メロヴィング朝のフランク王国
カロリング朝とカール大帝の戴冠
ローマ帝国の段階的な衰退と反比例するように、西ヨーロッパで急速に勢力を拡大させてきたのがゲルマン系の『フランク族』でした。フランク族は5世紀に『フランク王国(メロヴィング朝)』という国家を建設しますが、西ローマ帝国が476年に崩壊した後の8世紀には、フランス・ドイツ・イタリア・ベルギー・ルクセンブルクに及ぶ広大な領域を支配するまでに成長します。小規模な勢力に過ぎなかったフランク族を初めて統一したのが、メロヴィング朝(481-751)の開祖であるクローヴィス1世(466-511, 在位481-511)でした。フランク族の中のサリー部族が建国したメロヴィング朝・フランク王国は、現代のフランスの起源ともされています。メロヴィング朝を継承したカロリング朝・フランク王国は分裂することになるので、神聖ローマ帝国(ドイツ)の起源としての性格も併せ持っています。
481年にメロヴィング朝を起こしたクローヴィス1世は、フランク族を統一して積極的な軍事政策を行いその領土を拡張していきます。クローヴィス1世は軍事的才能に秀でた国王であり、486年にガリア北部のローマ系軍閥シアグリウスを『ソワソンの戦い』で撃破し、ロワール川北部を手に入れます。500年にブルグンド王国にディジョンの戦いで勝ち、507年にはアルモリカ人と同盟を結んで当時の強国であった『西ゴート王国』を破って、西ゴート王国の領土をイベリア半島のみに縮小させました。西ゴート王国から広大な『アキテーヌ』の土地を奪い取ったクローヴィス1世の働きによって、フランク王国の領土は北海周辺からピレネー山脈にまで広がります。
クローヴィス1世は婚姻政策として、自分の妹のオードフレダと東ゴート王国のテオドリック大王を結婚させて、東方の軍事防衛を固めました。493年にブルグンド王国の王女クロティルダとソワソンで結婚するのですが、クロティルダはカトリック(アタナシウス派)のキリスト教徒だったので、クローヴィス1世は妻との約束によって496年に『アリウス派』から『カトリック(アタナシウス派)』へと改宗します。当時のゲルマン民族の殆どはアリウス派のキリスト教徒でしたが、『クローヴィスの改宗(496年)』によってフランク王国はローマ・カトリックを国教とする国になります。
クローヴィスの改宗によって、メロヴィング朝・フランク王国はローマ・カトリックの国となり、滅亡した西ローマ帝国の貴族や領内にいるローマ系市民との関係が『宗教信仰(カトリック)の共有』によって改善しました。しかし、ローマ・カトリックによる宗教的な求心力は、国王が『ローマ教皇(ローマ法王)の権威』を認めざるを得ないという事態をもたらし、カロリング朝の時代になると『国王の権力の正統性』を『ローマ教皇・ローマ教会の権威』が承認するという慣習が生まれました。クローヴィス1世は511年11月27日に死去してサン=ドニ大聖堂に埋葬されましたが、フランク族の財産の相続法は『均等分割相続』であったため、フランク王国の領土は4人の子どもに分割されました。
クローヴィス1世からメロヴィング朝・フランク王国を分割相続した4人の息子テウデリク、クロドミル、キルデベルト、クロタールはお互いに領土を巡って争いあったので、一時的にフランク王国は混乱に陥ります。しかし、その4人の息子の中でクロタールが最後まで生き残り、2代国王・クロタール1世(在位558-561)となって、兄弟のキルデベルトの死後の558年にフランク王国を再統一しました。メロヴィング王朝は14代国王・キルデリク3世(在位743-751)まで続きましたが、最後は宮宰(宰相)として権力と領土を拡張していた『カロリング家』によって、その王位を簒奪されることになります。キルデリク3世はフレデリック3世と呼ばれることもあります。
メロヴィング朝の国王の実権は7世紀後半から衰退していき、国王に代わってフランク王国の財政・行政実務を掌握し始めた『宮宰(きゅうさい)』に権力が移行していくのですが、宮宰の中でも特に強い影響力を持っていたのが『カロリング家』でした。714年に宮宰となったカロリング家のカール・マルテル(Karl Martell, 686-741)は、没収した教会領を分与することで自らに忠誠を誓う独自の軍事力を結成して影響力を拡大させます。カール・マルテルは732年の『トゥール=ポワティエ間の戦い』でイスラム帝国のウマイヤ朝を破って、西欧のキリスト教世界をイスラム教勢力の進出(イベリア半島以西への進出)から守ったことでも知られますが、カール・マルテルは実質的な国王といっても過言ではない権力基盤を確立していました。
751年には、カール・マルテルの子である小ピピン(ピピン3世:714-768, 在位751-768)が、第91代のローマ教皇ザカリアス(在位741-752)の支持を交渉で取り付けて『カロリング朝(751-987)』を開設しました。家臣である『カロリング家』が主家である『メロヴィング家』を実力で転覆させたとなると、カロリング朝の『国王権力の正統性』が有力貴族や一般市民、周辺諸国に承認されない恐れがあるので、小ピピン(ピピン3世)はローマ法王のザカリアス(在位741-752)に『王朝交代・宮廷クーデターの正統性』を承認するように求めたのです。ザカリアスの後を継いだしたたかな第93代ローマ教皇のステファヌス3世(在位752-757)は、カロリング朝の統治の正統性を認める代わりに、ラヴェンナ地方を略奪したランゴバルド族の討伐をピピン3世(小ピピン)に要請します。
カロリング朝の初代国王・ピピン3世(在位751-768)は、ローマ教皇ステファヌス3世の救援要請を受けて、2度にわたってランゴバルド族と戦ってこれを打ち破り、ラヴェンナ地方を奪還してステファヌス3世に献上しました。このローマ教皇に対するラヴェンナの寄進を『ピピンの寄進(754年)』と呼びますが、このラヴェンナはその後の『教皇領』の基盤となります。このピピンの寄進によって、フランク王国の国王権力に対するローマ教会の宗教的権威の優位性が確認されたことになりますが、ローマ教皇によって『王位の正統性』を保障してもらうという慣例・儀式が、『カール大帝の戴冠(800年)』へとつながっていきます。
ローマ・カトリック教会やローマ教皇は、キリスト教世界の精神的権威として『国王の地位・権力の正統性』を承認するようになるのですが、その見返りとして各国の国王たちに『ローマ・カトリックの軍事的な保護者』になることを求めたのです。ローマ・カトリック教会を軍事力で保護してくれる強大なカロリング朝・フランク王国の登場は、476年にゲルマン人の大移動の余波によって滅亡した『西ローマ帝国』の復興というローマ系市民(教会関係者)の理想をイメージさせるものでもありました。ピピン3世(小ピピン)が768年に死去すると、その子であるカールとカールマン(751-771,在位768‐771)がフランク王国を共同統治するようになりますが、カールマンは20歳の若さで早逝します。
771年に単独のフランク国王となったカール1世(742-814, 在位768-814)は、卓越した軍事的才能と政治的センスを有しており、ロンゴバルド族・サクソン族・アヴァール族・イスラームなどと戦ってフランク王国の領土を最大化することに成功します。カール1世はローマ教皇との友好関係を深めることに努めた敬虔なキリスト教徒でもあり、773年にはローマ教皇ハドリアヌス1世(在位772−795)の要請を受けて、イタリアを支配していたランゴバルド王国の王デシデリウスを討伐しています。カール1世はデシデリウスの娘と婚姻していたのでデシデリウスは義父に当たりますが、王妃を追い返してロンゴバルド族と戦いイタリアを勢力圏に組み入れました。数十年に及ぶザクセン戦争(772-804)にも勝利して、現在のドイツ全土をフランク王国の版図にすることにも成功しています。
西ヨーロッパ世界を統一する勢いを示すカール1世に、『ローマ・カトリックの守護者』としての強い期待を寄せたのがローマ教皇レオ3世(750-816,在位795-816)であり、レオ3世はカール1世を西ローマ帝国の皇帝の地位に据えたいと考えるようになります。ローマ教皇レオ3世は、キリスト教のカトリック王国建設と古代ローマ帝国の復興という壮大なる野心をフランク王国のカール1世に投影するようになり、西暦800年に初めてローマ教皇がローマ帝国皇帝を選任して戴冠するという事態が起こります。
それまでローマ帝国の皇帝は『ローマ市民・ローマ軍団・元老院の同意(奉戴)』によって選任されるというのが慣例であり、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇帝が西ヨーロッパ世界の領有権を形式的に所有していたのですが、野心的なレオ3世が『カール大帝の戴冠(800年)』を断行したことによって、ローマ教皇が皇帝の選任権を持つという前例が作られたのでした。
800年のクリスマスにローマのサン=ピエトロ大聖堂で、ローマ教皇レオ3世はカール大帝にローマ皇帝の帝冠を授与しましたが、この『カール大帝の戴冠』には『中世の西ヨーロッパの始まり・ビザンツ帝国からの独立・ローマ教皇の皇帝選任権・西ローマ帝国の復活』などの歴史的意義があります。カール大帝は、西はスペインのエブロ川、東はドイツのエルベ川、南はイタリア中部にまで及ぶ西ヨーロッパ世界の大部分を統治するフランク王国を建設したのですが、この広大なフランク王国を安定的に運営するためにはローマ・カトリックの宗教的権威が必要だったのです。
カール大帝は中央集権的な政治体制を強化するために、フランク王国の各地を『州』の単位に区分して、地方の有力者・貴族を各州の『伯(地方行政官)』に任命して、伯を監視する『巡察使』も置きました。カール大帝は古代ギリシア・ローマの時代に隆盛していた学問・芸術・文化・教育活動の復興を積極的に行い、イギリスの高名な神学者アルクインを招聘するなどして、『カロリング・ルネサンス』という文芸復興運動にも尽力しました。
カール大帝の時代に最盛期に到達したフランク王国ですが、カール大帝の死後にはその子の敬虔王ルートヴィヒ1世(在位814-840)が皇帝になります。ルートヴィヒ1世の死後には、ヴェルダン条約(843年)に基づいて三人の息子(ロタール1世・ルートヴィヒ2世・カール2世)の間で王国は分割され、フランク王国は『フランス(西フランク王国)・ドイツ(東フランク王国)・イタリア(中フランク王国)の原型』へと分かれていくことになります。西フランク王国は987年、中フランク王国は950年頃、東フランク王国は911年に『カロリング王朝』の血統が途絶えることになり、東フランク王国はフランケン公コンラート1世を経て『ザクセン王朝(狩猟王ハインリヒ1世)』へと王家の血統が移り変わるのです。
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