宮城県の名前と歴史

宮城県の誕生:伊達政宗と仙台藩の統治に由来する『仙台』と『宮城県』への改称

宮城県の誕生:伊達政宗と仙台藩の統治に由来する『仙台』と『宮城県』への改称

現在の宮城県に該当する地域は、明治維新以前には伊達政宗(だてまさむね,1567-1636)で有名な伊達氏が支配する『仙台藩(伊達藩)』であり、62万石(実質石高は100万石以上)の仙台藩は全国的に見ても有数の大藩でした。福島盆地(伊達郡・信夫郡)と米沢盆地(置賜郡)を本拠地とした伊達氏は戦国時代に台頭しますが、“独眼竜・奥州の竜”と言われた伊達政宗の時代に、常陸国の戦国大名・佐竹義重や会津の蘆名氏を破って東北地方(奥羽)の南半分を支配する大大名に上り詰めます。

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伊達政宗は実力勝負では勝つことができないと見た天下人の豊臣秀吉に真っ白な死に装束を着て謁見し(全面降伏の意志を示し)、仙台の本領安堵を取り付ける奇策を講じますが、時代の趨勢を見極めて秀吉の死後の『関ヶ原の戦い(1600年)』では徳川家康の政権奪取を支援しました。その結果、江戸時代の仙台藩(伊達藩)62万石は全国きっての雄藩の一つとなりますが、政宗は関ヶ原の戦い以後も続いている豊臣氏と徳川氏との政治的な緊張関係を見て、もう一度『風雲(戦乱)の時代』が訪れるかもしれないという予測を持っており、天然の要塞である青葉山に『仙台城』を構えました。

1600年からの築城に当たって、『千代(せんだい)』という地名の漢字を『仙臺(仙台)』に改めたのでした。城下町の建設も開始した。伊達政宗は1613年には家臣の支倉常長(はせくらつねなが)を使節とする『慶長遣欧使節団』を、スペイン王国やローマ法王庁(バチカン)といったヨーロッパの遠方にまで派遣しており、当時としては異例に優れた国際感覚の持ち主でもありました。

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戊辰戦争(1868~1869年)では、薩長の新政府軍から会津藩を征伐しろとの『会津追討命令』を受けてその命令に背いたことで、『奥羽越列藩同盟』の盟主として戊辰戦争を戦うことになります。薩長の官軍に逆らって幕軍の会津藩に味方して戊辰戦争に敗れたことで、仙台藩(伊達藩)は『朝敵・賊軍・反乱軍』という汚名を受けることになり、仙台藩62万石の領地と城は当然没収されることになり、藩主の伊達慶邦(よしくに)と宗敦(むねあつ)の親子は東京の芝増上寺で監禁されることになりました。

仙台藩・伊達家はその影響力と所領の大きさから奥羽越列藩同盟の盟主に祭り上げられたという側面も確かにありましたが、藩主の伊達慶邦らは孝明天皇の弟(明治天皇の叔父)の輪王寺宮(後の北白川宮)を擁立して政権の正統性を打ち出し、輪王寺宮を『東武皇帝』として即位させ、仙台藩主・伊達慶邦を征夷大将軍に任命させるという壮大な『政権奪取の野望』も持っていたと伝えられています。戊辰戦争の論功行賞によって朝敵として敗戦した仙台藩(伊達藩)は、石高を62万石から28万石にまで大幅に減封されて、俸禄が減って困窮した家臣団の救済策として蝦夷地(北海道)への入植を積極的に行いました。仙台藩は明治新政府と共同で札幌市開拓に当たっただけでなく、単独で伊達市を開拓する活躍を見せて、現在でも『伊達市』という地名が福島県伊達市と北海道伊達市に残っています。

明治2年(1869年)に仙台藩は大幅に減封されて桃生県、江刺県、涌谷県、白石県、栗原県が分立したり、盛岡藩の南部氏が仙台藩の一部だった白石藩に移封されたりしましたが、明治4年(1871年)11月2日の第1次府県統合で仙台県と一関県(後に磐井県に改称)が置かれました。奥州南部を長期間にわたって支配した伊達氏が仙台に拠点を置いていたこと、仙台は紛れも無い東北最大の都市であったことから、本来であれば『仙台県』のままの県名になったほうが自然でしたが、1872年1月8日に仙台県は『宮城県』へと改称されました。仙台は戊辰戦争で新政府に逆らって戦った仙台藩(伊達藩)の拠点でもあったことから、仙台をそのまま県名にすることが敬遠されたこともありますが、明治維新の廃藩置県は基本的に『封建的な権力・因習・履歴を刷新すること』を目的にしていたので、封建主義的な藩政の拠点・地名をそのまま県名にすることが少なかったとも言えます。

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仙台県が宮城県になった理由は、盛岡県が岩手県になった理由と同じで、仙台が含まれている郡が『宮城』だったからです。しかし、『宮城』という言葉も『岩手』と同じように相当に古い歴史を持っており、古代の坂上田村麻呂の蝦夷征伐より前の『多賀城建設の時代(724年)』にまで遡る奥州の要衝の地でした。平安時代の『和名抄(わみょうしょう)』にも宮城の読み方について『美也木(みやき)』と書かれており、宮城という郡名の起源は塩竈神社や多賀城と深く関わっていると考えられています。宮城という漢字は『王宮の城塞』という意味にも読めるので、古代から中世初期に掛けて奥羽地方(東北地方)が独立的な勢力として栄えている時に、京都と並ぶ『遠の朝廷(とおのみかど)』として奥州が考えられたという仮説もあります。

その仮説では、宮城という言葉は『みちのく府の王城』という意味になりますが、実際に『遠の朝廷』として権勢と富裕を誇った11世紀~12世紀の奥州藤原氏であればともかく、奥州藤原氏よりも相当に古い時代に、奥州がそこまでの政治的にまとまりのある独立的勢力として自負していたかというと疑問ではあります。通説である塩竈神社と多賀城の由来に基づく仮説であれば、奥州最大の神社である塩竈神社の『宮』と古代の奥州の軍事拠点だった多賀城の『城』とがくっついて、『宮城』という郡名になったと考えることができます。

戊辰戦争敗戦の悲劇によって、伊達政宗と仙台藩を強くイメージさせる『仙台』が県名になることはありませんでしたが、“杜の都”である仙台市は近代~現代においても『東北地方最大の都市』であり続けており、明治政府の富国強兵政策でも『陸軍第二師団』『第二帝国大学(東北帝国大学)』が設立されて、東京都心部に次ぐ日本の重要拠点という政治的な位置づけが為されていました。1982年に東北新幹線の開業があり、1989年には仙台市が政令指定都市に選ばれていますが、東日本大震災の被害・ショックを受けてもなお、宮城県仙台市を中心とする東北経済圏・文化圏の重要性は極めて高いものになっています。

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