大和朝廷の有力氏族としての大伴氏・物部氏・蘇我氏

4~6世紀にかけての日本・朝鮮・中国の東アジア史
大和朝廷の有力氏族、大伴氏・物部氏・蘇我氏の系譜と対立

4~6世紀にかけての日本・朝鮮・中国の東アジア史

『古墳時代の歴史』の項目では、武烈天皇から継体天皇への政権交代とヤマト王権の拡大過程について解説しましたが、ヤマト王権には大伴氏・物部氏・蘇我氏といった有力氏族がいて政治権力を分有していました。527年の『磐井の乱』を物部麁鹿火(もののべのあらかい)が鎮圧し、大伴金村(おおとものかなむら)が任那(朝鮮にあったヤマト王権の軍事拠点)での外交を担当したように、物部氏と大伴氏は大和朝廷の軍事分野で非常に大きな力を持っていたと考えられています。

414年に高句麗の広開土王(好太王)が建設した広開土王碑文には、日本が4世紀以降に朝鮮半島に進出し新羅・百済を従属させて朝貢させていたという記録が残されており、古墳時代の日本は朝鮮半島に拠点を築くための積極外交を行っていました。広開土王という諡号には『国土を広く開いた王』という意味があり、広開土王は高句麗の領土拡大に大きな貢献をした王とされています。

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5世紀には朝鮮北部に領土を持つ高句麗(こうくり)が優勢となり、475年に高句麗軍が百済の漢山城に侵攻して百済王を殺害しましたが、その後、百済には武寧王(ぶねいおう)と聖明王(せいめいおう)という英雄的な君主が現れて国力を取り戻しました。中国の大帝国である漢(後漢, 25-220)が滅亡すると、中国大陸を三分割する魏・呉・蜀の三国時代(220-280)が始まりますが、三国時代を最後に征したのは魏の後継の晋(西晋, 265-316)でした。曹操‐曹丕の親子が創建した魏の後を継いだのは家臣の司馬一族が起こした晋(西晋)であり、蜀の軍師・諸葛亮孔明のライバルであった司馬懿仲達の時代から司馬氏は着々と魏内部での権力基盤を固めていました。

司馬懿仲達‐司馬師‐司馬昭と系譜は続き、司馬昭の子の司馬炎の時に魏の元帝から禅譲を受けます。皇帝となった司馬炎は『晋(西晋)』という王朝を265年に建設して華北を支配するようになります。そして、280年には最後に残っていた南部の『呉』を制覇して、晋が中国の統一王朝となるわけです。しかし、司馬炎の皇位を継いだ司馬衷(恵帝)は暗愚で怠惰な君主であり、八王の乱(301-306)や北方の遊牧民族の侵略を受けて晋の政権は短命に終わります。

遊牧民族の匈奴(きょうど)の首領だった劉淵(りゅうえん)は、晋から独立して漢(前趙)という国家を作り劉淵の子の劉聡は311年に永嘉の乱を起こします。匈奴が起こした永嘉の乱によって、晋の懐帝(かいてい)と愍帝(びんてい)は殺害され西晋は滅びますが、琅邪王・司馬睿(元帝)は九死に一生を得て建康に首都を置く東晋(317-420)を建設しました。

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西晋が衰退してからの4~5世紀の中国は諸国が群雄割拠して絶えず戦い合う五胡十六国時代(304-439)に突入し、中国の政治情勢は不安定化しました。複数の王朝(政府)が政治権力の統一を巡って争い合う時代は、五胡十六国時代を経て南北朝時代まで続きます。しかし、華北は439年に北魏の太武帝によって統一され、華南・江南にも宋・斉・梁・陳といった有力国家が現れて三国時代の呉や東晋と合わせて『六朝時代』と呼ばれました。華南の六朝では、貴族的な文化・美術・宗教が華やかな発展を見せて稲作を中心とする農業生産力も大きく向上しましたが、最終的には南朝の『陳』楊堅(文帝)率いる北朝の『隋(589-618)』に滅ぼされて、中国の南北朝時代は終わりを迎えました。

古代朝鮮の百済の歴史に戻ると、武寧王と聖明王(在位523-554)によって何とか国力を持ち直した百済(くだら, 346-660)は、6世紀に対高句麗の防衛体制を固めるために中国の南朝と同盟を結び新羅との関係を改善しました。しかし、高句麗の軍事侵攻(南下政策)を防ぎきれなかった聖明王は、538年に首都を熊津(忠清南道公州市)から泗ヒ(忠清南道扶余郡)に移し、国号も百済から『南扶余(みなみふよ)』と改称しました。古墳時代(大和時代)の倭は、当時の同盟国であった百済を介在して中国南朝の最新技術や貴族文化を導入しましたが、熱心な仏教徒だった百済の聖明王によって538年に仏教の三宝(仏像・経典・僧侶)が日本に伝えられました。古代日本(倭)と朝鮮の密接な関係を象徴する地域として朝鮮半島南端の『任那(加羅・伽耶)』があり、『日本書紀』には任那日本府という言葉も出てきます。

『魏書 韓伝』には、『高句麗・新羅・百済の三国時代』以前の3世紀頃まで朝鮮半島にあった『馬韓・弁韓・辰韓の三国時代』についての記録が残っていますが、馬韓が『百済』に、辰韓は『新羅』に、弁韓が小国の分立地帯である『任那(加羅)』になりました。馬韓と辰韓は地域を唯一の王朝が統治する統一国家(百済・新羅)になったのですが、弁韓だけは複数の小国が並び立つ任那として残ったのです。その為、任那は百済・新羅よりも軍事的な劣位に立たされ、絶えず両国の侵略の危機を感じていたので、倭(日本)と同盟関係を結び倭の権力の一部が任那に及ぶようになったと推測されています。

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4~5世紀の古代日本にとって任那(加羅)は軍事外交上の重要拠点でした。しかし、任那に具体的にどのような施設や機関が設立されていたのかは謎に包まれており、どれくらい日本(倭)の統治権力が任那に及んでいたのかも分かっていません。541年に日本(倭)は、百済と協調して新羅に奪われた任那を奪還しようとしており(任那復興策)、その後も任那を支配する野心を捨て切れなかったことから、任那は日本にとって特別な意味(こだわり)を持つ土地であったことは明らかです。しかし、倭と任那はある程度の主従関係はあっても基本的には緩やかな同盟関係にあり、明治時代に大日本帝国が設置した朝鮮総督府のような強固な権力機構は無かったのではないかと思います。

任那の支配権を巡って『倭・百済・新羅』の三国で争うわけですが、倭国代表の穂積臣押山(ほずみのおみおしやま)大伴金村は、百済と任那との間にあった『任那四県(上多利・下多利・娑陀・牟ロ)』を百済に割譲してしまいました。この時に、大連であった大伴金村には百済から賄賂を受け取ったのではないかという疑惑がかけられたのですが、541年の任那復興策の時に、物部尾輿(もののべのおこし)から四県割譲を糾弾された大伴金村は失脚しました。任那復興を企てたのは、宣化帝の後を継いだ欽明天皇の時代ですが、562年には任那・加羅諸国は新羅によって滅亡させられ古代日本(倭)は朝鮮半島での拠点を喪失しました。

538年に百済の聖明王によって日本に仏教がもたらされましたが、日本では、新興宗教である仏教を崇拝しようとする『蘇我氏(崇仏派)』と伝統的なアニミズム信仰を重視して仏教を排斥しようとする『物部氏・中臣氏(排仏派)』とが対立して論争しました。蘇我氏の代表者として蘇我稲目、物部氏には物部尾輿、中臣氏には中臣鎌子がいます。仏教崇拝を巡る崇仏派と排仏派の論争は、蘇我氏と物部氏との政治対立とも深く関係していましたが、初めは伝統宗教を重視する物部氏の排仏論が優勢でした。

しかし、仏教を弾圧した時に天変地異や疫病が起こり敏達天皇や物部守屋が痘瘡(天然痘)に罹患したことから、蘇我氏の崇仏論が優勢となり日本の皇室文化に仏教が受容されていくことになります。蘇我氏は欽明天皇の時代に蘇我稲目が大臣(おおおみ)に取り立てられたことで、朝廷で大きな権力を得ていきます。蘇我馬子と蘇我蝦夷の時代には権勢の絶頂に達して天皇の特権である『八イツの舞』を踊らせたりもしますが、大化の改新によって蘇我氏の宗家は断絶することになります。

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大和朝廷の有力氏族、蘇我氏・大伴氏・物部氏の系譜と対立

天皇を中心とするヤマト王権(大和朝廷)には、天皇の側近として国政を分掌する大臣や大連がいましたが、その中でも特に有力な氏族として『蘇我氏・大伴氏・物部氏』がありました。天皇の中央集権体制が十分に整っていなかった4~6世紀の古墳時代には、これらの有力な氏族(豪族)は軍事・祭祀・行政など各分野で非常に大きな力を持っていたと考えられます。

ここでは、蘇我氏・大伴氏・物部氏の系譜とそれらの氏族が果たした政治的な事績を簡単にまとめていきます。蘇我氏は、『古事記』の孝元天皇の項目の記述によると、孝元天皇の曾孫である武内宿禰(たけうちのすくね)の子孫であり、有力な豪族であった葛城・紀・巨勢・平群と同じ血統に遡ることができるとされます。蘇我氏の一族には、韓子(からこ)や高麗(こま)といった韓国風の名前があるので、蘇我氏は朝鮮半島からの渡来人だったのではないかという説もありますが、蘇我氏は韓国の女性との国際結婚が多く、朝鮮半島(渡来人)との関係が強かったのでそういった名前をつけたという説もあります。

蘇我氏の拠点は、大和国高市郡蘇我(橿原市蘇我町)であり、欽明天皇(在位539-571)の時代に蘇我稲目(506頃-570)が大臣になってから朝廷で勢威を誇るようになってきます。蘇我稲目は平安時代に摂関政治を行った藤原氏のように、蘇我氏の娘を天皇の妃にする『外戚政治(姻戚政治)』によって天皇に接近しました。蘇我稲目の娘の堅塩媛(かたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)は欽明天皇の妃となっており、特に、堅塩媛は大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)を産んでいます。

小姉君も第32代の崇峻天皇(在位587-592)を産みましたが、崇峻天皇は蘇我馬子(そがのうまこ)の命令を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)によって暗殺され、日本史上で唯一家臣に殺された天皇となっています。蘇我氏は天皇と姻戚関係を結んで絶大な政治権力を獲得しましたが、同時に、家臣の中で唯一天皇を弑逆した氏族として歴史にその名を残すことになりました。

蘇我氏宗家の系譜を蘇我稲目以前に遡ってみると、『蘇我満智(まち)‐韓子(からこ)‐高麗(こま)‐稲目‐馬子‐蝦夷‐入鹿』という系譜になっています。大化の改新(645)によって宗家(本家)が断絶してからも、傍流の石川朝臣(いしかわのあそん)の系統が残って桓武天皇以前の天皇(持統天皇)に血筋を残していました。蘇我氏の外戚政治によって、蘇我氏の女性から第31代・用明天皇、第32代・崇峻天皇、第33代・推古天皇が生まれましたが、推古に続く第34代・舒明天皇の時代から蘇我氏が天皇の姻戚になることはありませんでした。蘇我氏は欽明天皇以降に強大な影響力を持ち始めますが、非蘇我系の天皇である敏達天皇の時代までは、物部氏と蘇我氏の勢力はほぼ同等で拮抗していたと考えられています。

6世紀のヤマト王権(大和朝廷)の大連(おおむらじ)の地位は大伴氏と物部氏に与えられてきましたが、欽明天皇の時の540年に大伴金村が上述した『任那四県の割譲問題』で失脚すると、『物部麁鹿火(あらかい)‐物部尾輿(おこし)‐物部守屋(もりや)』が大連を担いました。物部氏は欽明と敏達に続く用明天皇の時代まで物部守屋が大連を務めますが、物部氏は基本的に軍事・警察部門において大きな役割を果たした氏族です。物部(もののべ)という音韻は、後の武力階級である『武士(もののふ)』につながったという説もありますが、物部氏の祖先は神々の1人である饒速日命(にぎはやひのみこと)とされていました。饒速日命は天皇家の祖先である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)よりも先に天孫降臨したとされる人物であり、古墳時代の物部氏が日本有数の名門氏族であったことが窺われます。

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物部氏の略系譜では『饒速日命‐大連目‐荒山‐尾輿‐守屋』というように血統が続いていましたが、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を擁立した物部守屋は蘇我氏の軍勢(聖徳太子も参加していた)によって滅亡させられました。物部氏の略系譜には、途中で巨勢氏の系譜が紛れ込んでいるという不思議な面もあります。敏達天皇(在位572-585)は任那(加羅)の復興を懸命に目指した天皇ですが、蘇我氏(崇仏派)と物部氏・中臣氏(排仏派)の仏教論争でははじめ排仏派の立場に立っていました。

敏達天皇から仏教排除の認可を得た物部氏と中臣氏は、仏塔を破壊して仏像を焼き捨てましたが、その後に天然痘(疫病)が流行して敏達天皇がその疫病で死去します。その為、疫病の流行は、崇高な教えである仏教を不当に迫害した罰であるという世論が高まりました。敏達天皇の後を聖徳太子の父である用明天皇(在位585-587)が継ぎますが、高齢で病弱だった用明天皇は政治的指導力を発揮できず蘇我氏と物部氏の政治対立はいっそう深まりました。

欽明天皇と小姉君(蘇我稲目の娘)の間に生まれた穴穂部皇子(あなほべのみこ)は『天皇として即位したい』という野心を持ち、用明天皇の時代に敏達の皇后であった額田部皇女(ぬかたべのこうじょ, 推古天皇)と強引に結婚しようとしましたが、三輪君逆(みわのきみさかう)の反対によってできませんでした。その三輪君逆を物部守屋が殺害したことで穴穂部皇子と物部守屋との協力関係ができあがり、蘇我馬子は額田部皇女(推古天皇)と結びつきました。587年に、蘇我馬子は物部氏が担いだ穴穂部皇子と宅部皇子(やかべのみこ)を殺害して、蘇我氏と物部氏は直接対決することになり最終的に蘇我氏の連合軍が勝利しました。

この戦いによって物部守屋を当主とする物部一族(宗家)は滅亡し、蘇我氏に味方した額田部皇女・聖徳太子・泊瀬部皇子(はつせべのみこ)・竹田皇子(敏達天皇と額田部皇女の子)などが次期天皇の有力候補となりました。用明天皇の後を継いだのは用明の異母弟(蘇我氏の女系)である泊瀬部皇子で崇峻天皇(在位587-592)として即位しましたが、上記したように蘇我馬子と対立して暗殺されることになります。崇峻天皇の後に即位したのは、4世紀以降の大和朝廷において初の女帝となる第33代の推古天皇(在位592-628)でした。

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