神奈川県の名前と歴史

神奈川県の誕生:寒村だった横浜村が開港で日本第二位の大都市へと発展

神奈川県の誕生:寒村だった横浜村が開港で日本第二位の大都市へと発展

神奈川県は現在では県名の『神奈川』より、日本第二の都市で県庁所在地でもある『横浜市』のイメージ(存在感)のほうが強くなっていますが、歴史的には幕末まで『横浜』は極めて小さな漁村に過ぎず、東海道筋で江戸時代に栄えていた宿場町の『神奈川宿』のほうが横浜よりも大きな町でした。神奈川(かながわ)という名前そのものは、幕末に戸部町(現・横浜市西区紅葉ヶ丘)に置かれていた『神奈川奉行所』に由来するとされますが、元々、京急仲木戸駅の近くに神奈川という長さ約300メートルの小さな小川が流れていました。現在はこの川は埋め立てられていて存在しませんが、井伊直弼が大老を務めていた幕末の神奈川宿は、武家や商家が集う宿場町として活況を呈していました。

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古代の神奈川県の領域は『相模国八郡・武蔵国三郡』で構成されていましたが、神奈川県に該当する地域が本格的に栄えてくるのは、中世期に征夷大将軍に任命された源頼朝(みなもとのよりとも)によって『鎌倉』に日本初の幕府が開設(1185年に全国に鎌倉幕府の官吏である守護・地頭を設置)されてからです。室町時代に入ると室町幕府が、関東八ヶ国(関八州)を支配する役所として『鎌倉府』を置きますが、実質的な政務の権限は鎌倉府の長官である『鎌倉公方(かまくらくぼう)』ではなく、それを補佐するナンバー2の『関東管領(かんとうかんれい)』が握ることになりました。

江戸時代中期には、小田原藩とその支藩の荻野山中藩や武蔵金沢藩(六浦藩)などが現在の神奈川県域を支配しましたが、それ以外にも県外に本拠を置いている藩(烏山藩・佐倉藩・西大平藩など)が飛地としての所領を保有していました。江戸期には現在の神奈川県全域の全体を一円的に支配するような大藩は存在せず、小田原藩を中心として他の幾つかの藩があり、そこに幕府直轄領・旗本領などが混在していました。初代将軍の徳川家康から厚遇されたイギリス人の三浦按針(ウィリアム・アダムス)は、西欧の情勢や文物、知見をもたらした功績により三浦半島に領地を与えられたりもしています。

神奈川県の横浜市が『国際都市』になるきっかけは19世紀以降の外国船(イギリスやアメリカの蒸気機関の黒船)の相次ぐ来航であり、幕府は武力をちらつかせて『開国・開港』を迫ってくる外国勢力に対して、会津藩を動因して沿岸地域の警備体制を固めました。文政元年(1818年)5月にイギリス船が来航し、文政5年(1822年)にも再びイギリスの捕鯨船が洲崎沖(千葉県)にやってきて、天保8年(1837年)6月にアメリカ商船のモリソン号が浦賀沖に来航した事で幕府は騒然としました。そして、嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国の代将(実質的な提督)であるマシュー・ペリーが率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が江戸湾浦賀に来航して、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に『日米和親条約』が締結され鎖国体制が終焉しました。

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安政5年6月19日(1858年7月29日)には、アメリカ全権タウンゼント・ハリスとの間に『日米修好通商条約』が結ばれて、神奈川の開港を約束させられました。この日米修好通商条約は強制的に開港させられて、領事裁判権(治外法権)や関税自主権の放棄を認めさせられた『不平等条約』でしたが、幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んでこれらは『安政五ヶ国条約』と呼ばれました。

この条約で開港することになったのは、『神奈川・長崎・函館・新潟・兵庫』の5港でしたが、実際に開港したのは神奈川ではなく『横浜』であり、兵庫ではなく『神戸』でした。幕府は政治上の意図もあり、横浜は神奈川の一部であり神戸は兵庫の一部であると強弁して、アメリカ側のクレームをはねつけました。当時の『神奈川』は東海道の宿駅として栄えていて武士・町人の人通りが多かったため、幕府は外国人に危害を加える『攘夷騒動(外国人襲撃)』が起こることを危惧したとされています。実際に文久2年8月21日(1862年9月14日)には、東海道の街道筋で薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人3人を薩摩藩士が無礼討ちで殺傷する『生麦事件』が勃発しています。

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条約に記載されていた『神奈川』ではなく、街道筋から離れた対岸にあった約100戸の寒村の『横浜村』が開港されることになります。これが現在の横浜市の発展の始まりになるのですが、横浜の港湾設備が整備されて貿易取引が活発化するにつれて、神奈川宿のほうは次第に寂れて衰退し、貿易港として栄え異国情緒を漂わす横浜のほうが急速に大都市化していったのです。慶応4年(明治元年)3月19日(1868年4月11日)に『横浜裁判所』が設置され、4月20日(5月12日)にその横浜裁判所が『神奈川裁判所』に改称されて、その下に戸部裁判所(内務担当)と横浜裁判所(外務担当)が設置されました。1868年6月17日(8月5日)には全国に10個あった『府』の一つとして『神奈川府』となり、同年9月21日(11月5日)には現在の『神奈川県』へと改称されたのでした。

幕末までの『神奈川』の位置づけが如何に高かったかは、神奈川府が東京府・京都府・大阪府の次に位置づけられていたことからも分かりますが、初代の知県事には寺島宗則(てらしまむねのり)が任命されています。明治2年(1869年)の『版籍奉還』では、神奈川県域で小田原藩・荻野山中藩・六浦(むつら)藩が版籍奉還を申し出ており、同年6月(7月)に各藩主が知藩事に任命されました。明治4年(1871年)の段階では、六浦藩が『六浦県』となり、小田原藩が『小田原県』、荻野山中藩が『荻野山中県』となっていましたが、六浦県は『神奈川県』と合併したものの、小田原県と荻野山中県は『足柄県(あしがらけん)』として再編制されました。

しかし、神奈川県と足柄県の二県並立体制は、1876年(明治9年)4月18日に足柄県が廃止されて終わりを迎えることになり、足柄県の旧相模国地域は神奈川県に編入され、旧伊豆国地域は静岡県へと編入されて、現在の『神奈川県』『静岡県』の原型ができていったのです。

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