしんのう)が第51代・平城天皇(へいぜいてんのう,在位806-809)として即位します。依存的で未熟なところのあった平城天皇は、藤原種継の娘で母親といってもおかしくないくらいに年齢の離れた藤原薬子(ふじわらのくすこ)を寵愛して、後に第52代・嵯峨天皇(在位809-823)と対立して『薬子の変・平城太上天皇の変(810)』へとつながっていきます。
桓武天皇が存命中から安殿親王は、既に藤原縄主(ふじわらのただぬし)と結婚していた藤原薬子を愛していたが、桓武は不倫を許さずに激昂して薬子を後宮から追放しました。しかし、桓武天皇の死後(806)に再び平城天皇の寵愛を受けるようになった藤原薬子は、朝廷の尚侍(ないしのかみ)に任命されて兄の藤原仲成(ふじわらのなかなり)と共に専横を極めます。平城天皇は体調悪化を理由にして809年に神野親王(嵯峨天皇)に譲位しますが、平安京から旧都の平城京に拠点を移して影響力を維持しようとしました。
嵯峨天皇と平城上皇の対立によって、平安京と平城京の二つの都から政令が出される『二所朝廷』という異常事態が生まれましたが、平城上皇の背後には絶えず藤原薬子と藤原仲成の兄妹の姿がありました。二所朝廷という異常事態を収拾するために、嵯峨天皇は尚侍・藤原薬子の権限を奪うために『蔵人頭(くろうどのとう)』という官職を設け、平城上皇はそれに対して藤原仲成を参議に任命して対抗しました。遂には、平城上皇が首府(都)を平安京から平城京に戻すという『平城還都令』を出して、平安京の貴族官僚たちに再び平城京に戻ってくるように呼びかけました。
しかし、それに激昂した嵯峨天皇は、速やかに坂上田村麻呂や藤原冬嗣が率いる軍を差し向けて藤原仲成と藤原薬子を捕縛しました。藤原仲成は捕縛された次の日に処刑されますが、平安時代には仲成の死刑以後は死刑が廃止されることになり、保元の乱(1156)が起こるまで死刑が執行されることはありませんでした。平城上皇が深く寵愛した藤原薬子は服毒自殺を遂げることとなり、平城上皇は出家してその後も生まれ故郷である平城京に静かに住み続けました。『平城(へいぜい)』という漢風諡号(かんぷうしごう)は、旧都・平城京への還都を目指すほどに平城京を強く愛した安殿親王の意志を反映して送られた号なのです。
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