明治初期の太政官制と地方統治の計画性
身分制度の廃止による四民平等と国民の誕生
『明治維新と廃藩置県』の項目では、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允らが主導した1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県によって、中央集権的な近代国家日本が成立する過程を説明しました。1871年7月29日には、中央政治の政治機構改革が行われますが、明治初期の政治体制は『太政官制(だじょうかんせい)』と呼ばれる朝廷の伝統的な政治機構を模倣したものでした。太政官は『正院・左院・右院』の三院から成り立つ三院制が採用され、天皇は正院で親政を行うことになり万機(あらゆる重要事項)を総判するという建前が取られました。正院の天皇の下には、太政大臣・納言(8月改正で廃止され、左大臣・右大臣に)・参議(さんぎ)の三職が置かれて、『正院(しょういん)』は三権(立法・司法・行政)を総覧する国権の最高機関として定義されました。
『左院』は参議か一等議員が議長を務める立法行為の審議機関であり、現在の国会のような立法機能が想定されていたが、実際には正院の信認を得ないと法律として制定することは出来なかったようです。維新に功績のある士族の議員(まだ選挙などはありません)は、1871年8月から『大議官・中議官・少議官』の位階に分類されました。『右院』というのは行政府のことで、各省に『長官・次官』が置かれましたが、後に『卿(きょう)・大輔(たゆう)』という官職になります。卿というのは現在の国務大臣に相当し、大輔というのは副大臣に相当しますが、現在の議院内閣制よりも相当に強い独占的な権限を卿は持っていました。この明治初期の太政官制は西欧的な政体・制度を取り入れようとする開明派であった木戸孝允の主張に基づいたものでしたが、正院と行政府の右院各省との対立・軋轢が強まりやすいという限界も抱えていました。
廃藩置県を実施する前から各省の整理統合が進められましたが、地方政体を従属させる中央集権的な財政・政策に中心的な役割を果たしたのは1871年7月27日に民部省を吸収した『大蔵省』でした。7月9日には、それまで司法権力を担当していた刑部省(ぎょうぶしょう)と弾正台が廃止されて『司法省』が設立され、後に司法卿の地位に就く肥前藩出身の江藤新平(佐賀の乱で死去する)が近代的・民主的な司法制度の大胆な改革に尽力することになります。宗教・祭祀を担当する神祇官は神祇省に格下げされた後、1872年3月に教部省に変更され、同年8月には文部省の一部門に組み込まれました。1872年には、大蔵省・外務省・兵部省(陸軍と海軍)・工部省・文部省・司法省・宮内省の『八省体制』となり、各省の卿・大輔には明治維新に功績のあった薩長土肥の志士が配置されることになります。
1871年7月、中央政府の人事において、公卿を除く実質的な最高位に当たる『参議(さんぎ)』には、木戸孝允(長州藩)・西郷隆盛(薩摩藩)・板垣退助(土佐藩)・大隈重信(肥前藩)の4名が任命されて、討幕に功績のある薩長土肥それぞれが一名ずつ代表者を立てたことになります。形式的な最高位に当たる太政大臣には公卿の三条実美(さんじょうさねとみ,1837-1891)が任命され、右大臣には怜悧な政略と先進的な知見に秀でていた岩倉具視(いわくらともみ,1825‐1883)が任命されます。
左院の議長には土佐藩の後藤象二郎(ごとうしょうじろう,1838-1897)、副議長には江藤新平が任命されました。大蔵卿に薩摩藩の大久保利通、大輔に長州藩の井上馨、兵部大輔に山県有朋が任命されて徴兵制の導入に踏み切り、司法大輔に土佐藩の佐々木高行、文部卿には肥前藩の大木喬任(おおきたかとう)が就きました。後藤象二郎は西郷隆盛らと共に『征韓論を巡る論争』に敗れて下野(1873年)しますが、後に、板垣退助・江藤新平・副島種臣らと愛国公党を結成しており『民選議院設立』を建白して日本の議会政治の進展に貢献します。
廃藩置県による中央集権体制を強化するためには、江戸時代以来の『旧藩勢力』を衰退させて、新政府が設置した地方行政機関である『府・県』の統治力を強化する必要がありました。旧藩の記憶や影響力を弱めるために、新政府はできるだけ新しい県名・府名には『旧藩の名前』を使わないようにして、郡名・山の名前・川の名前などを県名にしていきます。現在の『47都道府県』と同じ地方自治体の数になるのは1889年(明治22年)であるが、地元出身ではない府知事・県令が地方統治に当たったため、小さな村落共同体(江戸期には強い自治が認められていた村落)に属する人達の民心を国家に帰順させて、中央政府の権威を全的に承認させるためにはかなりの苦労がありました。1871年(明治4年)11月に地方統治のための『県治条例』が公布され、県庁には『庶務・聴訴・租税・出納』の四課が置かれて、中央政府と地方政府の権力・財源・管轄の分担が次第に明確化されていきました。
国家が国民の名前と数を把握するための『戸籍制度』も整備されていきますが、江戸時代には支配者階級である大名・武士・公卿(貴族)には戸籍が無かったので、これらの人々の戸籍も新たに作成されることになります。明治政府が作成する戸籍の目的は、王土王民思想に基づく『国民の管理統治・徴税』にあったので、日本国家の唯一の主権者とされる天皇家の人達だけは戸籍(管理される者としての名簿の記載)が作成されませんでした。江戸時代には、農民・町民などの一般庶民は、寺社が作成・管理する『宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)』によって名前と人数が管理されていました。
廃藩置県に先駆ける1871年4月、『華族・士族・卒・平民』の身分を問わず、生まれた地域で登録する属地主義で戸籍を作成する『戸籍法』が公布されました。戸籍法に基づいて全国民を登録・管理するために、数個の村落を合わせた『区』という行政区分が生まれ、区長・戸長を置いて『大区小区制』を敷設することになったのです。近代国家を確立するために『戸籍法・大区小区制』が活用され、封建的な村落共同体の自治権力や理事機構(庄屋・年寄・百姓代の村方三役)は否定されていきました。
廃藩置県によって中央政府は各藩の藩札と負債を引き受けましたが、藩札と政府発行の紙幣との交換比率は新政府に有利であり、『負債償還(負債の政府引き受け)』も部分的なものに過ぎなかったので、全体的な傾向としては旧来の封建主義体制における支配階層(大名・士族)の経済力は弱体化しました。1871年(明治4年)に欧米視察(先進的な欧米文化・法制・知識技術・政体の摂取)のために岩倉具視・木戸孝允・大久保利通が率いる『岩倉使節団』が出発すると、残された政府閣僚の中で井上馨(いのうえかおる,1836-1915)が財政・経済政策を担当することになり、井上は廃藩置県の負債処理のために緊縮財政を基本方針として採用します。しかし、膨大な藩札・藩債を処理するために、藩札の廃棄と藩債の切捨てを行ったため、『通貨の流動性』が低くなってデフレが発生してしまい、明治政府の米納・石代金納を中心とした財政収入は大幅に減少してしまいました。
岩倉使節団が海外に出発してから帰国するまでの期間を『留守政府』といいますが、井上馨が大蔵大輔を務める期間にデフレが起きて政府収入が減少したため、政府内部で『各省の予算』を巡る対立が激化してきます。特に、大きな予算を配分された山県有朋(長州藩出身)率いる陸軍省と少ない予算の配分に留まった司法省の江藤新平(肥前藩出身)との対立が強まります。最高機関である正院は、政府内部の勢力均衡と長州閥に対する不満の緩和のために、1873年4月、反長州派の後藤象二郎・江藤新平・大木喬任を参議に取り立てました。しかし、これによって今度は逆に、土肥藩閥の勢力が強くなって、薩長藩閥の力が弱められたため、井上馨と渋沢栄一はこれに反対して官職を辞任する事態へと発展します。
明治政府が推進した『国民統合』を目的とする近代化政策の一つとして、国民の地位・身分を平等化する『封建的身分制度の廃止』がありますが、身分制度の廃止は支配階級の特権身分である『武士(士族)』から各種の特権を奪っていくという形で実施されました。1869年6月の版籍奉還の実施によって、大名(藩主)は『華族』とされ、家臣の武士は『士族』とされましたが、1870年9月に施行された『藩制』では士族は更に『士族』と『卒(下級士族)』の二つの身分に分けられました。
法律的に江戸時代の『士農工商』の身分制度が撤廃されて『四民平等』が成立するのは1872年10月ですが、1871年8月に士族の服装・髪型や無帯刀の自由化が為されて華族・士族・平民の間の婚姻も自由になっていました。1871年12月には、華族と士族が平民のする仕事にも就くことができるようになり『職業選択の自由』が生まれますが、士族の特権性の剥奪に極めて大きな影響を与えたのが1873年1月の『徴兵令』と1876年3月の『帯刀禁止令』でした。
平民を兵士として徴集する1873年の『徴兵令』の実施によって、軍事・防衛の業務を独占してきた士族(武士)の特権性が否定されることになり、鹿児島の西郷隆盛は失業問題に悩む士族の不満を引き受けて士族の仕事・雇用を作り出す意味が込められた『征韓論(朝鮮半島への交渉・出兵)』を強く主張するようになります。また、士族はそれまで藩主の家臣として家禄(給料)を定期的に受け取ることができましたが、1873年11月の『家禄奉還制度』によって家禄が士族の身分と切り離され、1876年8月の『金禄公債発行条例』によって一時金と引き換えに『士族が藩から家禄をもらえる慣習的権利』は完全に否定されることになります。家禄・軍事という専従的な収入源を失った士族はますます経済的に困窮することになり、士族の失業問題と反政府感情の高まりが深刻化していきますが、その士族の近代化政策に対する不満・怒りが頂点に達したのが西郷隆盛を首班に担ぎ上げて旧薩摩藩士(私学校党)が引き起こした1877年の『西南戦争』の内乱でした。
四民平等が成立する前の1871年8月28日に、江戸時代に最下層の被差別身分とされていた『穢多(えた)・非人(ひにん)』の身分も『賤民廃止令』によって廃止されました。賤民廃止令によって形式的には穢多・非人の呼称は廃止され、『身分・職業・住居・婚姻』は平等化されたのですが、明治政府は積極的に差別問題を撤廃するための施策(居住地の移住・職業の斡旋・社会参加に要する経済的補償など)を行わなかったために、その後も『同和問題・部落問題』と呼ばれる社会的差別の問題が残ることになります。明治政府が賤民廃止令を出した背景には、身分廃止による『国民の統合』という目的とは別に、公権力が及ばない『穢多・非人の職業と居住地』を国家権力の統治下に置くという目的がありました。
江戸時代における賤民は激しい身分差別に遭っていましたが、その居住地は他の身分の人間が踏み込んではいけないある種の治外法権(これも差別感情の現れなのですが)とされていて、幕府・藩は『租税の徴収』を行わず賤民には実質的な『免税特権』と『先住権・職能集団性』が暗黙的に認められていたからです。賤民解放令は形式的・道義的には正しい政策でしたが、賤民は『租税・失業・社会的差別』に悩み続ける状況になり、それまで独占的に従事してきた牛馬処理業・皮革食肉業・下級刑吏(処刑や刑罰の執行役)・警察の下働きなどの仕事も失って経済的負担は増大しました。1872年10月2日には、人道問題に対する諸外国の圧力もあって、子ども・女性の遊郭への人身売買や公娼制度を廃止する『娼妓解放令(しょうぎかいほうれい)』が出されています。
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