山形県の名前と歴史

山形県の誕生:幕閣の左遷地としての歴史と果樹王国・山形市(村山地方)の賑わい

山形県の誕生:幕閣の左遷地としての歴史と果樹王国・山形市(村山地方)の賑わい

山形藩は戊辰戦争(1868年~1869年)で『奥羽越列藩同盟』に参加していたにも関わらず、藩の名前がそのまま県名になっているという珍しい事例です。山形藩は小藩で軍事力も弱くて新政府軍に与えた損害も少なかったため、新政府軍による処分が甘かったとされますが、元々山形藩の藩主は『江戸幕府で失脚した幕閣』が左遷されるという特殊なポストでした。戊辰戦争の後には、米沢・上山・天童・鶴岡(庄内)・松山の各藩は減封されていますが、1869年6月の版籍奉還後に米沢新田藩は廃絶されて米沢藩に編入されました。明治新政府に逆らった鶴岡藩は大泉藩、松山藩は松嶺藩へとその名前が改称されていますが、山形藩だけがその名前を残して山形県となります。

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東北6県のうちで藩名が県名として残っているのは『秋田県』『山形県』だけですが、山形藩は他の東北の藩とは違って江戸時代の藩主が次々と変わったという特殊事情を抱えていました。近世初期には外様大名の最上氏が山形藩藩主でしたが、その後は幕府の重職から失脚した幕閣が左遷される特殊な藩として位置づけられ、親藩・譜代大名の領主が12家にもわたって頻繁に交替したという歴史があります。『関ヶ原の戦い』で東軍に味方した最上義光(もがみよしみつ)が山形藩の初代藩主になりましたが、3代藩主・最上義俊(よしとし)の代に『最上騒動(1622年)』のお家騒動が起こって、近江国大森藩へと僅か1万石で転封されてしまいました。最上氏の後を鳥居忠政(鳥居元忠の子)が22万石で継ぎましたが鳥居家も嗣子がないためにすぐに改易されて、その後も松平家や堀田家など次々と藩主が変わっていきました。

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明和4年(1767年)に入封した秋元家が4代78年間にわたって最も長く藩主を勤めましたが、弘化2年(1845年)に上野国館林藩に転封となります。この転封された漆山4万6千石は館林藩領(漆山陣屋)として廃藩置県の時代まで残りますが、明治維新の時期の山形藩藩主は幕府の老中を代々勤めてきた『水野家』でした。水野家は水野忠邦(みずのただくに)による『天保の改革』が中途で失敗したために、その子の水野忠精(みずのただやす)が山形藩に左遷されることになった人事であり、戊辰戦争では水野家は米沢藩・仙台藩などと連合して奥羽越列藩同盟に加わって敗戦を経験します。2代藩主の水野忠弘(みずのただひろ)は13歳という若年であったために責任を免除され、分家出身の26歳の家老・水野元宣(みずのもとのぶ)が責任を負って刑死しました。明治3年(1870年)に水野家は近江国朝日山藩に5万石で転封される処分を受け、山形藩は明治政府直轄領となりました。

山形県がある地域は古代から『出羽国』と呼ばれていた地域ですが、『出羽』の読みは元々は『でわ』ではなく『いでは』であり、『鳥獣の羽根が得られる国・羽根(羽毛)を産出する国』という意味だったのではないかと推測されます。古代からある出羽国は大きく『置賜郡(おきたま)・田川郡・村山郡・最上郡(もがみ)・出羽郡・飽海郡(あくみ)』の6つの郡に分類されてきましたが、それぞれの郡は現在の山形県では以下の地域に該当することになります。山形県の中心的な都市・街は、『旧村山郡』の領域と重なっていますが、地元の人たちの間では今でも『山形』という地名よりも『村山』という地名のほうが根づいているといいます。

置賜郡……米沢市・南陽市・長井市

田川郡・飽海郡……酒田市・鶴岡市一帯

村山郡……山形市・天童市・寒河江市・村山氏一帯

最上郡……新庄市一帯

出羽郡……庄内平野、中世以降に田川郡に組み入れられる。

山形県の中心的な地域は『村山』であるが、村山は明治時代後期までは『北村山郡・南村山郡・東村山郡・西村山郡』の4つに分かれていたといいます。明治3年(1870年)9月に酒田県が山形に移転することになり、初めて『山形県』が設置されますが、翌1871年7月には廃藩置県で山形県、米沢県、上山県、天童県、新庄県、大泉県、松嶺県の7つの県が設置されました。8月には将棋の駒の産地として有名な天童県が廃止されることが決まり、山形県に編入されています。

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廃藩置県の年である明治4年(1871年)11月には、第1次府県統合によって山形県(村山郡・最上郡)、置賜県(置賜郡)、酒田県(第2次府県統合での田川郡・飽海郡)の3県に統合されました。明治8年(1875年)8月には、酒田県(第2次)の県庁が鶴岡に移転することになり『鶴岡県』が誕生しますが、この鶴岡県は翌年にあっけなく消滅します。明治9年(1876年)8月、廃藩置県の第2次府県統合によって、現在の山形県に相当する山形県、置賜県、鶴岡県の3県が統合して現在の『山形県』が誕生することになりました。このかつての朝敵である山形県の3県統合に当たっては、明治の元勲で政府の権力者であった大久保利通も山形県の巡察を行ったという記録が残っています。

山形県の初代県令に就任したのは薩摩藩士の三島通庸(みしまみちつね,1835-1888)ですが、三島はそれまで鶴岡県令を務めていて、旧鶴岡藩自体も薩摩藩の首領である西郷隆盛との深い政治的・交渉的なつながりがあったとされています。現在の山形県は日本有数の『果樹王国』として重要な果物の産地となっており、特に高級さくらんぼのサトウニシキや西洋なしのラ・フランスの生産地としても良く知られています。山形県全体では県外都市部への人口流出や県内都市部への集中により『人口減少・農村の過疎化』が続いているものの、県庁所在地である山形市の人口は人口統計を取り始めて以来、一貫して増加が続いており、山形市がある『村山地方』は東北地方の都市部として機能しています。

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