足利義満による守護大名の統制

室町幕府三代将軍・足利義満による守護大名の統制
義満の専制権力の拡張と明徳の乱・今川了俊の左遷・応永の乱

室町幕府三代将軍・足利義満による守護大名の統制

『鎌倉府と奥州管領:室町時代の守護・国人』の項目では、室町幕府の要職を担った『三管領・四職(さんかんれいししき)』について解説しましたが、管領になれる家格である“斯波(しば)氏・細川氏・畠山氏”の中では特に斯波氏と細川氏が激しい権力闘争を繰り広げました。2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら, 1330-1367)が1367年に病没すると、11歳の若さで足利義満(あしかがよしみつ, 1358-1408)が3代将軍の地位に就き、義満を補佐した管領・細川頼之(ほそかわよりゆき, 1329-1392)が大きな権力を幕府で振るうようになります。

足利義満の父は足利義詮、母は紀良子(きのよしこ)であり、紀良子と後円融天皇の母である崇賢門院(すげんもんいん)・藤原仲子(ふじわらなかこ)は姉妹になります。そのため、3代将軍・足利義満と北朝第5代天皇・後円融天皇(ごえんゆうてんのう, 在位1371-1382)は母方の従兄弟ということになり、子の足利義嗣を使った義満の天皇家簒奪計画(天皇・上皇の権威や権限の簒奪計画)にはそういった血縁の近さも関係していたのかもしれません。

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義満から上皇としての祭祀権・人事権(叙任権)を全て奪われた後円融天皇は、義満と通陽門院・三条厳子の不倫を疑って厳子を殴打する事件を起こしたり、義満からの報復を恐れて自殺未遂騒動を起こしたりしています。この時代は、朝廷の天皇家の権威が徹底的に失墜した時代であり、公家(上級貴族)の忠誠・服従をも手に入れた義満が天皇・上皇を凌駕する実質的な国王(君主)として君臨していました。

幼少期の義満は管領・細川頼之に補佐されて将軍となるための帝王学を授与されていましたが、細川頼之は先見の明がある政治家として優れた手腕を持っており、武家の土地所有権(徴税権)を拡大する半済令(はんぜいれい)を発布して南北朝合一に向けた流れを促進しました。『南北朝の争乱』は義満が将軍になる前の幼少期に最も激しさを増し、1361年には細川清氏(細川頼之の従兄)と楠木正儀(くすのきまさのり)の南朝軍に京都を占領され、義満は赤松則祐(あかまつのりすけ)の居城・播磨国白旗城へと逃れたこともありました。

しかし、足利義満が3代将軍に就任して管領・細川頼之が義満を的確に補佐するようになると、北朝が次第に優勢となり九州に派遣した今川貞世(今川了俊)・大内義弘の活躍によって、南朝勢力の強かった九州地方も北朝の支配圏へと組み込まれていきました。細川頼之は京都・鎌倉の五山制度(禅林寺の格式制度)を整備して室町幕府の宗教的権威を高めるという貢献もしましたが、頼之の政治的影響力の増大を喜ばない人物として細川氏と同格の斯波義将(しばよしまさ)がいました。

五山制度は最終的には、京都五山・鎌倉五山として禅寺の格式が整備されますが、義満が建立した足利将軍家の菩提寺・相国寺(しょうこくじ)も京都五山の一つに入れられ、五山の上位に立つ最高の禅林寺として臨済宗の南禅寺(なんぜんじ)が認定されました。

幕府の実権を握っていた細川頼之ですが、後見していた義満が成長してくるにつれて義満からも権力拡大を警戒されるようになり、頼之をライバル視していた斯波義将(1350-1410)の不満も高まってきます。1366年の貞治の政変(じょうちのせいへん)では、細川頼之と佐々木道誉が結んで斯波高経・斯波義将父子を管領職から追い落としており、斯波義将はその過去の屈辱からも頼之を恨んでいました。夢窓疎石(むそうそせき)から受戒した臨済宗の禅僧・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)も、南禅寺楼門事件で取った細川頼之の楼門撤去の処置に不満を持っており、春屋妙葩と斯波義将は反頼之派として結束を固めていました。

春屋妙葩は相国寺の開山となることを要請されてそれを断り、師の夢窓疎石を開山にすることを勧めた禅僧としても知られますが、頼之を政権から追放した康暦の政変にも何らかの形で関与していたと見られています。1379年に、斯波義将は佐々木高秀(道誉の子)や土岐頼康といった反頼之派の守護大名を率いて将軍邸・花の御所を兵力で包囲し、義満に頼之の管領罷免を求めました。義満は義将らの要請を受け容れて細川頼之の管領職を解任し、頼之の後には斯波義将が管領となりますが、この政治クーデターを康暦の政変(こうりゃくのせいへん, 1379年)といいます。

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室町幕府の京都御所(天皇の在所)を凌ぐ絢爛豪華な将軍の邸宅・政庁を『室町第(むろまちてい)・室町殿(室町御所)』といいますが、この室町第は3代将軍・足利義満によって造営が開始され1381年に完成しました。優美な景観と壮麗な建築を誇る室町第(室町御所)は、日本の政治権力の中心が朝廷ではなく幕府(足利将軍家)にあることをデモンストレートするために建設されたもので、各地の守護大名・有力貴族から献上された四季折々の美しい花木が植樹されていたことから『花の御所』とも呼ばれました。

晩年の足利義満は、天皇の伝統的権威を超越するために出家して宗教的権威を総攬しようとしますが、その時になると政務の中心を『室町第(花の御所)』から壮大な規模と宗教的な独創性を誇る『北山第(北山殿)』に移転しました。晩年の義満が政務を執った広大な北山第(きたやまてい)は、西園寺家の北山山荘を1397年に譲り受けて大規模な改築工事を施したものでしたが、義満の死後に義満と不和だった4代将軍・足利義持によって北山第は解体されます。現在は、鹿苑寺(ろくおんじ, 金閣寺)という国宝の文化遺産・世界遺産として有名な禅寺が残っているだけで、義満在世当時の『政治権力の中心地』としての面影は全く残っていません。

斯波義将が細川頼之を失脚させた康暦の政変は、頼之の影響力から離れて将軍の絶対権力を確立したい足利義満にとっても好都合な出来事でした。その後の義満は、奉公衆(ほうこうしゅう)という将軍直属の軍隊を整備して、自分(将軍)の対抗勢力になりそうな有力守護大名の力を削ぎ落とすための謀略・計略を企てていきます。政争に敗れた頼之率いる細川一族は本拠地である淡路・四国へと落ちていきますが、頼之派とされた畠山基国・今川了俊(貞世)・荒川詮頼らは領国を削減されました。

斯波義将は伊予守護に任じた河野通尭(こうのみちたか)に頼之追討を命じますが、百戦錬磨の軍将であった頼之は佐志久原(さしくはら)の戦いで河野軍を打ち破って、その後に頼之は義満から反乱を赦免されました。1391年には斯波義将が管領から解任され、頼之の弟・細川頼元(ほそかわよりもと, 1343-1397)が管領になりますが、頼之の死後には斯波義将も繰り返し管領になっていることから、義満は細川氏と斯波氏を争わせることで将軍の安定的な権力を維持する戦略を採用したと考えられます。

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義満の専制権力の拡張と明徳の乱・今川了俊の左遷・応永の乱

足利義満は室町幕府に抵抗する恐れのある有力な守護大名の勢力を削減することで『将軍権力の絶対化』を図りましたが、康暦の政変の後に幕府の最大勢力になってきたのは南朝から帰服した山名時氏(1303-1371)の子の山名氏清(1344-1392)や山名時義でした。山名氏は新田氏の一族の有力武士の家柄でしたが、観応の擾乱では山名時氏は足利直冬・南朝方について幕府軍と戦っていました。

しかし、所領安堵の条件と引き換えに幕府(足利義詮)の帰順工作に応じ、1363年、周防・長門の大内弘世(大内義弘の父)の後に山名時氏は室町幕府に帰属しました。山名時氏は山陰地方を中心に勢力を伸ばしており、美作・因幡・伯耆・丹波・丹後の分国を持っていましたが、時氏の子の山名氏清・山名時義(氏清の弟で家督を継いだ)の時代には但馬・伊勢・和泉・紀伊・出雲・隠岐・備後を更に支配圏に組み入れ、日本66ヶ国のうちの11ヶ国を支配する大勢力へと成長しました。

日本国66ヶ国のうち6分の1に当たる11ヵ国を守護として支配したことから、山名氏は世人から『六分一殿(ろくぶいちどの)』と呼ばれました。更に1385年に山城守護と侍所を手に入れたことから、3代将軍・義満は他の守護大名を圧倒してますます強大化する山名氏への警戒を強め、山名時義の死後の『山名氏の内部対立』を利用して勢力削減(明徳の乱の誘発)を試みます。

山名時氏には、師義(もろよし)・義理(よしただ)・氏清(うじきよ)・時義(ときよし)らの子がいましたが、この中で山名一族の惣領として家督を継いだのは山名時義(1346-1389)でした。時義の後を子の山名時煕(ときひろ, 1367-1435)が継ぎましたが、山名氏清や山名満幸(みつゆき, 生年不詳-1395)はこの家督継承に不満を持っており、山名満幸(師義の子)は自分の兄の山名氏之(うじゆき)と山名時煕(山名氏の惣領)が幕府に反乱を企てていると義満に讒訴しました。

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1390年、将軍・足利義満は山名氏清・満幸に対して山名時煕・氏之の討伐を命令し、細川頼之・頼有(よりもち)もこの時煕・氏之の追討に加わり、この戦いに勝利した細川氏は阿波・讃岐・土佐・備後・淡路・摂津の6ヶ国を領有することになりました。これ以前に内部対立をしていた土岐氏も義満により失脚させられていました(1390年の土岐康行の乱)が、勢力を削減された土岐氏と山名氏は斯波派の守護大名であり、この山名時煕追討の功績によって細川氏は斯波氏よりも優位な立場に再び立つことになります。

1391年3月、勢力を拡大する細川氏を重用する義満に憤慨した斯波義将は越前の分国に引き下がってしまい、細川頼元(頼之の弟)が管領職に就きました。山名氏の内部紛争に敗れた山名時煕・氏之は京都方面に落ち延びていましたが、足利義満は時煕・氏之が再起して氏清らに反撃するという噂を流して疑心暗鬼を誘いました。また、山名満幸は出雲国・仙洞領(上皇の所領)の横田荘を自己判断で占領したのですが、これが将軍・義満の激昂を受けるところとなり満幸は京都から追放されました。

京都を追われた山名満幸は義満が時煕・氏之を赦免したことを聞いて、室町幕府から自分が追討されるのではないかという不安を抱き、山名氏清らを幕府への反乱に誘います。室町幕府から逆賊として討伐される前に幕府を倒さなければならないという疑心暗鬼に駆られた山名満幸・氏清・義理・氏家らは、1391年に和泉国・堺で反幕府の軍勢を挙兵して京都に進撃します。

これを明徳の乱(1391年)といいますが、明徳の乱は細川頼之・畠山基国・大内義弘・赤松義則・京極高詮など守護大名の連合軍によって鎮圧され山名氏清は戦死します。山名満幸は山陰・九州の筑紫にまで逃げ延びましたが、1395年に捕縛されて京都で斬首されました。この明徳の乱によって『六分の一殿』と称された山名氏の大勢力は大幅に削減されることになり、山名氏は山陰地方の但馬・因幡・伯耆の三国だけを守護として治めることになりました。

山名氏の分国であった美作は赤松氏に、丹波は細川氏に、丹後は一色氏に、和泉・紀伊は大内氏に、隠岐・出雲は京極氏に奪われてしまったのです。義満は明徳の乱によって足利将軍家を脅かすほどの権勢を誇っていた山名氏を没落させることに成功しましたが、山名氏の没落後に広大な分国を領有して発言力を増してきたのが周防・長門を本拠とする大内氏(大内義弘)でした。大内義弘は優れた歌人であったとも言われ、『新後拾遺和歌集(しん・ごしゅういわかしゅう)』という歌集の編纂にも携わっています。大内氏は百済聖明王の皇子・琳聖太子を始祖とする一族とされ、周防国に土着して武士(幕府の御家人)としての地盤を固めていきました。

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足利義満が専制君主としての権力を拡大していた14世紀末の時代には、守護大名が『分国(支配領域)を多く持ちすぎること・幕府での影響力を強めすぎること』は、義満から分離独立(幕府への反逆)を疑われるという意味で危険なことでした。明徳の乱後に義満の勢力削減のターゲットにされたのは、九州地方で懐良親王(1329-1383, 南朝の皇子で明から日本国王に任命されていた)に代わって権力基盤を固めつつあった今川了俊(1326-1420, 今川貞世)でした。

今川了俊は、1370年頃に細川頼之の推挙で九州探題として派遣されていました。筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩・大隈・壱岐・対馬の8ヶ国を統治するようになった今川了俊は義満から強い疑いのまなざしを向けられるようになり、1395年に九州探題の地位を解任されて駿河・遠江の半国守護として左遷されました。義満は今川了俊に大内義弘(1356-1400)を向き合わせることで了俊の勢力拡大を牽制していましたが、了俊の後の九州探題に大内義弘を任命することはなく、渋川満頼(しぶかわみつより)が後任の九州探題になりました。義弘が九州探題に任じられなかったことは、大内氏が室町幕府の足利義満に反感を抱くきっかけの一つになりましたが、義満は九州・四国地方で分国を増大させ影響力を大きくしている大内氏を強く警戒し始めていました。

明徳の乱(1391)の後に、大内義弘は南朝との交渉を仲介する役割を担い、1392年の明徳の和約の成立に大きな貢献を果たしました。1392年に、日本の天皇が南北朝に分かれて争い朝廷が内部分裂の状態に置かれていた『南北朝時代』が終了することになり、持明院統と大覚寺統の両統迭立の原則が再確認されました。

南朝の後亀山天皇は吉野から京都に帰還して北朝の後小松天皇に『三種の神器』を譲って退位し、これによって『南北朝合一』の偉業が達成されましたが、将軍・義満は明徳の和約で約束された両統迭立の原則を守るつもりはなかったと言われます。義満の死後には、後小松天皇の後を持明院統の第101代・称光天皇が継いで、大覚寺統の皇子には皇位が回ってこなくなり、それに反発した南朝の遺臣たちは後南朝を形成して持明院統(北朝)への反抗を続けました。

周防・長門を本拠地とする守護大名・大内義弘は、山名氏の没落後に周防・長門・豊前・石見・和泉・紀伊の6ヶ国を領有することになり、九州の今川了俊が失脚すると大内氏に対抗できる守護大名は7ヶ国を統治する細川氏だけとなりました。義満は室町幕府の対抗勢力として成長してきた大内氏を自滅させるために挑発を加え、九州探題の役職を大内義弘に与えず青蓮院尊道や絶海中津(ぜっかいちゅうしん)などの僧侶を通じて上洛の命令を出しました。

しかし、1399年に、室町幕府の足利義満から征伐されるのではないかという疑心暗鬼を強くした大内義弘と弟の大内弘茂(ひろしげ, 生年不詳-1401)は、幕府の上洛命令を拒否して和泉国・堺に篭城し、鎌倉公方・足利満兼(あしかがみつかね, 1378-1409)と共謀して幕府に反旗を翻しました。

この大内氏の室町幕府に対する反乱を応永の乱(1399年)といいますが、応永の乱での敗北によって大内氏の勢力は大きく衰退することになりました。大内義弘は堺の拠点を焼討ちされて、畠山満家(はたけやまみついえ)に討ち取られることになり、足利満兼は関東管領の上杉憲定に制止されて出陣を取りやめました。1399年の応永の乱の戦後処理(13ヶ国の守護の入れ替え)が終わると、(信濃国で小笠原長秀に対する大規模な国人一揆が起こったりもしましたが)有力な一族の守護職は世襲化していきました。

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日本国王として天皇を越える権威を身に付けて、全国の守護を統率しようとした3代将軍・足利義満は、土岐康行の乱で土岐氏を抑え、明徳の乱で山名氏の勢力を削減し、今川了俊の九州制覇を左遷で妨害し、応永の乱で大内氏の勢力を抑圧することに成功しました。足利義満は『同族対立への干渉』や『幕府に対する反乱の煽動(政治的挑発)』といった戦略を巧みに利用して守護大名の統制を進めていき、守護の治める領地を細分化して相互に牽制させる『分郡守護制度(半国守護制度)』を導入して室町幕府・足利将軍家の権力を相対的に高めることに成功しました。

明徳の乱・応永の乱の舞台となった和泉国・堺(商業都市)は、義満の死後(1408)に細川氏の分国となりますが、4代将軍・足利義持(1386-1428)は細川基之(もとゆき,頼之の猶子)と細川頼長(よりなが)の二人を和泉国の守護に任命し、半国守護制度で和泉国・堺の地方権力を分散させました。足利義満は義持とは反りが合わずに対立することが多かったとされますが、義持の弟・足利義嗣(よしつぐ, 1394-1418)を後小松天皇の次の天皇として即位させたいという歴史的な野心を持っていたという説もあります。

しかし、義嗣の皇位簒奪を間近に控えていた時期に、日本国王として絶大な権力を掌握していた義満が突然の病死を遂げてしまい、日本史上で空前絶後の野望は実現することなく頓挫することになりました。

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