絶対国防圏の崩壊とサイパン島の戦い・インパール作戦
フィリピン戦と沖縄戦の悲劇
『アジア太平洋戦争の拡大と進展』の項目では、アメリカとのミッドウェー海戦に敗れて守勢に追い込まれる日本軍について説明しましたが、日本の大本営は1943年(昭和18年)9月30日に、何としてでも死守すべき“絶対国防圏”を『千島‐小笠原‐マリアナ諸島(サイパン島・グアム島)‐中部ニューギニア‐スンダ‐スマトラ‐マレー‐ビルマ』へと縮小して再設定しました。絶対国防圏を再設定する前に、イタリアが連合国に対して1943年9月8日に無条件降伏をしており、日独伊軍事同盟に基づく世界戦略も大きな綻びを見せ始めていました。
マリアナ諸島の制海権・制空権を米国に取られると、航空機の飛行距離が伸びて日本は本土爆撃の脅威に晒される事になりますが、1943年11月に太平洋中部にあるギルバート諸島のマキン島・タラワ島の守備軍は全滅します。その後も、1944年(昭和19年)2月にマーシャル諸島のクワジャレイン島とカロリン諸島のトラック島を米国に奪われ、3月にパラオ諸島の日本軍も全滅させられて、1944年8月までに、日本本土防衛の最重要拠点とされていた『マリアナ諸島(サイパン島・グアム島)』も米国の制海権・制空権の範囲内に入る事になります。1944年6月から、アメリカ軍がサイパン島への上陸を開始して7月には占領を終えます。1944年8月には、テニアン島・グアム島も完全に米軍によって占領され、『玉砕攻撃』を断行した守備隊の日本軍は全滅するに至りました。
サイパン島では戦争に巻き込まれた約4,000人の日本人が手榴弾・服毒で自害したり、アメリカ軍が後に『バンザイ・クリフ』と名付けたマッピ岬から『天皇陛下、万歳』などの掛け声を上げて投身自殺をしたりしました。1944年9月に、ニューギニアとソロモン諸島でも日本軍を米軍に激しい攻撃を受けて敗北を余儀なくされ、潰走した日本軍兵士の多くは、パプアニューギニアの鬱蒼とした熱帯のジャングルの中で『飢餓・マラリア・赤痢』などで死亡していきました。1919年(大正8年)に、第一次世界大戦後の『ヴェルサイユ条約』で旧ドイツ領から日本が支配する『委任統治領』へと組み込まれた太平洋の島々である『南洋諸島(マリアナ諸島・カロリン諸島・マーシャル諸島)』は、1944年(昭和19年)までにアメリカ軍に全て占領されてしまう事になります。
日本は南洋諸島を統治する行政拠点として1922年(大正11年)に、パラオ諸島のコロール島に『南洋庁』を設置しましたが、同じ1922年には『北の満鉄・南の南興』と呼ばれた製糖資本の南洋興発(なんようこうはつ)が創設されました。サイパン島の現地にはマレー系のチャモロ人、ポリネシア系のカナイ人など約4,000人が住んでおり、そこに沖縄県からの出稼ぎ移民を中心とする約2万人の日本人と若干の朝鮮人が入ってきて他の支配下にある地域と同じく、『宮城遥拝(皇居の方角への敬礼)・神社参拝・日の丸掲揚・君が代斉唱・日本語教育』などの皇民化政策が行われました。神社参拝においては、パラオ諸島にある『南洋神社』が総鎮守と定められ、サイパン島に漢字を当てはめた『彩帆神社(サイパン神社)』が島の氏神となってその参拝が半ば義務とされました。
当時の南洋諸島では、物質文明・科学技術の発達レベルが遅れていて原始的な農耕・採集の生活をしていた現地人(マレー系チャモロ人・ポリネシア系カナイ人)を『三等国民・土人』と呼んで蔑視する人種差別が行われていました。韓国併合で『二等国民』として処遇されていた朝鮮人よりも一段低い扱いとなっており、日本人が経営する料理屋・銭湯・遊郭への入場や飲酒は禁止されていました。チャモロ人やカナイ人の中には、この日本統治下の人種差別を克服するために日本・天皇に対する忠誠心を示そうとして、『ニューギニア挺身隊・義勇切込隊』に志願する者たちも多くでました。また、太平洋戦争におけるサイパン島では、空襲・艦砲射撃で419人の民間人を含む現地人が犠牲になることになりました。
マリアナ諸島の支配権を巡る激戦地となったサイパン島では、諜報スパイ活動を警戒した日本軍が日本語が満足に話せないチャモロ人・カナイ人・朝鮮人、投降しようとした日本人を殺害しており、サイパン島にいる日本人に対しては、『米軍の捕虜になれば男は拷問・銃殺、女は強姦・銃殺されることになる』と虚偽の脅しをして自決を迫りました。その結果、大勢の日本人がマッピ岬から投身自殺をするという『バンザイ・クリフの悲劇』が起こってしまうのですが、1944年7月7日にサイパン島守備隊の日本軍約3万人は全員玉砕します。住民にも1万人以上の犠牲者を出す悲惨な事態となりましたが、サイパン島を確保した米軍は1944年11月24日に、島にあるアスリート基地から『初めての東京空襲』を断行するB29爆撃機を飛び立たせました。
1944年には、中国の蒋介石軍に英米が兵器・弾薬・食糧を輸送していた『援蒋ルート』を遮断するために、英軍・インド軍の拠点であるインド領インパールを一挙に叩こうとする無謀な『インパール作戦(作戦名=ウ号作戦)』が断行されました。牟田口廉也(むたぐちれんや)中将が率いる『南方軍第十五軍』所属の三師団がインパール作戦に動員され、制空権による支援もロジスティクス(兵站)による食糧・医薬品の補給もない中で、過酷な山岳戦を戦う事になった。援蒋ルート遮断とインド北東部の英軍壊滅を狙ったインパール作戦の結果は惨憺たるもので、戦死以上に飢餓やマラリア、赤痢などで約2万6千人~3万人(総勢9万人のうち)とも言われる犠牲者を出しました。
インパール作戦には日本軍が訓練したチャンドラ・ボース将軍の『インド国民軍』も動員されて全滅し、同じく日本軍が主導して養成したアウン・サン将軍の『ビルマ国民軍』のほうは1945年3月に日本軍に反旗を翻して独立運動(反ファシズム運動)を展開し始めました。1945年5月に、アウン・サン将軍率いるビルマ国民軍は首都ラングーンを奪還して、6月15日に日本支配に対する勝利を宣言しますが、この抗日戦線の『反ファシスト組織』は独立ビルマの軍事政権へとつながっていく『反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)』へと発展していきました。
日米戦争で劣勢に追い込まれ始めた東條英機(とうじょうひでき,1884-1948)首相は、『軍の統帥権・ポスト』と『内閣の国務権・ポスト』を掌握して独裁体制を強化しようとし始めます。東條英機自身も首相と陸軍大臣を兼務して指揮権を強めていましたが、更に1943年(昭和18年)11月に新設した軍需大臣のポストを兼務、1944年2月には参謀総長の役職も兼ねるようになります。1944年3月には戦時行政特例法と職権特例を交付し、腹心である島田繁太郎(しまだしげたろう)海軍大臣にも軍令部総長を兼務させて、東條内閣を構成する軍人が軍・行政・内政をすべて牛耳るような全体主義の政治体制が築かれていきました。
日本国内の独占産業資本を軍需生産体制にすべて取り込んで『総力戦』を戦うために、1944年3月には郷古潔(ごうこきよし)三菱重工業社長、大河内正敏(おおこうちまさとし)理研工業社長、藤原銀次郎(ふじわらぎんじろう)王子製紙社長らの財閥の財界人を新設した『内閣顧問』に任命して更なる積極的で全力的な戦争協力を求めました。しかし、1944年7月にマリアナ諸島のサイパン島が陥落すると、海軍重鎮である岡田啓介(おかだけいすけ)、米内光政(よないみつまさ)、末次信正(すえつぐのぶまさ)らと東條内閣にいた岸信介(きしのぶすけ)商工相や重光葵(しげみつまもる)外相が『東條内閣打倒』を画策して、1944年7月18日に東條内閣は総辞職を余儀なくされます。
東條英機首相の後を継いで首相になったのは、それまで朝鮮総督を務めていた小磯国昭(こいそくにあき,1880-1950)であり、小磯を補佐する副首相格として海軍大臣の米内光政が就任しました。陸軍の有力な派閥に所属しておらず陸軍大学での席次も低かった小磯国昭首相は、強力なリーダーシップを発揮することができず、レイテ沖海戦の時にも統帥部から海戦断念の報告を受けることができず、首相であるにも関わらず天皇からの又聞きで情報が入ってくるという有様でした。1944年10月に、アメリカの第七艦隊が650隻の大艦隊で、フィリピンのレイテ湾へと押し寄せてきますが、当時世界最大の戦艦だった武蔵も撃沈させられて、日本の海軍力はまともに抗戦することもできず、壊滅的な被害を受ける事になります。
この1944年10月の『レイテ沖海戦』は、海軍の第一航空艦隊司令官・大西瀧治郎(おおにしたきじろう)中将が発案したとされる『神風特別攻撃隊(特攻隊)』による特攻が初めて実施された戦いでもあります。太平洋戦争の終戦までに、航空機に爆弾を抱えたまま敵の艦隊に突撃していくという自滅的な特攻(鹿児島県の知覧にあった特攻基地より出撃)によって、3724人もの将来有意な若者の命が海中に没する事になりました。1945年2月には米軍がフィリピンの首都マニラを占領しますが、1942年3月にマニラ湾に浮かぶコレヒドール要塞から日本軍の攻撃で追われて“I shall return.(私はまた戻ってくる)”という言葉を残したとされるダグラス・マッカーサーも、1944年10月にレイテ島に再上陸を果たしました。
ダグラス・マッカーサーが率いる25万の米軍の大軍に包囲されたフィリピン・レイテ島の日本軍は連敗を重ねて、1944年(昭和19年)10月20日から終戦までの間に、生きて虜囚の辱めを受けずの『戦陣訓』を守る決死の徹底抗戦を続けて7万9261人もの膨大な戦死者を出しました。日本の本土防衛のために時間稼ぎの持久戦を命じられたルソン島の戦いでは、マニラからルソン島の北部山岳地帯に逃れていった日本軍が、食糧・弾薬が尽きても戦い続け飢餓やマラリアのためにジャングルの中でその生命を落としていきました。激しい飢餓に襲われた『フィリピンの戦い』では、やむを得ずに人肉食を行って露命をつないだ兵士もいたといいますが、約40万人以上もの大兵力を注ぎ込んだフィリピンの戦いでは、約33万人以上もの日本兵が飢えや伝染病、銃弾で死んだとされています。
1945年2月には、南洋における本土防衛の最終防衛ラインとされていた『硫黄島(いおうじま)』が、1日に3万発以上もの砲弾が雨のように浴びせかけられる猛烈な艦砲射撃を仕掛けられ、米軍1万人と戦車200両による隠れている兵士を炙り出す火炎放射器を駆使した日本軍の掃討作戦が行われました。硫黄島の戦いでは、決死の玉砕戦法を取り捕虜にならずに自害した日本兵の犠牲者は約2万3千人にものぼり、硫黄島を守っていた日本軍の守備隊は3月17日に米軍の猛攻を支えきれずに全滅しました。硫黄島を占領した米軍は、B29爆撃機を大量に日本本土に向けて飛ばせる体制を固め、徹底した焼夷弾による空襲で主要都市を焦土にするかのような激しい攻撃を続けてくるようになります。
日本の大本営は1944年(昭和19年)3月に、沖縄県の首里に大本営直轄の牛島満(うしじまみつる)中将を司令官とする沖縄防衛の『第三十二軍』を新設しますが、10月に入って沖縄が米軍の空襲を受けるようになると、12月に沖縄防衛の要であった第三十二軍の第九師団を台湾に転出させてしまいます。日本政府はそれまでの『沖縄絶対防衛』の戦略を転換して、第八十四師団を沖縄県に送り込む計画も中止し、日本全体の兵力が損耗していく現実を見据えて、沖縄県を『本土防衛のための捨石・時間稼ぎの拠点』として使うかのような沖縄軽視の兵力の再配置を整えていきます。
1945年(昭和20年)2月には、近衛文麿(このえふみまろ)元首相が昭和天皇に『敗戦は最早必至であり、共産主義革命から国体(天皇主権体制)を護持するために、早く終戦に動くべきである』とする上奏を行っており、既に年が明けた1945年初頭の段階で大本営の首脳部は日本の敗戦が回避できないことを分かっていました。近衛文麿・木戸幸一の宮中グループ、岡田啓介・米内光政の海軍長老グループ、現実主義の外務官僚・吉田茂らが『終戦工作』に向けて動こうとしていましたが、近衛文麿の上奏を受けた天皇は、『もう一度米国に対する戦果を上げてからでないと、(日本が納得できるような)終戦の話をするのは難しいと思う』と答えており、最後にもう一度米国に一撃を加えてから終戦の条件交渉に入るべきだと考えていました。
天皇(昭和天皇)は1945年2月の段階では、最終的な敗戦は回避できないとしても、できるだけ日本にも有利な条件で停戦交渉をするために台湾戦か本土戦かで、米軍に最後の痛撃(窮鼠の一撃)を与えて日本軍にまだ余力が残っている事を示すべきだという意思を示していました。大本営はその対米最終決戦の一撃や本土防衛のために兵力をできるだけ温存する方針を立てて、兵力が手薄となった沖縄県をそれらの目的のための捨て石として用いるような作戦を実行に移しました。英米を中心とする連合国軍は空母19隻、戦艦20隻、兵力約18万3千人の大兵力で、1945年3月26日に猛烈な艦砲射撃を繰り返して慶良間列島に上陸し、更に4月1日には沖縄本島への上陸を果たします。それを迎え撃つ日本軍の兵力は陸軍8万6400人、海軍8千人であり、近代兵器の装備や弾薬の量でも圧倒的に不利な状況にありました。
沖縄本島の中西部にある北谷(ちゃたん)・読谷(よみたん)の海岸に上陸した連合国軍は、短時間で嘉手納町の北飛行場と中飛行場を占拠しますが、日本軍は内陸部に誘い込んで消耗戦・持久戦を戦い時間を稼ぐという戦術を採用することにしたため、この段階では目立った反撃をしませんでした。決死の覚悟で突っ込む人命を盾にして、連合国軍を沖縄に釘付けにする作戦であり、1945年4月5日からは『神風特攻隊』を何度も鹿児島県の知覧基地から出撃させ、海でも海上の特攻隊となる人間魚雷の『回天(かいてん)』を連合国軍の艦隊に突撃させました。日本海軍の最終兵器として期待され建造されていた戦艦『大和(やまと)』も、沖縄県への片道の燃料しか積んでいない海上特攻隊として出撃しますが、沖縄にたどり着くこともできず、航行2日目の4月7日に鹿児島県南方の海上であっけなく撃沈されました。
アメリカ軍は制海権も制空権も失った丸裸の沖縄県に、『鉄の暴風』と呼ばれる容赦ない徹底的な集中攻撃を雨霰の勢いで加え、『ナパーム弾・ロケット弾・毒ガス兵器・火炎放射器・マシンガン乱射』などで沖縄県民60万人の生命を暴風が薙ぎ倒すかのような勢いで奪っていきました。米軍が沖縄県に降り注がせた『鉄の暴風』は、4月から6月までの間に、艦砲弾51万発、野砲・重砲弾177万発を叩き込む物凄いものであり、日本軍が拠点にしていた琉球王国の古都の首里(しゅり)はあっという間に瓦礫と化し、摩文仁(まぶに)の丘へと日本軍の拠点は移されました。アメリカ軍の圧倒的な物量を誇る猛攻撃の前に、抵抗する術もない日本軍は劣勢・全滅へと追い込まれ、6月23日には摩文仁の丘で司令官の牛島満(うしじまみつる)中将・長勇(ちょういさむ)参謀長が自決しました。
牛島満中将が自決の際に、最後の最後まで抵抗を続けて敢闘せよとの命令を残したため、その後も小規模な消耗戦・持久戦が民間人を巻き込みながら散発的に続き(組織的な軍隊としての抵抗は6月23日の時点で終わったとされますが)、悲惨を極めた『沖縄戦』が実際に完全に終結したのは、日本軍と連合国軍が嘉手納で降伏文書に調印した9月7日でした。
長勇参謀長は民間人(非戦闘員)保護の戦時国際条約を軽視した人物としての伝聞も残っていますが、実際、この沖縄戦の戦死者は軍人・軍属が9万4136人、戦闘協力者も含む一般民間人は約9万4千人であり、軍人・軍属とほぼ同数の非戦闘員が命を失っています。苛烈さを極めた沖縄戦によって、沖縄県民約60万人のうち約15万人が『戦闘・餓死・自決・マラリアなど伝染病』で命を落としており、県民の約4分の1が戦死するという破滅的な状況に追い込まれました。アメリカは本土決戦に臨む前の前哨戦やバックナー中将死亡の復讐戦として、民間人を巻き込んで徹底的に日本人を攻撃するという無差別殺戮戦を展開しており、日本軍・住民が立てこもる洞窟・トンネルに爆弾を投げ込んでガソリンで焼き払うという残酷極める『馬乗り作戦』を実行したりもしました。
大本営が沖縄県への援軍派遣はしないという方針に転換したため、現地防衛の第三十二軍は沖縄県の17歳~45歳の男子二万人以上を徴兵して、『防衛隊・義勇隊』として組織しましたが、実際には15歳未満の子どもや60歳以上の高齢者も総力戦を戦う軍隊の一員として組み込まれていきました。師範学校や中学校の男子生徒は『鉄血勤皇隊(男子学徒隊)』として動員され、女子師範学校や高等女学校の女子生徒も『ひめゆり部隊(女子学徒隊)』と呼ばれる従軍看護婦として動員されていきました。鉄血勤皇隊やひめゆり部隊に代表されるまだ10代の『学徒隊』は約2300人でしたが、そのうちの1200人以上が凄惨な沖縄戦の中で死んでいます。
日本軍は沖縄本島・石垣島・宮古島・南大東島に飛行機基地を建設するという名目で、『食糧・労働力・資材』などを沖縄県民に供出させそれに従わない県民に虐待・懲罰を加えましたが、日本軍が同胞であるはずの沖縄県民を無実のスパイ容疑で殺害したり、投降を許さず自決を強要したりする事件も少なからず起こりました。避難している壕からの追い出し、米軍への投降を許さない殺害・自決強要、洞窟内などでの集団自決、少なくなった食糧の強奪、洞窟で泣き声を出させないための乳幼児殺害などの事件によって、日本軍(敗残兵)から結果として殺された沖縄県民の数は約800人にも上ると見られています。無論、皇民化政策や鬼畜米英教育の結果として、鬼畜のように残忍なアメリカ軍の捕虜になって虐待や辱めを受けるくらいなら、自害したほうがマシであると思い込んで、沖縄県民が自発的に集団自決するような事例も続々と発生しました。
大宜味村(おおぎみむら)では、日本兵によって米軍に投降して保護下に入っていた沖縄の住民30数人が手榴弾によって殺害されていますが、これは投降した住民が米軍に何らかの軍部の情報を漏らすかもしれないという一方的で理不尽なスパイ疑惑(非国民疑惑)によるものでした。沖縄戦末期には、摩文仁近辺に追い込まれた日本兵約3万と沖縄県民約10万が直径7キロの狭いスペースに閉じ込められた事で軋轢が強まってしまい、軍人・軍属が一般住民を避難壕から追い出したり、『命令違反・スパイ疑惑・非国民批判・乳幼児の声で隠れている場所がばれる』などの理由で虐待・殺害(自決強要)したりする事件が多数起こってしまいました。
現代における沖縄県の米軍基地問題の解決の難しさ、沖縄県民の日本政府に対する不信感・被害者意識の原因の一つとして、戦時中の沖縄戦のあまりの犠牲の多さ、日本軍による県民の徴発・殺傷・自決強要・差別意識の問題(=過去の戦時中に沖縄県が日本国のために払った多大な犠牲の記憶・感情のトラウマ化)などを合わせて考える必要もあります。
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