栃木県の名前と歴史

栃木県の誕生:日光東照宮が置かれた幕府直轄地の栃木県への改変

栃木県の誕生:日光東照宮が置かれた幕府直轄地の栃木県への改変

古代のヤマト王権が成立した時代には、栃木県の辺りは毛野川(けぬのかわ,現在の鬼怒川)が流れていて『毛野国(けぬのくに)』と呼ばれていましたが、毛野国は筑紫、出雲、吉備などと並ぶ当時の強力な政治拠点だったと推測されています。毛野国は奈良時代に『上毛野(上野)国』『下毛野(下野)国』に分割されたと伝承されており、そのうちの下毛野国が7世紀に那須国と統合されて、現在の栃木県の原型となる『下野国』ができたのです。

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栃木県の県庁所在地の『宇都宮市(うつのみやし)』の名称は、出雲神を祀る二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)の別号である『宇都宮大明神』に由来しており、この神社では毛野国の開祖・豊城入彦命が祀られています。この神社の創建は西暦3~4世紀とされ、日本国内の神社の中でも相当に古い神社です。二荒山神社は国造・下毛野氏の血縁者が代々座主を務めましたが、平安時代末期には藤原北家道兼流の毛野氏や中原氏の流れを汲む『宇都宮氏』が下野国の支配者となり、その後は約500年にわたってその地域の領主になりました。戦国時代には後北条氏が台頭して下野国一帯に勢力を伸ばしますが、宇都宮氏は常陸国・佐竹氏と一緒に後北条氏と向かい合いました。豊臣秀吉が後北条氏を関東征伐で滅ぼすと、宇都宮氏は備前国へと配流されて長年の拠点であった下野国(鬼怒川流域)を離れることになりました。

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宇都宮大明神と呼ばれる宇都宮二荒山神社は『武家』を守護する『武徳・尚武の神』として知られ、藤原北家魚名流・藤原秀郷(俵藤太,田原藤太)が、『平将門の乱』を鎮圧する際にこの神社から神秘の霊剣を授けられて将門を倒したと伝えられます。

弓術の達人とされる藤原北家長家流・那須与一宗高『治承・寿永の乱(源平合戦)』屋島の戦い『南無八幡大菩薩、日光権現、宇都宮、那須湯前大明神』と唱えてから、平家の船上の扇の的を射落としたという伝承が残されています。武家としての源氏の基礎を築いた源頼義、源義家(八幡太郎)父子『前九年の役』の前に宇都宮大明神を参拝しており、奥州の安倍氏を鎮圧しています。鎌倉幕府を開いた源頼朝も奥州藤原氏の平定に際して参拝しており、徳川家康も二荒山神社に神領1,500石の特別な土地寄進を行っているのです。

栃木県には近世江戸期に聖地とされ、現代でも観光地として賑わう『日光(日光市)』がありますが、日光開山の祖は勝道上人(しょうどうしょうにん)です。勝道上人は下野薬師寺で5年間の修行をして男体山(なんたいざん)を開山するという発願をして、766年に四本龍寺を建立しました。782年に3度目の試みで山頂にまで到達することに成功し、神宮寺(現在の中禅寺)を建立したことで日光1200年の信仰の歴史の基礎が築かれたのです。

『日光』という地名の由来は真言宗の開祖である空海にあるとされ、『二荒(ふたら=補陀落:ポタラカ)』を音読した『にこう』から『にっこう』へと変化したとされます。古代の記紀類では『日光』の記述はなく『二荒』であることから二荒のほうが古い地名であることは明らかですが、鎌倉時代後期に『日光』という表記が文書に見られるようになってから、下野国内では千手観音や日光菩薩像が多く造立されて信仰拠点としての価値が高まってきたと考えられます。

江戸時代には日光(日光市)は神君家康公を祀る『幕府の聖地』として認識されるようになりますが、日光は元々前述したように『武徳・尚武との結びつき』が強い東国の一大信仰拠点でした。家康の死後には豪華絢爛な『日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)』の建築物が陰陽道・道教の影響の下に建てられましたが、日光東照宮に彫られたり描かれたりした動物たち(眠り猫・見ざる聞かざる言わざるの三猿)は『永続的な平和の象徴』とされています。

日光東照宮は徳川家康の『遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう』という遺言に基づいて建立されました。江戸時代の幕藩体制では宇都宮藩、壬生藩、烏山藩、黒羽藩、大田原藩、佐野藩、足利藩、吹上藩、高徳藩、喜連川藩の諸藩が置かれましたが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では宇都宮藩は幕府に付いたわけではありませんが、官軍(新政府軍)として積極的に戦ったわけでもなく優柔不断な態度を取りました。

大鳥圭介(おおとりけいすけ)が率いる幕府軍と官軍(新政府軍)が衝突する『宇都宮城の戦い』が行われましたが、板垣退助率いる官軍が勝利して、敗れた幕府軍は日光へと退却していきました。1868年(慶応4年)6月に、肥前藩士(現在の佐賀県)の鍋島道太郎が下野国の真岡知県事に任命されて、8月に日光領を新政府が没収しますが、新政府軍は旧幕府直轄地を支配するための布石として、まず真岡を押さえてから宇都宮・日光という『旧幕府の信仰拠点』を統治しようと考えました。

1868年9月に、鍋島道太郎知県事は旧日光奉行所へと入り、翌1869年(明治2年)2月に行政区分を『日光県』と改称して日光に県庁が置かれました。この時点では栃木県ではなくこの地域は日光県と呼ばれていたわけですが、まだ宇都宮にまでは官軍の支配は十分に及んでいませんでした。日光は神君家康公を祀る日光東照宮があったことから、旧幕府の『政治的・宗教的な重要拠点』と見なされており、明治4年(1871年)の一律的な寺社領の没収よりも早い段階(明治2年)で、官軍によって没収されて日光県が置かれたということになります。

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明治維新後の1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)に『廃藩置県』が断行されますが、栃木県に当たる地域は1871年12月25日(旧暦11月14日)に下野国北部に『宇都宮県』が置かれ、また下野国南部と上野国南東部を併せて『栃木県』が置かれました。栃木県の設置に際しては、壬生県、吹上県、佐野県、足利県、日光県が統合されることになり、その県庁所在地と管轄区域は以下のようになりました。

宇都宮県(県庁所在地は河内郡宇都宮)……旧下野国のうちの河内郡、塩谷郡、那須郡、芳賀郡を管轄。

栃木県(県庁所在地は都賀郡栃木)……下野国のうちの都賀郡、寒川郡、安蘇郡、足利郡、梁田郡を管轄。上野国のうちの山田郡、新田郡、邑楽郡を管轄。

この時点で栃木県の県庁所在地は『日光』ではなく『栃木』になっており、徳川将軍家由来の山中の信仰拠点である日光の存在感が薄れることになるのですが、栃木というのは1591年(天正19年)に小山氏の系統である皆川広照(みながわひろてる)が栃木城を築いて始まった商業・舟運(運輸)の町でした。『栃木』と比べると『日光』のほうが歴史的な権威や信仰拠点としての由来があり、全国的な知名度も上でしたが、明治新政府は徳川将軍家を守護する日光東照宮が置かれていたことに抵抗して、栃木のほうの地名を県名に採用し『日光県』を廃止したとも考えられます。歴史的な由緒や権威、知名度からすれば、『日光県・宇都宮県』の採用も有り得たかもしれませんが、結果としては『栃木県』という県名に落ち着くことになります。

1873年(明治6年)6月15日に、宇都宮県と栃木県が合併することになり『栃木県』が成立し、県庁は栃木町に置くことが決められました。1876年(明治9年)に上野国内3郡が熊谷県の北半部(上野国内)と合併して群馬県の一部へと改変され、栃木県と群馬県はほぼ現在と同じ県域を持つことになります。1884年(明治17年)には、栃木県の県庁所在地は栃木町(栃木市)から現在の『宇都宮町(宇都宮市)』へと移されました。

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