平清盛と平氏政権の全盛期
以仁王の令旨による源平合戦と平氏政権の急速な滅亡
平忠盛の嫡子として生まれた平清盛は西国(福原・兵庫県神戸市)を拠点とする伊勢平氏の棟梁であり、忠盛・清盛親子は清盛が安芸守に任じられた時に、西国における勢力圏を拡大して『瀬戸内海の制海権』を手中にしました。西国に版図を拡大した頃から清盛は宮島の厳島神社(いつくしまじんじゃ)を信仰するようになり、現在の社殿の原型が清盛によって造営されて『平氏の守り神』として崇敬を集めました。
更に平氏一門は、瀬戸内海と九州沿岸の海上交通を利用して『日宋貿易(にっそうぼうえき)』を盛んに行い、莫大な富と財物を蓄積しました。平清盛は保元の乱(1156)では後白河天皇派について勝利を収め、藤原通憲(信西)と藤原信頼・二条天皇派が対立した平治の乱(1159)では慎重に情勢を見極めて、クーデターを起こして信西を襲った藤原信頼・源義朝を討伐しました。
保元の乱と平治の乱に勝利した平清盛率いる平氏が朝廷の政治の実権を握ることになり、源義朝を棟梁とした源氏は平治の乱に敗れて東国へと落ち延びていきました。この時に、清盛は後顧の憂いを断つために源頼朝を処刑しようとしたのですが、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)がまだ幼い頼朝の助命を願い出て、頼朝は処刑されずに伊豆に流されることになりました。
源氏を打倒した平氏は朝廷で唯一の武装集団となり軍事力・警察力を独占して政治の実権を掌握しましたが、平清盛は仲の悪かった二条天皇と後白河上皇の双方に上手く取り入ることで平氏政権を固めていきました。清盛は二条天皇が健在である内は二条親政派に味方していましたが、後白河法皇への根回しも忘れておらず、1164年には蓮華王院(れんげおういん,三十三間堂)とそれに付随する荘園を後白河上皇に寄進しています。後白河上皇は1169年に出家することになり後白河法皇となりました。
二条天皇が死去して第79代・六条天皇(在位1165-1168)が即位するのですが、清盛は後白河法皇と画策して第80代・高倉天皇(在位1168-1180,平滋子の子)を立て、自分の娘・建礼門院徳子を中宮として入内させました。清盛は、関白・藤原基実(ふじわらのもとざね,1143-1166=近衛基実)にも娘の盛子(もりこ)を嫁がせますが、清盛は後白河法皇の院政よりも藤原氏の摂関政治のほうが自分にとって有利な政局を作れると考えていたようです。藤原忠通の子である藤原基実は近衛基実となり、五摂家の一つである近衛家の始祖となりましたが24歳の若さで病死しました。
基実が死去すると弟の藤原基房が摂政になりましたが、基房は後白河法皇の信任が厚かったので清盛は摂関家と院政が接近することを警戒しました。憲仁親王(高倉天皇)が立太子した頃から、春宮大夫、内大臣と官位を進めていき、1167年2月に太政大臣(だじょうだいじん)となって位人臣を極めました。律令政治の太政官制において太政大臣は最高位の官職ですが、清盛の時代には既に有名無実化した名誉職だったので、清盛は太政大臣を3ヶ月で辞して子の平重盛を後継者に指名しました。高倉天皇の御世において、平清盛を棟梁とする『平氏にあらずんば人にあらず(平時忠)』の平氏全盛(平氏独裁)の時代が確立したわけですが、平氏の栄耀栄華は長くは続きませんでした。平氏政権の全盛時代には、一族で朝廷の顕位顕官を独占して全国に500余りの広大な荘園を持つことになり、更に利益率の高い日宋貿易によって莫大な財産を築き上げました。
関白・藤原基実と結婚した盛子(清盛の娘)は、基実の死後に所領・荘園を数多く相続していましたが、盛子が死去(1179)するとその所領を後白河法皇に没収されてしまいます。平氏の不運はそれに留まらず、清盛の後を継いだ勇猛で冷静な武将である平重盛(1138-1179,小松内大臣)が、清盛よりも早く病気で死んでしまったことでした。平氏の斜陽のきっかけは後白河法皇から寵愛された平滋子(建春門院)の死去(1176)によって始まり、1177年にはそれまで考えられなかった平氏追討を目的とする『鹿ケ谷事件(鹿ケ谷の陰謀)』が起こります。
建春門院(母親)の後ろ盾を失った高倉天皇と院政を強化したい後白河法皇との間の緊張が高まり、高倉天皇は自らの政治的影響力を高めるために、1177年正月の除目(じもく=任官・叙任)で平重盛を左大将、平宗盛を右大将に任命しました。平氏を朝廷から追放しようという鹿ケ谷事件(鹿ケ谷の陰謀)が起こるきっかけになったのは、院政派と山門派(比叡山延暦寺)の大衆の対立であり、平清盛・重盛が山門(延暦寺)に全面攻撃を仕掛けようとした矢先に、藤原成親(なりちか)・西光(さいこう)・俊寛(しゅんかん)・平康頼(やすより)・多田行綱(ただゆきつな)らの平氏打倒の陰謀が発覚したのです。
元々は、加賀国の目代・藤原師経(もろつね)が白山の末寺・宇河寺を焼き討ちしたことに激怒した大衆が山門(比叡山延暦寺)に訴えでて、山門の武装した大衆が後白河院に強訴を仕掛けるという事件だったのですが、それが平氏打倒の陰謀という大事件へと発展していったのです。山門派の強訴に対し、後白河法皇は藤原師経を備後国に流す流罪に処しますが、それでも大衆の怒りは収まらず朝廷の内裏へと押しかけてきました。それを鎮圧するために後白河法皇は平重盛を派遣しますが、結局、大衆側の要望を全面的に聞き入れて加賀守であった藤原師高を尾張に流罪にします。
その後、この問題を再び蒸し返した後白河法皇が、比叡山延暦寺の天台座主・明雲(みょううん)を解任して所領を没収し伊豆に流そうとしますが、山門派の大衆が明運を取り戻して全面対決の雰囲気となります。一触即発の状況の時に、多田行綱の密告によって藤原成親・俊寛・西光らの鹿ケ谷の陰謀(俊寛の所有する鹿ケ谷荘で陰謀が話し合われたとされる)が露見しました。清盛は鹿ケ谷の陰謀に加担していたものを、斬首したり流罪にしたりして一網打尽にしましたが、平氏政権を切り崩そうとしている後白河院に対する不信の念を強めました。後白河法皇は1179年に平重盛が死去すると、重盛の知行国であった越前の国を没収しましたが、その事で不安を募らせた清盛は院政を停止して後白河法皇を鳥羽殿に幽閉しました。
そして、平氏政権の正統性を更に強めるために、清盛の娘・建礼門院徳子が高倉天皇との間に産んだ言仁親王(ときひとしんのう)をわずか3歳で第81代・安徳天皇(在位1180-1185)として即位させたのです。しかし、既に政界を引退していた平清盛は朝廷の政治を実際に指示する考えはなく、平氏の拠点の福原へと帰ってしまいました。
重盛の後を継いだ平宗盛(1147-1185,屋島大臣)も政治家・指揮官としての資質に優れていなかったので、高倉上皇が院政を行うことになりました。安徳天皇が即位して3ヶ月目には、後白河法皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう,1151-1180)が源頼政(よりまさ,1104-1180)を誘って平氏政権に反旗を翻し、1180年、全国に雌伏する源氏の武士たちに平家打倒のために武装蜂起せよという『令旨(皇族の命令)』を出しました。
以仁王自身の挙兵(以仁王の乱)は、準備不足のままに平氏からの攻撃を受けることになり失敗に終わりますが、以仁王と源頼政が討死した後も『以仁王の令旨』によって挙兵する反平家の軍勢が次々に起こりました。以仁王の令旨によって、北条時政と結んだ伊豆の源頼朝と信濃(木曾)の源義仲(木曾義仲)が挙兵することになり、令旨を『平家追討の根拠』とする反平氏勢力の拡大によって平氏政権は滅亡に追いやられることになります。
以仁王の挙兵を先手を打って鎮圧した清盛(平家政権)ですが、以仁王の令旨によって次々と全国に飛び火する反平氏連合の脅威はますます強まり、伊豆から上京してくる源頼朝軍を迎え撃とうとした平維盛(たいらのこれもり)の軍勢は富士川の戦い(1180)で大敗しました。
平清盛は1180年6月に平氏の軍事経済的拠点である福原(兵庫県神戸市)に遷都しますが、戦況の悪化と公家・平氏一門・寺社の反対を受けて結局11月に京都へと還都しました。富士川の戦いでは、水鳥が羽ばたく音に恐怖した平維盛の軍が隊列を乱すという醜態を晒すことになり、平安京で貴族化して武士の剛毅果断を失いつつあった平氏の戦局を危ぶむ声も強まってきました。
特に、以仁王の乱で以仁王の側を支援しようとしていた寺社勢力(興福寺・園城寺・延暦寺)は、次第に反平氏的な動向を見せ始めており、それを警戒した清盛は平知盛に命じて園城寺を焼き討ちさせ、平重衡(しげひら)に奈良の南都の寺社(興福寺・東大寺)を襲撃させました。清盛はこの寺社攻撃によって京都周辺の治安を維持したものの、これによって寺社勢力からの支持を完全に失い、源氏の軍勢が強力になれば寺社勢力から背後を脅かされる恰好になってしまいました。
1181年、平清盛は反平家勢力を完全に討滅するために、平宗盛を棟梁とする平氏一門を挙げて関東に進軍し源頼朝を討とうとしますが、その直前に熱病に罹って敢え無く死去することになります。高倉上皇が21歳で死去して間もなく、平家一門の事実上のリーダーであった平清盛が高熱で病死することになり、カリスマティックな精神的支柱を失った平氏は政治面でも軍事面でも浮き足立つことになりました。平清盛の死後、二日後には平宗盛が後白河法皇に政権を返上していますが、宗盛は清盛の遺言である『源氏の徹底的な追討』だけは何としても実行しようとしました。
廟堂で栄耀栄華を欲しいままにした平氏政権は、制度的な根拠や磐石な体制によって支えられていたのではなく、保元の乱・平治の乱を勝ち抜いた平清盛という史上稀に見る政治的・軍事的な英傑に支えられていたのであり、平重盛に続いて平清盛を失った平家には平氏一門をとりまとめるだけの求心力を持った棟梁がいなくなっていたのです。平清盛の後を継いだ平宗盛は、政治的な資質に恵まれず軍事的な才能にも秀でていない凡庸な武将であり、源頼朝・木曾義仲・源範頼・源義経など強力で優秀な武将が揃った源氏の進軍の前では、平氏政権の命運は風前の灯火となりつつありました。無論、長きにわたって平氏は政治の中枢で権益を蓄えていたわけですから、『兵力・財力・領土・政治的権限の総合力』では、圧倒的に平氏のほうが源氏よりも有利でした。
しかし、それらの兵力と財力を適切に使いこなして、源氏の軍勢を討伐するだけのリーダーシップが平氏に不足しており、平維盛率いる大軍が木曾義仲との倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい,1183)で敗れると、平家は安徳天皇と三種の神器を伴って都落ちしました。その後、平宗盛を惣領とする平氏軍は福原に拠点を移しますが、源義経と源範頼が率いる源氏方の軍勢に一の谷の戦い、屋島の戦いで連戦連敗を重ねます。遂に、1185年3月24日、長門国(山口県下関市)で壇ノ浦の戦いに敗れて平氏は滅亡することになりました。平家側の安徳天皇と二位尼(清盛の妻・平時子)、建礼門院徳子は自ら入水して死ぬことになり、皇位は安徳天皇の異母弟である第82代・後鳥羽天皇(在位1183-1198)へと移ります。
平氏は1185年に水死した第81代・安徳天皇こそ三種の神器を持つ正統な天皇だと考えていましたが、1183年に木曾義仲に敗れて平氏が都落ちすると朝廷では新しい天皇を擁立する動きが強まり、後白河法皇が推挙する尊成親王(たかひらしんのう)が第82代・後鳥羽天皇として即位しました。以仁王の令旨から始まり平家滅亡の壇ノ浦の戦いで終わる内乱のことを『治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)』と言いますが、この内乱によって平清盛の人格・能力・資質によって支えられていた平氏政権が倒されることになり、初代将軍・源頼朝を頭領とする本格的な武家政権である『鎌倉幕府』が成立することになるのです。
藤原摂関家の真似事をした平氏政権は、急速に武士の気風や生活様式が衰えて貴族化しましたが、その貴族化によって地方武士の支持を失い滅亡の時期を早めました。関東(坂東)の鎌倉に本拠を置いた鎌倉幕府は『弓馬の道』を重んじて『御家人の本領(土地の所有権)』を安堵し、『ご恩と奉公の原理』に支えられた強力な武士政権を作ることに成功しました。
強大な軍事力を背景にした幕府(武士政権)は、形式的には朝廷から征夷大将軍の官職を頂いてはいたものの、実質的には朝廷に代わって幕府が政権を掌握するようになり、武家は『公家の護衛(番犬)』という不名誉な地位から抜け出して朝廷とは異なる政治原理によって日本国を統治することになりました。保元・平治の乱によって幕が開いた『武者の世』ですが、鎌倉幕府の成立によって『公家の世』から『武者の世』への転換が歴史的にも政治的にも決定的なものとなったのでした。
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