張作霖爆殺事件:関東軍の謀略の失敗
柳条湖事件:関東軍の満州進出
『韓国併合と満州問題』の項目では、1910年に大韓帝国を併合するまでの政治過程や韓国と隣接する中国東北部(満州)への領土的野心について説明しました。『中国大陸への進出』は大東亜共栄圏の構築を目指す大アジア主義による勢力拡大や対ソ連の国防力強化といった理念上の目的もありましたが、実利的な側面としては満州の天然資源(鉱物)や農作物、日本製品を売り込む新市場を獲得したいという目的がありました。欧米諸国の『帝国主義』と同じく日本の帝国主義的な軍事戦略でも、商品を売り込み投資をする『新市場の開拓』や天然資源の獲得、安価な労働力の確保などの国益増進が目指されたのです。
日本の関東軍が満州に軍事進出した背景には、孫文(そんぶん,1866-1925)の辛亥革命(1911年10月)以降の『中華民国の内政の混乱』と『国民党と中国共産党の激しい内戦・軍閥の割拠』がありました。日本が中国の領土や利権に食い込みやすい中国の政治的混乱や内戦による自滅的消耗があり、そういった単一の国家主権が確立しないアナーキーな当時の中国大陸において、日本は軍事的謀略も用いながら利権掌握の足がかりを築こうとします。
辛亥革命によって君主制(専制主義)の清朝は崩壊しますが、孫文が中華民国を建国した後には、北洋軍閥(李鴻章)の後継者である袁世凱(えんせいがい, 1859-1916)が西欧列強と協調した独裁政治を行います。袁世凱が『洪憲帝』として皇帝に即位した1916年に『中華帝国』が建設され君主制に戻りますが、国民の猛反発でその後すぐに退位し1916年6月に死去しました。
袁世凱の死後には中国対立を統一する実力者が不在となり、各地の軍閥が割拠して中央集権体制が瓦解しますが、そういった混乱状況の中で国民党の蒋介石(しょうかいせき)や中国共産党の毛沢東(もうたくとう)が国家統一を目指す中心的勢力として台頭してきます。1925年3月に孫文が死去すると国民党の蒋介石は『国民政府』を組織して、中国大陸統一を目指す『北伐(ほくばつ,1926~1928年)』を繰り返し行い、1928年の第三次北伐で張学良を降伏させて形式的な中国統一を達成しました。
そういった混迷する中国の時代状況の中で、日本が引き起こしたのが1928年(昭和3年)6月4日の『張作霖爆殺事件』であり、関東軍の指示に従わなくなってきた奉天軍閥の指導者・張作霖(ちょうさくりん,1875-1928)を暗殺することで、満州(中国東北部)の直接的な支配権を獲得しようとしました。張作霖が乗車していた列車が爆破されて死亡しましたが、張作霖爆殺事件は関東軍司令官村岡長太郎中将が発案して河本大作大佐が全権委任されて実行した事件とされています。
この事件の動機には、『欧米寄りになり始めた張作霖を関東軍の傀儡としてコントロールすることが困難になったこと(関東軍が満州国建国を計画したこと)』や『満州の軍事情勢を緊張させることで陸軍予算を増加させること』がありました。しかし、事件の真相を知った張学良(張作霖の子)が、1928年6月に国民政府に降伏して抗日の姿勢を見せたため、満州の支配権は一時的に国民政府の支持を受けた張学良が握る結果となりました。張作霖爆殺事件の謀略は、結果として成功しなかったため、その後の1931年に『満州事変(柳条湖事件)』が勃発することになります。
関東軍(中国東北部に駐留した大日本帝国陸軍)は、東三省に満州国の建国計画を持っていましたが、満州全域に支配するためには武力紛争を勃発させる必要があり、そのための自作自演として計画されたのが1931年(昭和6年)9月18日の『柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)』でした。国民政府の中国軍が日本に攻撃を仕掛けてきたという戦争の大義名分を作るために、奉天独立守備隊第二大隊の河本末守(かわもとすえもり)中尉が、柳条湖付近の南満州鉄道に爆薬を仕掛けて爆破しました。中国ではこの柳条湖事件を『9・18事変』と呼びますが、河本末守中尉が中国軍が鉄道を爆破したという偽の伝令を飛ばしたため、関東軍司令官・本庄繁(ほんじょうしげる)の命令で中国軍に対する攻撃が開始されました。
『満州事変(まんしゅうじへん)』というのは、1931年9月18日の『柳条湖事件(満鉄爆破事件)』によって始まり、1932年2月18日の満州全域の統治によって終わる日本と中華民国の軍事紛争です。両国との間に停戦協定である『塘沽協定(タンクーきょうてい)』が結ばれた1933年5月31日を満州事変の終わりとする見方もあります。中国軍が満鉄を爆破してきたという柳条湖事件の捏造によって始まった満州事変ですが、日本の近代化された兵器と組織の規律を持つ関東軍は中国軍に対して圧倒的に有利であり、翌9月19日には北大営(中国軍の拠点)・奉天・長春・営口の諸都市を占領し、21日には韓国との国境地帯にある吉林にまで版図を拡大しました。
朝鮮軍司令官の林銑十郎(はやしせんじゅうろう)は、軍全体の統帥権を持つ天皇の許可を得ずに、勝手に指揮下の軍隊を動かして国境を越境させて満州事変に援軍を送りました。『独断越境司令官』と言われた林銑十郎の明白な越権行為(統帥権の無視)は軍法会議などで処罰されることもなく、若槻礼次郎内閣により現状追認されてしまうのですが、この事は中央政府(内閣総理大臣)が軍部(外地の軍隊)を適切に統制することが出来ない問題を示唆していました。満州事変は『関東軍(外地の軍隊)の暴走』を『国内の政府・天皇』が十分に統制することが出来なかったために発生した日本と中華民国の紛争ですが、このシビリアン・コントロール(文民統制)の欠如や大衆社会の軍事的熱狂(ナショナリズムの興奮)によって日本は泥沼のアジア・太平洋戦争に引きずり込まれていきます。
政府(内閣)や議会の決定を経ることもなく、外地の軍隊が自己判断で謀略を仕掛けたり戦域を拡大したりすることは現在の民主主義国家では考え難いことですが、当時のシビリアン・コントロールが不十分だった日本では『軍部(現場)の独断・暴走』が事後的に政府によって追認される事例が相次ぎました。日本軍による満州攻撃を受けた張学良の軍隊は無抵抗のまま戦線を離脱し、中国共産党の内戦に注力していた蒋介石の軍隊(国民政府)も日本と戦う余力がなく、9月21日に満州事変を国際連盟に提訴するに留まりました。しかし、国際連盟の欧米列強は中国のナショナリズム(民族自決)と共産主義(中国赤化)のほうを、日本の帝国主義的な侵略よりも恐れていたので、日本の満州事変に厳しい勧告を加えず、5ヵ年計画を進行させるソ連も干渉してきませんでした。
欧米列強やソ連が柳条湖事件を強く非難してこないことを見た関東軍は、満州国建設の好機と捉えて一挙に戦線を拡大しますが、石原莞爾がアメリカのスティムソン国務長官との外交的合意(戦線不拡大)を無視して、1931年(昭和6年)10月8日の『錦州爆撃』を断行したため、日米関係が緊張しました。張学良が臨時の錦州政府を置いていた錦州を爆撃すると、次は黒龍江省の軍閥・馬占山軍を追放してチチハルを占拠、戦線不拡大を維持できなかった若槻礼次郎内閣は12月11日に総辞職して、幣原喜重郎外相の『英米協調路線』は挫折しました。1932年1月に錦州を占領して、2月にはハルビンを攻略して満州全域を支配圏域に収めましたが、関東軍は柳条湖事件から僅か5ヶ月で『満州全域』を軍事的な統治下に置くことに成功したのでした。
欧米列強は柳条湖事件の紛争がここまで拡大するとは予測しておらず、日本の満州における利権の増加に不快感と反対の意志を示すようになります。特に、アメリカの国務長官スティムソンは1932年(昭和7年)1月7日、日本の満州進軍による中華民国の領土・利権の簒奪やパリ不戦条約に違反する一切の行為を認めないという『スティムソン・ドクトリン』を発表して、中華民国やイギリスの同意を得て日本軍の満州占領を激しく牽制しました。関東軍は英米を中心とする『国際世論の批判』を回避するためには、満州全土を日本の領土にして直接統治するのではなく、思い通りになる『傀儡政権』を樹立して間接統治するほうが得策であると考え、清朝のラストエンペラーだった宣統帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を再び皇帝(満州国の君主)として擁立しようとします。日本政府は満州民族の国家だった清朝を再興するという条件を出して、宣統帝・溥儀に満州国の皇帝となることを了承させました。
満州全土を支配した関東軍が主導して1932年3月1日に『満洲国の建国』が宣言され、国家元首である『執政』には清朝の廃帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)が就任することになりました。首都は新京(現在の長春)とし元号を大同として、首相格の国務院総理には鄭孝胥(ていこうしょ)を任命しました。1932年3月12日、総辞職した若槻内閣の後を継いだ犬養毅内閣は『満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次、国家としての実質が備わるよう誘導する』という閣議決定をしましたが、1932年(昭和7年)5月15日に大日本帝国海軍の青年将校を中心とした『五・一五事件』で犬養毅は暗殺されました。
五・一五事件で襲撃を受けた際に『話せば分かる』と三上卓や黒岩勇に語り掛けたとされる犬養毅(1855-1932)ですが、海軍青年将校グループが初めに標的にしていたのは、1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理の若槻礼次郎だったとされています。当時の『軍縮支持・軍隊批判の世間の風潮』に対して、陸海軍の青年将校や軍拡路線の国粋主義者たちは強い不満を持っていたとされ、国家改造を目的とするクーデター計画が立てられる恐れが強まっていました。1932年(昭和7年)6月14日に、衆議院本会議において『満州国承認決議案』は全会一致で可決されることになり、犬養毅の後には斉藤実や岡田啓介という軍人内閣が続いて『政党政治・憲政の常道(議院内閣制)』の原則が揺らぐ不穏な政治情勢になってきました。
中華民国の蒋介石が日本の満州侵攻を国際連盟に提訴していたので、1932年(昭和7年)3月に、国際連盟から第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする『リットン調査団』が満州に派遣されてきました。この調査団は半年掛けて満洲を調査し、9月に『リットン報告書』を提出しました。その報告書の内容は『柳条湖事件における日本軍の侵略は自衛行為とは認められず、満州国の独立も現地の人々の自発的・主体的な意志によるものではなく認められない』とするものであったが、『満州の特殊事情に鑑みて日本の満州における権益は認め、日中韓で新条約を締結すべきである』という結論を出していた。
リットン報告書の勧告は必ずしも日本の満州における権益を否定するものではなかったが、『満州国の独立を国際的に承認しない(満州を国際管理下に置く)』という趣旨が含まれていたため、日本政府(外務省)はこの勧告が国連で可決されれば国連を脱退する意向を固めていました。1933年(昭和8年)2月24日、総会決議の結果、『賛成42・反対1(日本)・棄権1(シャム)』でリットン報告書に基づく勧告が可決されたため、日本首席全権の松岡洋右(まつおかようすけ,)は国連の席を立って退場しました。日本の世論は満州国の独立性を強く主張した松岡洋右のこの対応を支持しましたが、1933年3月27日に日本が国連を脱退したことで、『満州(満蒙)を生命線とする武断外交路線』が強まることになり、英米との協調外交が困難になっていきます。
満州事変が発生した背景には、1929年の世界大恐慌による失業者の増大や国民生活の窮乏によるナショナリズム・軍部の台頭があり、軍事思想の上では板垣征四郎(いたがきせいしろう,1885-1948)と共に満州事変を計画実行した石原莞爾(いしはらかんじ,1889-1949)の『満蒙領有計画・世界最終戦争論(日米決戦論)』なども深く関係しています。
石原莞爾と板垣征四郎は満州事変の首謀者とされる二人ですが、石原は満州国建国に当たって『王道楽土・五族協和』のスローガンを掲げて、満州の経済開発やインフラ整備を促進し満州を『東洋のアメリカ』と呼べるような多民族国家に成長させることを目指しました。しかし、石原莞爾の想定する歴史観は、西洋文明の代表であるアメリカと東洋文明の代表である日本との衝突は回避しがたいとする『世界最終戦争論』であり、15年にわたって続く『アジア・太平洋戦争(1931年~1945年)』に石原莞爾の軍事思想や歴史予測が及ぼした影響は大きなものがありました。
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