白河上皇による院政と律令体制における国司・受領
保元の乱の原因となった皇族と摂関家の内部対立
第72代・白河天皇(在位1073‐1087)に譲位した数ヵ月後に後三条上皇は死去しますが、太上天皇(だじょうてんのう=上皇)となった後三条天皇は『院政を行う意志』があったか否かは分からないものの『院庁(いんのちょう)』という役所を開設しました。白河天皇も、藤原摂関政治の復権を阻止しようという強い意志を持っていましたが、後三条上皇が崩御した二年後に摂関家の藤原頼通・藤原教通・彰子(上東門院)が死去しました。
藤原摂関政治の全盛期を支えた高齢の実力者がこの世を去ったことで、白河天皇の朝廷における影響力はますます強まり、教通の後を継いだ関白・藤原師実(ふじわらのもろざね,1042-1101)の存在感は以前の摂関とは比べ物にならないほど弱くなりました。白河天皇は東宮の実仁親王(さねひとしんのう)が疱瘡で死去すると、1086年に、最も寵愛していた中宮賢子(藤原師実の養女だが若くして死去)の残した8歳の善仁親王(たるひとしんのう,堀河天皇)に皇位を譲り、院庁で政務を見る上皇として実権を掌握することに成功しました。
摂関政治では、藤原摂関家の摂政・関白が幼少の天皇を補佐して政治を行いましたが、白河上皇が幼少の第73代・堀河天皇(在位1086‐1107)を後見することによって開始した院政では、天皇の父・祖父である上皇(天皇経験者)が朝廷の実権を掌握することになります。天皇の父・祖父である上皇(じょうこう)が天皇の政務を後見して、院庁(いんのちょう)で国政の実権を握る政治形態を『院政(いんせい)』と呼び、院政は白河上皇によって1086年に開始されたと言われます。
院政を実現した上皇(国政の主権者)は『治天の君(ちてんのきみ)』と呼ばれ、全盛期の藤原摂関家以上の権力を有することになりました。藤原氏の摂政・関白は飽くまで『天皇の承認』を得て政務を代行する有力者の地位に留まっていましたが、天皇の実の父や祖父である上皇は天皇の承認を得ずに独断で専制的な政治決定を下すことができ、その意味で摂関政治よりも院政の上皇のほうが強い権力を持っていたと言えます。
院政期になると院近臣(いんのきんしん)と呼ばれた中・下級貴族が力をつけてきますが、院近臣の多くは、国司(「守(かみ)・権守(ごんのかみ)」となる上級貴族や親王)の代わりに実際に任国に赴いて行政を行う『受領(ずりょう)』層でした。律令制における国衙(こくが=地方行政府)の地方官の官位には『国司・郡司(地方豪族)・里長(地方の長老格)』があり、中央政府(朝廷)からは国司が派遣されていました。
律令制度下の国司(こくし)には『守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)』の四等官があり、律令制の人民統治を実施するために『地方の行政権・徴税権・司法権・軍事権』など全ての権限が付与されていました。しかし、10世紀以降の平安時代になると、地方における『公地公民と班田収授の法に基づく税制』は崩壊し荘園制が主流となったので、国司の役割は地方国の徴税をして中央政府(朝廷)に納税することになってきました。その結果、富農を中心に土地を割り当てて納税させる『名体制(みょうたいせい)』と呼ばれる収税システムが地方に確立し、中央の上級・中級貴族が実際に地方に赴いて政治を行う必要性が無くなってきました。
首都・平安京に居住することを望む貴族たちは、国司に任命されても自分自身が任地に赴くことがなくなり、国司の代理の役人である受領(ずりょう)を地方に派遣するようになりました。受領を派遣して自分が任地に赴かず租税収入だけを京都で受け取る貴族の国司のことを『遙任国司(ようにんこくし)・遙任』といいますが、平安時代になると、受領は一定の租税の国庫納付さえ行えば後は自由に私腹を肥やして地方国を支配できるようになったのです。地方の受領は朝廷の指示を受けることなく徴税による収入を私的に獲得(着服)・蓄積できるようになり、地方の人民を搾取しながら大きな権力を持てたので、中級以下の貴族たちはこぞって国司・受領に任命されたがりました。
11世紀以降になると、皇族・大貴族・大寺社に地方の国を割り当てて『国司の任命権・官物の収得権』を与える『知行国制(ちぎょうこく)』ができたので、大貴族や大寺社にますます権力と財力が集中することになりました。10世紀頃の院宮分国制(いんのみやぶんこくせい=皇族の知行国制)から派生した知行国制度というのは、国司を自由に任命してそこからの納税を獲得できるという制度なので、知行国を割り当てられた上級貴族や大寺社には何もしなくても自動的に莫大な富(税金)がもたらされることになりました。
鎌倉時代に知行国制度はより一層強化(関東御分国や東大寺知行国)されますが、室町幕府(武家政権)が地方に守護・地頭を派遣して、守護(守護大名)の支配領域と実際の権限が国司を凌ぐようになってくると、中央貴族の国司任命権によって利得を得る知行国の仕組みは消滅していきました。武家政権が朝廷の公家を圧倒することで朝廷の権威に基づく『国司の権限』が縮小し、反対に幕府の武威に基づく『守護・地頭の権限』が拡大していったと言えます。
堀河天皇が29歳という若さで崩御すると、その後にまだ5歳の東宮・宗仁親王(むねひとしんのう)が第74代・鳥羽天皇(在位1107-1123)として即位することになり、幼帝を後見する白河上皇の発言力は更に強化されました。堀河天皇の時の関白は藤原師通(ふじわらのもろみち,師実の子)であり、鳥羽天皇の御世に移ると師通の嫡男・藤原忠実(ふじわらのただざね)が関白となります。
しかし、この藤原忠実は娘の入内を巡って白河上皇と対立して関白・内覧を罷免されることになり、この罷免によって摂関の人事権でさえも治天の君である上皇が握っていることが明らかとなりました。上皇が政治を執り行う院政では、上皇(親王時代)の乳母を輩出した家柄に権勢が集まるようになり、乳母の女性を出す中・下級貴族に官位・官職の昇進のチャンス、公卿(上級貴族)になれる可能性が広がりました。後三条天皇・白河天皇の時代に活躍した藤原為房(ふじわらのためふさ)の妹は堀河天皇・鳥羽天皇の乳母を勤めており、『夜の関白』と言われるほどの大きな実力を蓄えた為房の子・藤原顕隆(ふじわらのあきたか)も妻が鳥羽天皇、娘が崇徳天皇の乳母をしていたのです。
『治天の君』として廟堂で絶大な権限を誇った白河上皇にも思い通りにならないことが3つあり、『賀茂川の水、双六の賽、山法師』は天下の三不如意(さんふにょい)と呼ばれました。賀茂川(かもがわ)の水というのは大雨によって賀茂川が洪水を起こす自然災害のことであり、双六の賽(すごろくのさい)というのは当時流行していた運任せの博打のことであり、山法師(やまほうし)というのは園城寺(三井寺)の寺法師と並んで恐れられた比叡山延暦寺の僧兵のことでした。第74代・鳥羽天皇は白河上皇のことを深く恨んでいたといいますが、その原因は、白河上皇の子を妊娠した藤原璋子(ふじわらのしょうし,待賢門院)を鳥羽天皇の妃に無理やりしたからであり、璋子(待賢門院・たいけんもんいん)が産んだ顕仁親王(あきひとしんのう)を5歳ですぐに立太子したからです。
鳥羽天皇にしてみれば祖父(白河上皇)の子を妊娠している女性(璋子)を強引に中宮にさせられ、祖父の子である顕仁親王(崇徳天皇)を次の天皇=東宮に指名されたのですから、鳥羽天皇が白河上皇に不快な憎悪の念を抱いても仕方ないということになります。また、待賢門院と呼ばれる中宮璋子(ちゅうぐうしょうし)は、朝廷で権謀術数を駆使して源頼朝と九条兼実の権力獲得を妨害した第77代・後白河天皇(在位1155-1158)の母でもあります。多くの子を為した白河上皇の伝説として、『平清盛が白河上皇の落胤(落とし胤)である』というものもありますが、この平清盛の落胤説の信憑性は通説ではかなり低いと見られています。
圧倒的な権力を有する白河上皇が存命中は鳥羽天皇も文句を言うことが出来ませんでしたが、3代43年にも及ぶ白河上皇の院政が終焉すると、鳥羽上皇の白河上皇に対する『暗い憎悪の情念』は第75代・崇徳天皇(顕仁親王,在位1123‐1142)に向けられることになりました。崇徳天皇を産んだ待賢門院(中宮璋子)は鳥羽上皇の寵愛を完全に失って、洛西にあった法金剛院で45歳の人生を終えることになりますが、鳥羽上皇は自分よりも14歳も若い得子(美福門院)を深く愛して、得子との間にできた子を崇徳天皇に代えて天皇にしようとします。
鳥羽上皇は白河上皇が厚遇した中宮璋子と崇徳天皇を遠ざけて、自分が寵愛する得子(美福門院)と体仁親王(なりひとしんのう,近衛天皇)を優遇し、遂にわずか2歳の体仁親王を第76代・近衛天皇(在位1142‐1155)として即位させました。しかし、近衛天皇は17歳ですぐに夭折してしまい、その後に鳥羽上皇の四男・雅仁親王(まさひとしんのう)が立てられ、第77代・後白河天皇(在位1155-1158)として即位します。後白河天皇は鳥羽上皇が嫌っていた中宮璋子の子なので、鳥羽上皇は余り後白河天皇を推薦してはいなかったようですが、後白河帝の東宮に立てられた守仁親王(もりひとしんのう,二条天皇=後白河帝の子)の後継ぎという形で天皇になりました。
しかし、白河上皇・鳥羽上皇の院政の過程で摂関家内部の藤原忠実(1078-1162,藤原師通の子)と藤原忠通(ふじわらのただみち,1097-1164)の父子の対立が深まっており、その原因は白河上皇の不興を買って忠実が内覧(天皇に奏上される文書を見る職務)を罷免されたことから始まりました。藤原忠実は白河上皇の許可を得ることなく、自分の娘・勲子(泰子,どちらも「やすこ」と読む)を鳥羽天皇に入内させようとしたことで下心があるとして白河上皇の怒りを受け失脚したわけですが、白河上皇が崩御すると娘の勲子(泰子)を鳥羽上皇の妃とすることに成功します。
藤原忠実は、失脚中に長男・忠通に続く次男・頼長が生まれ、この藤原頼長(ふじわらのよりなが,1120-1156)に摂政・関白の位を継がせたいと考えるようになります。父である藤原忠実は、まだ男子のいなかった藤原忠通(長男)に藤原頼長(次男)を養子にすることを承知させるのですが、その後、忠通に長男(近衛基実,このえもとざね)が生まれて忠通は頼長との養子関係を破棄します。忠実と忠通の親子関係は悪くなっていき、1149年には、次男の頼長を摂関にしたい忠実が忠通から「藤原氏の氏長者(うじのちょうじゃ)」の資格を取り上げてそれを頼長に与えました。摂関の位を争うライバルとなった藤原忠通と藤原頼長の兄弟は険悪な仲になっていきますが、温厚で人当たりの良い兄・忠通と学識豊かで才気に満ちているが冷酷なところのある弟・頼長は性格面で相容れない部分が多かったようです。
1150年には、藤原頼長は、源為義・源頼賢ら源氏(武家)の軍勢を率いて藤原忠通の邸宅を取り囲み、氏長者の証である朱器台盤(しゅきだいばん)を実力行使で奪い取りますが、この暴挙を頼長を偏愛する藤原忠実は容認しました。藤原忠実の娘で鳥羽上皇に入内(じゅだい)して高陽院(かやのいん)と呼ばれるようになった泰子(やすこ)も、外見的な才覚に優れた藤原頼長を優遇しており、温厚だが凡庸な忠通を嫌っていました。優れた教養を持ち才気煥発であった藤原頼長は、1151年に忠実の推薦もあって内覧となり鳥羽上皇にも厚遇されますが、生来の短気さから鳥羽上皇の寵臣である藤原家成の邸宅を武力で襲ったために、鳥羽上皇から遠ざけられました。
また、鳥羽天皇が最も深く愛した美福門院・藤原得子(ふじわらのなりこ・とくし,1117‐1160)は、計算高い藤原忠実・頼長よりも温厚で常識的な藤原忠通を好んでおり、第76代・近衛天皇が若くして崩御すると、美福門院・得子と関白・藤原忠通が推薦する雅仁親王が第77代・後白河天皇(在位1155-1158)となり、忠実・頼長親子は不利な立場へと追い込まれました。近衛天皇を呪詛したという嫌疑をかけられた藤原頼長は鳥羽上皇の信任を完全に失って宇治へと隠遁することになりますが、この時に、鳥羽上皇から退位を強制され怨みを持っていた崇徳上皇に接近していきます。
皇族である『崇徳上皇と後白河天皇の対立』は、自分の愛人である璋子を鳥羽天皇に嫁がせた白河上皇の暴挙から始まっていますが、この皇族の対立が藤原摂関家の『藤原忠通と藤原頼長の対立』と結びつくことによって1156年の保元の乱(ほうげんのらん)の火蓋が切って落とされることになります。
『白河上皇への怨み』によって崇徳上皇に酷薄な対応を取り続けた鳥羽上皇は、『私が死ねば乱世になるだろう』と不吉な予言をしたとも言われますが、正にこの予言が保元の乱・平治の乱という騒乱になって実現することになったのでした。保元の乱と平治の乱は武力を持たない公家の律令政治の限界を明確に印象付ける出来事となり、中世の平安時代に『公家(貴族)の番犬』として蔑視されてきた源氏・平氏の武家が政治の表舞台に躍り出ることになります。院庁を護衛する『北面の武士』以来、中央貴族にさぶらう者(仕える者)として流血(軍事)の汚れ仕事を引き受けてきた武者たちが、遂に平氏・源氏という賜姓貴族の武家の棟梁を頂いて実力主義で政権を掌握しようとする時代が近づいてきたのでした。
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