日本の華北分離工作と日独防共協定によるナチス・ドイツへの接近
盧溝橋事件の発生と日中戦争の勃発・南京事件
『2・26事件と昭和恐慌』の項目では、北一輝(きたいっき)・西田税(にしだみつぐ)を理論的指導者とした陸軍・皇道派が2・26事件(1936年)のクーデターを起こした国民生活窮乏の経緯を説明しましたが、このクーデターが鎮圧された後に日本の軍部(統制派)の影響力が更に強まります。反財閥支配・反政党政治の『尊皇斬奸(尊皇討奸)』を掲げる2・26事件が発生した責任を取る形で、岡田啓介内閣は1936年3月に総辞職し、3月9日には広田弘毅(ひろたこうき)内閣が組閣されます。しかし、2・26事件の危機感を利用した寺内寿一(てらうちひさいち)陸軍大臣が『粛軍の人事刷新』を行って、軍部から皇道派の勢力を排除し、『国防国家の充実(軍備拡張)』を始めます。
広田内閣(1936年3月9日~1937年2月2日)では寺内寿一陸相が主導して、軍備増強と国民総動員体制の構築が図られ、1936年5月18日には現役の軍人(武官)でなければ軍部大臣になれないという『軍部大臣現役武官制』が復活することになり、政治・議会の軍部に対するシビリアンコントロール(文民統制)が大幅に低下しました。『軍部大臣現役武官制』は、軍部が『陸相・海相』となる武官を選出しなければ内閣を組閣できなくなったことを意味し、軍部の議会に対する発言力が大きく強化されて民主主義的な政権運営は困難になりました。柳条湖事件によって勃発した1931年の満州事変は、1933年(昭和8年)の塘沽協定(タンクーきょうてい)でいったん停戦しますが、1935年から日本は本格的な華北侵略のための『華北分離工作』を画策し始めます。
『華北分離工作』とは華北五省(河北・山西・山東・チャハル・綏遠)を中国から分離させて日本の支配下に置こうとする工作であり、梅津美治郎(うめづよしじろう)少将率いる中国駐屯軍は1936年6月に、中国人の排日運動に対抗するための『梅津-何応欽(かおうきん)協定』や『土肥原賢二-秦徳純(しんとくじゅん)協定』を結んで、華北五省からの国民党軍の撤退や日本軍の飛行場建設を要求します。1936年11月に、冀東防共自治委員会(冀は河北省を意味する)を設置し、12月に冀察政務委員会(察はチャハル省)を設置して、華北への領土的野心を示します。そして、徳王率いる内蒙軍を関東軍が支援して、綏遠省(すいえん)へと侵攻する『綏遠事件』を起こすことになり、中国共産党・中国人の抗日意識に影響を与えました。
華北地方・中国大陸が日本軍に侵略されるという危機感を強めた毛沢東率いる中国共産党は、蒋介石率いる中国国民党に『内戦の一時停止・抗日統一戦線』を呼びかけ、1935年に抗日闘争の意志を確認する『8・1宣言(八・一宣言)』を出しています。1936年(昭和11年)12月12日には、張学良・楊虎城らが国共内戦を停戦させ抗日統一戦線を形成することを要求して、国民党の蒋介石を監禁する『西安事件』が起こりました。この西安事件を経験した蒋介石は、華北侵略を目指す日本の関東軍に対抗する必要性を痛感し、1937年9月には中国共産党(毛沢東)との内戦を停止して、『国共合作(国民党と共産党の連携)』に基づく抗日民族統一戦線を確立しました。蒋介石と毛沢東が手を結んだ第二次国共合作は1937年から1945年8月(日本敗戦)まで続きましたが、その後は国共内戦が再び勃発してソ連の軍事支援を受けた中国共産党が、蒋介石率いる国民党勢力を『台湾』に追い出す形で決着しました。1949年10月1日には、中国全土を支配した中国共産党が、毛沢東を国家主席とする一党独裁体制の『中華人民共和国』の建国を宣言しました。
1933年1月にはアドルフ・ヒトラー(1889年4月20日-1945年4月30日)が主導するナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)が政権を掌握して、3月には『全権委任法』を通過させ独裁体制を固めます。世界各地に共産主義革命を輸出してブルジョア階級を駆逐しようとする『コミンテルン(第三インターナショナル)』は、ソ連・モスクワが中心となって1919年3月に設立された共産主義者(コミュニスト)の国際機関ですが、1935年7月のコミンテルン第7回大会において、日本・ドイツのファシズムに対抗する『反ファシズム統一戦線』を形成すると宣言しました。
この宣言を受けて、日本とドイツは対ソ連外交(防共協定)で利害が一致することになり、1936年頃から広田内閣によって『日独提携』の強調が行われるようになります。1936年11月25日には、ソ連に対する軍事同盟の秘密協定も含んだ『日独防共協定』が結ばれ、その後には、米英ソに対抗する『日独伊三国軍事同盟(1940年9月)』へと発展していきました。巨額の賠償債務を抱え軍事力を削減されていたドイツは、第一次世界大戦後の『ヴェルサイユ体制(ドイツに不利で英仏に有利なヨーロッパ国際秩序)』を崩壊させるために、1936年3月に再軍備をし非武装地帯に指定されていたラインラントに軍隊を進駐させます。日本も1933年に松岡洋右(まつおかようすけ)外相が国際連盟脱退を表明し、1936年に日独防共協定を結んで、『英米協調路線』から大きく外交方針を転換させます。ワシントン海軍軍縮条約・ロンドン海軍軍縮条約に続く軍縮による協調外交も拒絶し、日本はアジアにおける『ワシントン体制(英米中心のアジア国際秩序)』への挑戦的態度を明らかにしていきます。
関東軍の作戦参謀で満州事変を画策した石原莞爾(いしはらかんじ,明治22年(1889年)1月18日―昭和24年(1949年)8月15日)は、中国と正面衝突する軍部の『華北分離工作』に対しては批判的であり、1937年1月には対ソ連を見据えて英米との協調路線を維持することの重要性を説き、中国の抗日民族統一戦線による戦闘を終結させるために、中国の統一を支援すべきだと主張しました。1937年当時の石原莞爾は、アメリカやイギリスと軍事緊張を高めるリスクを回避する必要性を認識しており、日本・満州国・中国(支那)の『日満支ブロック経済化政策』を進めて経済力の自給自足的基盤を固め、ソ連の南下を抑止するために満州国や中国との協調同盟関係を強化していくことが望ましいと考えていたようです。1937年(昭和12年)1月には、軍部の政治介入を批判する政友会・浜田国松と寺内寿一陸相の間で激しい『腹切り問答(浜田が自分の発言に軍部侮辱の言葉があれば切腹するが、もし侮辱が無ければ寺内のほうが切腹せよという問答)』が行われ、軍部と政党の対立が深まる中で広田弘毅内閣は1月23日に総辞職します。
軍部の政治介入と政府の言論統制が強まってきた1930年代後半~1940年代に掛けては、政治家が軍人(軍部大臣)に対して強い意見を述べる事が難しくなっていましたが、それでも『憲政の神様』と言われた尾崎行雄(おざきゆきお)が1937年(昭和12年)に軍部批判演説を行い、太平洋戦争が近づく1940年(昭和15年)2月2日の衆院議会でも斎藤隆夫(さいとうたかお)が反軍演説を行って軍部独裁の進行に反対意見を述べています。広田弘毅の辞職後に元朝鮮総督の宇垣一成(うがきかずしげ)に天皇の組閣命令が下されますが、軍部が軍部大臣現役武官制を盾にして宇垣政権樹立に反対したので、宇垣内閣は成立しませんでした。そして、1937年2月2日に軍の支持を受けた林銑十郎(はやしせんじゅうろう,1876-1943)が第33代総理大臣となり、『祭政一致』のスローガンを掲げつつ軍部と財界(三井三菱など財閥)が密接に癒着連携する『軍財抱合(ぐんざいほうごう)』の政治を行いました。
林内閣では対中貿易の利益を優先する財界・財閥の意向を受けた佐藤尚武外相が、蒋介石らの要人と懇談して経済協力や対中輸出の増大を目指す『日中宥和政策』を推進しようとしていたのですが、この経済提携路線は1937年7月7日に発生した『盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)』によって破綻することになります。林内閣自体は1937年4月30日の総選挙で大敗を喫してしまい、6月1日に五摂家筆頭の家柄の出身である近衛文麿(このえふみまろ,1891-1945)に組閣の大命が下りました。近衛政権の周囲を参謀やブレーン、同志として固めていたのは、華族出身の木戸幸一(きどこういち)・有馬頼寧(ありまよりやす)、革新官僚の後藤文夫(ごとうふみお)、皇道派の小畑敏四郎(おばたびんしろう)・鈴木貞一(すずきていいち)、政策提言のブレーンであった風見章(かざみあきら)・後藤隆之介(ごとうりゅうのすけ)・蝋山政道(ろうやままさみち)・笠伸太郎(りゅうしんたろう)らでした。
近衛文麿の政治思想は1918年に『日本及日本人』という雑誌に寄せた『英米本位の平和主義を排す』に現れているように、アメリカやイギリス、オランダなど先進資本主義国にとっては『平和主義による現状維持』が利益となるが、日本やドイツ、イタリアなど後発資本主義国にとっては『軍事戦略による現状打破』が利益となるという事を前提にして、英米が主張する平和協調主義は自国の利益だけを優先した欺瞞的理念に過ぎないというものでした。そのため、近衛は英米協調主義には反対の考えを持っており、軍国主義や独裁政治(非民主政治)であっても正義人道に適うこともあるというファシズムとの親和性も持っていたわけですが、近衛は『白人の人種差別主義・植民地経営の経済的帝国主義』も批判しており、日本の軍国主義を後発国の正当な植民地再分割競争として解釈していたようです。
1937年(昭和12年)7月7日、北平(北京)郊外にある盧溝橋で偶然の発砲(どちらが先に発砲したかは確定されていない)を端緒とする日中双方の小さな武力衝突が起こりましたが、この『盧溝橋事件』が日中戦争が始まる引き金となりました。日本は義和団事件(1900年)後から北平に駐屯軍を派遣していたが、7月7日に歩兵第一連隊第三大隊の第八中隊(清水節郎大尉率いる135名)が盧溝橋周辺で夜間演習を行っていたところ、宛平県城の中国軍の方角から数発の銃声が響いて(日本の空砲やラッパに驚いた中国軍が反射的に数発発射したとの仮説によると)、点呼を取ると部隊の1人が行方不明になっていました。この行方不明になっていた兵士は、ただ行軍中に道に迷っていただけで後になって無事に帰還するのですが、日本軍は中国側に不法射撃に対する謝罪を要求すると同時に、不法な中国軍を膺懲(ようちょう)するという名目で歩兵第一連隊長の牟田口廉也(むたぐちれんや)大佐が、一木清直(いつききよなお)少佐に攻撃を命令します。
1937年7月8日の早朝から龍王廟に駐屯していた中国軍に対して攻撃が開始され、12名が死亡することになりますが、本来であれば中国軍に戦意が無かったことから、発砲の事情を聞いて謝罪を得るだけで解決していた問題なのですが、牟田口廉也の直情的な攻撃命令によってこの盧溝橋事件が日中戦争へと激化していくことになります。牟田口廉也は1944年にもビルマにおいて実現不可能とされた無謀な『インパール作戦(インド東北部への侵略作戦)』を弾薬・食糧の兵站線(補給経路)も確保しないまま断行して、膨大な数の将校と兵士を戦闘・病気・飢餓で死なせています。陸軍参謀本部では中国との不拡大路線を主張する石原莞爾と、軍事外交によって華北分断工作を実現に移したいとする武藤章(むとうあきら)作戦課長・東條英機(とうじょうひでき)関東軍参謀長が対立していましたが、盧溝橋事件で軍事衝突の既成事実が作られてしまったため、そのまま終わりの見えない泥沼の『日中戦争(1937年~1945年)』へと突き進んでいくことになりました。
近衛内閣は偶発的に発生した『盧溝橋事件』を、中国の計画的な軍事挑発行動だと決め付け、中国に強烈な一撃を加えて華北を侵略統治するために、内地・朝鮮・満州から計6個師団の兵力増派を決定しました。日本は当初、国民党と共産党の抗日民族統一戦線(中国人のナショナリズム)を甘く見ており、日本が本格的な軍事力を投入して重要都市を占領すれば、それで中国側が簡単に降伏するものと判断していましたが、国共合作を背景とするゲリラ的な中国人民の反撃が長期間にわたって続くことになります。そもそも日本側が戦争に発展させようとしなければ、中国側は盧溝橋事件の停戦協定に応じて謝罪を行い、宛平県城から撤兵するとしていたのですが、日本軍は『華北の侵略』を目的としてその停戦協定をはねつけ開戦に踏み切ります。1937年7月28日午前8時から日本軍による北平・天津への総攻撃が始められましたが、近衛内閣は英米の干渉・反対を恐れて宣戦布告をせずに『北支事変(ほくしじへん)』と命名しました。8月15日には『暴支膺懲(ぼうしようちょう=乱暴な中国を懲らしめる)』というスローガンを発表して、南京への爆撃も始めました。
戦争事態が拡大したので近衛内閣は『北支事変』を『支那事変(しなじへん)』という呼び方に改め、11月20日に戦争遂行を指導する大本営を設立し、1937年12月までに鉄道沿線にある中国の主要都市の多くを支配下に収めることに成功しました。上海では中国軍・ゲリラ軍の激しい抵抗に遭って苦戦を強いられ9115人の戦死者を出しましたが、11月に柳川兵団が杭州に到着して上海の制圧を成し遂げ、国民党の首都である南京(なんきん)も12月13日に攻略しました。南京占領後の1週間ほどの期間に、日本軍が中国人の戦闘意欲のある兵士だけではなく一般市民や投降した捕虜・敗残兵を大量に殺害する『南京事件(南京大虐殺)』が起こったとされますが、その犠牲者の規模には数万人~数十万人までの諸説があります。
また、殺害された一般中国人の中に、一般市民に偽装した便衣兵(ゲリラ兵)が混じっていたので、日本軍が疑心暗鬼になって必要以上の殺戮に及んでしまったという見方もあります。虐殺・暴行の規模の大小についての対立を別とすれば、一定数以上の殺害・略奪・強姦・放火などの不逞で野蛮な行為が行われる軍規の乱れがあり、この国際世論の反発を強く浴びた戦争犯罪事態を『南京事件・南京大虐殺』と呼んでいます。『南京事件』は戦後の東京裁判で、中支那方面軍司令官の松井石根(まついいわね)大将が南京事件の責任を追及されて死刑となりましたが、『朝鮮人の従軍慰安婦問題』と並んでそれ以前には日本人に殆ど知られていなかった事件でした。
その犠牲者と戦争犯罪の規模・残酷性、軍の関与の度合い、事件の解釈については、研究者・論者・証言によってかなり大きなバラツキがあり、現代においても民族主義(愛国心)や史料実証主義(証拠の信憑性)の立場から激しい論争の種になったりもします。『南京事件・従軍慰安婦問題』は『日本・中国・韓国・北朝鮮の外交関係』において、歴史的な憎悪怨恨(歴史認識の対立)やイデオロギー対立(反日的な愛国教育)に結びつきやすい深刻な問題であると同時に、その規模や解釈は様々であれど(どこの国が悪いといった責任追及を含めずとも)『戦争一般の悲惨さ・残酷さ・非人道性』を象徴する事件として認識されなければならない問題だと思います。当時の南京の人口や日本軍の数・武装状況(1週間でそこまで多く殺せない装備)からすると、犠牲者が20万人~30万人以上という通説は過大な推算と言われることが多いですが、混乱する南京の占領状況の中で、数万人以上の規模で死者・負傷者、略奪・強姦の被害が出たということは確かでしょう。
言い換えれば、南京事件にせよ従軍慰安婦にせよ、カチンの森事件(スターリンによるポーランド人虐殺)にせよホロコースト(ナチスドイツによるユダヤ人虐殺)にせよアメリカの無差別空爆・原爆投下にせよ、『広義の非人道的な戦争犯罪・人権蹂躙・理不尽な死や身体障害』は常に戦争につきまとう問題だとして認識しておかなければならないという事です。戦争をすれば虐殺や暴行、強姦が起こらなくても、銃弾や爆撃、暴力で必ず誰かが死ぬわけであり、死ななくても手足を吹き飛ばされたり生涯続く後遺症に苦しめられたりすることが多く、極限状況である戦場や占領地帯では人間が本来持っている理性・倫理観が麻痺してしまい、平時であればできない残酷で野蛮な行為に走ってしまうリスクも高いのです。大日本帝国が『日清戦争・日露戦争』や『アジア・太平洋戦争』で膨大な犠牲者を出し、少なからぬ占領地帯での逸脱的な暴力行為を犯してしまったように、戦争と人権侵害(人間の生命・尊厳・自由の否定)との距離は極めて近いのです。
戦争が勃発したり全体主義的な徴兵が行われたりすれば、どの民族や国家であっても人権侵害や戦争犯罪を犯してしまう可能性は低くないわけで、『集団対集団の総力戦』で殺し合いをすることの悲劇や絶望、窮乏、不自由(各種の強制徴用)の大きさには計り知れないものがありました。南京事件が発生した原因については、『戦争状況の中での敵対者に対する人権意識の欠如・捕虜は最大の屈辱とする価値観の反映で捕虜の取扱いが粗暴になったこと・中国人に対する人種的な優越感や差別感情・戦闘被害による中国人への憎悪や敵対心の高ぶり・ロジスティクスが無く現地調達や徴用が当たり前になっていたこと』などが想定されます。日中戦争では中国人民全体が抗日戦線を形成したこともあり、兵士と民間人の区別が困難になっていたことも南京事件や満州事変時の平頂山事件の原因として考えることができますが、南京事件以後の『三光作戦(殺し、焼き、奪うことの徹底化)』も中国人の憎悪や抵抗をいっそう強める結果となりました。
日中戦争では国際条約で禁止されていたイペリットや青酸ガス、ホスゲンなど『毒ガス兵器(化学兵器)』が用いられたり、細菌戦部隊である731部隊が生物兵器開発のための人体実験を行ったという疑惑が起こったりもしましたが、日中戦争の人道上の大きな問題は軍人以外の民間人に大量無数の犠牲者が出たということでした。この一般民間人を巻き込む戦争犯罪的な事態は、アメリカによる『日本攻撃(無差別的空襲・沖縄戦・原爆投下)』にも多く見られることになり、アメリカも戦勝国になっていなければ人道上の罪を負う戦争犯罪について糾弾されていたかもしれません。
近衛文麿内閣は1938年11月3日、『暴支膺懲』に変えて『東亜新秩序』というスローガンを掲げ、ナチスドイツの『ヨーロッパ新秩序』と呼応する形で、日本が基軸となる東アジアの新秩序を軍事行動で創造することを宣言しました。日本・ドイツ・イタリアは、アメリカ・イギリス・フランス・オランダなど連合国が中心となっている既存のヴェルサイユ体制やワシントン体制を否定して、新秩序の確立を目指す中で第二次世界大戦(アジア・太平洋戦争)へと突入していくことになります。日本は1940年3月に、国民党副総裁の汪兆銘(おうちょうめい)を南京国民政府の首席代理にして傀儡政権を作り上げましたが、華北では毛沢東率いる中国共産党の軍事勢力が支配領域を次第に拡大していました。
日中戦争は泥沼化して長期化しましたが、日本が1941年12月にアメリカと『太平洋戦争』を開始してからは、南洋諸島や東南アジアにも兵力を割かなければならなくなり、戦況は次第に苦しくなっていきました。最終的には、1945年(昭和20年)8月15日のアメリカに対する敗戦(ポツダム宣言の受諾)と、8月8日のソ連の満州国・朝鮮半島への侵攻(日ソ中立条約の破棄)によって、日中戦争も終結することになり、日本が間接統治していた植民地の満州国も瓦解することになります。
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