ネルソン・マンデラの人生・思想と政治犯としての27年に及ぶ収監
ネルソン・マンデラとフレデリック・デクラークによるアパルトヘイト撤廃
南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離政策)の非暴力的な撤廃に尽力した元大統領のネルソン・マンデラ(Nelson Mandela, 1918-2013)は、1918年7月18日に南アフリカのクヌ村でテンブ族の首長の子として生まれた。ネルソン・マンデラはメソジスト教会で洗礼を受けたクリスチャンであり、高校までメソジスト系の学校に通っていたため、マンデラはアフリカ民族主義や近代啓蒙思想だけではなく、『神の下の平等(肌の色による人種差別の否定につながる根本教義)』というキリスト教の倫理にも大きな影響を受けていたとされる。
大学生時代は学生ストライキなどに参加しつつも法律家(弁護士)を目指していたが、1940年にフォート・ヘア大学で学生運動を扇動したことが問題視されて退学処分となった。南アフリカ大学の通信課程・夜間部やウィットワーテルスランド大学の法学部で学んだ後に弁護士となり、1944年には反アパルトヘイト運動を展開していた『アフリカ民族会議(ANC)』に加入した。ANC(アフリカ民族会議)そのものはアメリカで最も古い民族解放運動組織で、1912年に創設されているが、ANCは共産主義の人民解放思想とも関係の深い組織で、英米をはじめとする西側世界ではテロリストを含むコミュニスト(共産主義者)の集団という否定的な見方をされることも多かった。
マンデラはANCで青年同盟(ユースリーグ)を結成して執行委員に就任したが、ユースリーグの創設メンバーには、ネルソン・マンデラやオリバー・タンボ、ウォルター・シスル(Walter Max Ulyate Sisulu,1912-2003)らが含まれている。1950年にはANC青年同盟の議長となり、1952年12月には反アパルトヘイト運動の実績・指導性が評価されてANCの副議長に就任している。それに先立つ1952年8月には、フォート・ヘア大学で知り合った民族解放運動の盟友オリバー・タンボ(Oliver Reginald Tambo, 1917-1993)と一緒に、ヨハネスブルクで弁護士事務所を開設している。
青年同盟(ユースリーグ)の反アパルトヘイト運動の基本方針は、インドのマハトマ・ガンジーの非暴力的な民族独立運動に影響を受けたものであり、『非暴力不服従とストライキ・交渉と議論による解決』を前提としていた。しかし、ANCの非暴力的な不服従運動やデモ、ストライキだけでは、圧倒的な武力・暴力によって黒人を差別して弾圧する南アフリカ共和国(南ア)政府には対抗することができず、欧米先進国をはじめとする国際社会も、南ア政府の人種差別政策を撤廃するための支援には乗り出さなかった。
日本国も恥ずべきことに、南ア政府のアパルトヘイト政策撤廃を訴えることなどはなく、(欧米諸国が人種差別政策をやめない南アに経済制裁を科す中で)逆に南アとの貿易関係を拡大して世界一の貿易相手国となった。1980年代の日本は、間接的に貿易・投資を通して南ア政府(アパルトヘイト推進派)を支援する事になったのである。
マンデラは白人国家が多い西側諸国よりも東側の共産圏との結びつきが強く、マンデラが逮捕されるきっかけとなった『ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)』の武装闘争も『第三世界の共産ゲリラ(共産主義を標榜する反資本主義の民族解放戦線)』を原型としたもので、1990年に監獄から釈放されるまで西側諸国ではマンデラのことを『政治犯・テロリスト』として非難する政治家も少なからずいた。
ネルソン・マンデラを、対話を否定して暴力に訴えるテロリストのリーダーのように認識した誤解は、PLO(パレスチナ解放機構)のヤセル・アラファト元議長に対して抱かれたテロリストの誤解とも重なる部分がある。小さな政府を前提とする新自由主義政策を掲げたイギリスのマーガレット・サッチャーやアメリカのロナルド・レーガンも、マンデラを暴力を否定しない野蛮な政治犯(テロリストに相当する危険人物)としてネガティブに評価していたし、実際アメリカでは2008年のマンデラの訪米時まで、マンデラを『要注意のテロリストのリスト』に記載していてそれを特別法の立法措置で解除したのである。
ネルソン・マンデラはガンジーを踏襲する非暴力不服従やストライキ(ボイコットやサボタージュ)だけでは、黒人を非人間的に動物のように処遇するアパルトヘイトを終焉させることはできないと判断し、マンデラ率いるANCは1961年に武装闘争に方向転換するが、マンデラは暴力・ゲリラ部隊そのものを肯定したというよりは、『アパルトヘイトの圧倒的暴力への対抗措置(黒人が人間らしく生活できる社会を構築するための手段)』としてANC自らが軍隊を持つ必要性があると考えたのだ。
1961年11月に、マンデラは『ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)』という反アパルトヘイトの軍事組織を編成してその初代司令官に就任したが、1962年8月には武力やテロリズムを用いた国家反逆罪などの容疑で逮捕されてしまった。1964年には、『リヴォニア裁判』で国家反逆罪で起訴されて終身刑の判決を受けてロベン島に収監された。国際社会の圧力や近代思想の普及(南アの白人層にも黒人差別に反対する人が増えた)に耐えられなくなって、アパルトヘイト撤廃の決断を下した白人大統領のフレデリック・デクラーク元大統領によって1990年に釈放されるまで、マンデラの過酷な囚人生活は約27年間にわたって続くことになったのである。1982年には、ロベン島からケープタウン郊外にあるポルスモア刑務所に移送されている。
マンデラの27年間にも及ぶ囚人生活の評価は様々だが(監獄にいなければ他の黒人解放運動の指導者のように暗殺されたリスクも高かったが)、監獄の中にあってもマンデラの人間的なカリスマ性と勤勉な向学心は衰えることはなく、白人の看守とも親密な交流をして感化しながら、マンデラは彼独自の『南の思想=対話と融和の哲学(武装闘争路線や白人に対する復讐感情の放棄)』を段階的に作り上げていくのである。ロベン島に収監されることになった若い政治犯や思想犯の黒人たちは、ネルソン・マンデラから反アパルトヘイト運動や黒人解放運動に関する直接の教育・感化を受けることができたので、当時のロベン島は隠語で『M大学(マンデラ大学)』とも呼ばれたという。
1970年代に南アの黒人に広まった『白人に対する歴史的な劣等感を克服して黒人であることに誇りを持て・自分自身を被差別者としての意識からまず解放せよ』という、スティーヴ・ビコの『黒人意識運動』からもマンデラは影響を受けたという。黒人の自己アイデンティティの刷新に尽力したスティーブ・ビコは、逮捕された後に白人の警察から激しい拷問を受けてわずか30歳でこの世を去っているが、ビコが死後に黒人の民族解放運動に与えた精神的影響は非常に大きかった。
マンデラの思想は欧米の帝国主義や植民地支配、アパルトヘイトの黒人差別にテロも辞さずに激しく抵抗するところから始まったが、ロベン島の監獄の中で自身の思想を研ぎ澄ませていったマンデラは、『黒人が白人を暴力で倒して復讐をする革命(黒人が白人の立場や思想に取って代わり支配すること)』ではなく『白人に白人と黒人が平等な価値のある人間であることを承認させる対話(黒人も白人も支配権力を巡って戦うことのない社会)』が何よりも大切なのだと基本認識を改めることになった。
武装闘争によるアパルトヘイト撤廃運動に依拠しては、『怨恨と復讐の連鎖』を断ち切ることはできず、黒人が白人と同じような支配者として暴力を振るって虐待と搾取を繰り返すだけだと考えたマンデラは、『支配と被支配の関係性』を終わらせるための対話と和解、真実の伝承を優先するようになったのである。
オランダからの移民(ボーア人)が多数を占める南アフリカ共和国の白人層は、白人であってもヨーロッパの故国に帰るべき家や土地、人間関係を持たなくなっている人たち(アルジェリアのフランス人などと同じアイデンティティを持つ白いアフリカ人)である。白いアフリカ人であるボーア人(白人層)が、南アに生活基盤も仕事・家族もすっかり根付いてしまっていることを考えると、マンデラは南アの黒人と白人が目指すべき道は『白人の弾圧・排斥』などではなく『暴力を排除した対話と和解』しかないという結論に行き着いた。
1955年にANCによって起草された『自由憲章』は、黒人が解放されて自由になった時の南ア憲法草案として書かれた民主的・先進的な憲法で、そこに共通するのは南アに特有の『ウブントゥ(Ubuntu, 人間)』の相互尊重である。
その自由憲章の序文は『南アフリカは、黒人であるか白人であるかを問わず、そこに住む全ての人々に帰属する』となっており、マンデラやANCが『黒人が支配する南ア』ではなく『黒人と白人が平等に共生可能な南ア』を目指していたことが伝わってくる。ネルソン・マンデラは黒人解放とアパルトヘイト撤廃のリーダーとして神格化されて語られることも多いが、マンデラ自身は神格化・伝説化を嫌っており、『対話と信頼による解放(解決)』を誰よりも信じてそれを中立的かつ公平に実践し続けた人物でもあった。
ネルソン・マンデラは、1989年12月にフレデリック・デクラーク大統領と面会してアパルトヘイトや南アの現状にまつわる議論を交わし、翌年の1990年2月11日にマンデラは27年ぶりに釈放されることになった。釈放後すぐにマンデラはANCの副議長に就任したが、1989年にベルリンの壁が崩壊して東西ドイツが統合され、1991年には共産主義圏の総本山であるソ連もが崩壊して、南アの政治体制にも大きな影響力を及ぼしていた『冷戦構造(反資本主義勢力による赤化の脅威)』が終焉を迎える。
この冷戦構造の崩壊は、黒人の共産ゲリラ(反アパルトヘイト勢力)の赤化工作から資本主義経済・自由主義圏を守るという『南アの白人政権(西側世界の体制の保守)とアパルトヘイト政策』の正当性を大きく揺さぶることになり、冷戦の崩壊後に反アパルトヘイト政策が一気に加速していった。しかし、ソ連崩壊によって共産主義体制の政策的・経済的な有効性が失われてしまい、アパルトヘイト撤廃後の南アの『黒人の貧困層対策・支援』も方向性が定まらなくなってしまった。
1990年にANC(アフリカ民族会議)が合法化されて、1991年にはマンデラがANCの議長に就任する。マンデラはアパルトヘイト撤廃の政策で合意していたデクラーク大統領と協力して、全人種代表が参加した『民主南アフリカ会議』を2回開催して、多党交渉フォーラムと合わせて、『徹底的な話し合いの機会と納得のいく議論』を展開することに注意を払った。1991年6月には、アパルトヘイト政策を支えていた根拠法である『人口登録法(パス法)・原住民土地法・集団地域法』を廃止することを議会が決定して、南アフリカ共和国におけるアパルトヘイトは撤廃され、法律的に白人と黒人が平等な存在であることが規定されたのである。
アパルトヘイトが撤廃された翌年の1993年12月10日には、ネルソン・マンデラとフレデリック・デクラークが『アパルトヘイト体制を平和的に終結させて新しい民主的な南アフリカの礎を築いたため』という理由でノーベル平和賞を受賞することになった。1994年4月には、南アで史上初となる全人種が投票可能な普通選挙が実施され、ANCが勝利してネルソン・マンデラが黒人初の大統領となったが、マンデラは一党独裁のような体制は築かずに、暫定憲法にあった権力分与条項を遵守して、野党の国民党・インカタ自由党と連立政権を築いて宥和的な『国民統合政府』を樹立した。
マンデラ大統領は経済政策では、黒人の貧困層の底上げ(生活・雇用・教育の支援)に力を入れる社会主義的な『RDP(復興開発計画:Reconstruction Development Project)』を実施したが、2000年以降は新自由主義(自由市場原理)が猛威を振るう世界の潮流に抗えずに、次のターボ・ムベキ大統領が新自由主義の経済政策へとシフトして『トリクルダウン仮説(自由市場で富裕層・大企業の利益を増やして貧困層にも財の再配分を通して恩恵を与える)』が支持された。
ネルソン大統領は1999年2月5日に国会で最後の演説をしてから政界を引退したが、ネルソン政権下では議会での対話と合意、全人種参加を重視しながら、アパルトヘイト体制下で生じた白人と黒人の対立・怨恨・格差の是正(人種と民族の和解協調)を進めて、黒人間で広まりつつあった格差と対立(中流階層化する黒人と貧困層のままの黒人の格差)も解消しようとしていた。
ネルソンが推進しようとした黒人の貧困層の底上げや経済不況からの離脱を目指すRDP(復興開発計画)は、十分な成果を上げられないまま、ムベキの新自由主義へと移行することになったが、南アはアパルトヘイト撤廃以後も『国内の拡大する経済格差・階層間の感情的対立』に悩まされ続けてはいる。所得格差の指標であるジニ係数は世界でもトップクラスの経済的な不平等を示しており、現在では学歴・専門職の雇用を得て中流階層となった豊かな黒人とそれらを得られなかった貧困層の黒人との間で、感情的な対立が強まっている図式もある。
2008年、ジンバブエのハイパーインフレによる経済崩壊時には、大挙して黒人の出稼ぎ労働者が南アに押し寄せてきたが、この時には外国人によって仕事や給与を奪われると思い込んだ南アの黒人のナショナリズムが拡大して、暴力的な外国人排斥運動が起こってしまったりもした。経済政策や格差是正が上手くいかなったという蹉跌もあるネルソン・マンデラだが、彼の最大の功績は南アのアパルトヘイト撤廃を『白人と黒人の間の大量殺戮(憎悪と復讐の連鎖)』を起こさずに平和的に成し遂げたことであり、差別・弾圧された黒人の被害の実態についても、民族宥和と歴史の反省を目的とする『真実和解委員会』で明らかにしていく姿勢を示したことである。
アパルトヘイト体制下で黒人が白人にされてきた差別・虐待・弾圧を考えれば、アパルトヘイト撤廃後に黒人が白人に報復してもおかしくはなかったのだが、マンデラの凄いところは反アパルトヘイト運動で共闘したデズモンド・ツツ主教と並んで、『赦し』の必要性を強調したことである。加害者の白人が『赦し』を願い出たのでは黒人は許さなかった可能性があり、一般の黒人が『赦し』を唱えたのでは怒りに燃える黒人を抑えきれなかったかもしれない。だが、自分自身が白人の不公正なリヴォニア裁判で27年間も刑務所にぶち込まれていたカリスマ的指導者のマンデラが、南アの未来のために『赦し』が必要だと訴えたため、多くの黒人はその和解の方向性に同意することになったのである。
ネルソンは、黒人と白人が協調して作り上げていく自由・平等で民主的な『虹の国(レインボー・ネーション)』の建設のためには、黒人の赦しと黒人・白人の宥和が必要であると考えた。
『真実和解委員会』では被害者・加害者・国民・委員がそれぞれの立場から正直に、アパルトヘイト時代の人権侵害や人種差別・政治的抑圧・暴力犯罪について証言して真実を解明することが求められたが、取り返しのつかない大きな被害・障害を受けた被害者の人たちに対しては、一定の公的補償を給付することも検討された。財源不足や政治問題などの要因によって、現在に至るもアパルトヘイトの被害者には納得のゆく補償は為されていないが、『報復・対立・暴力』ではなく『真実の解明・民族の宥和・歴史からの学習』を優先した、マンデラの真実和解委員会の思想性や倫理性に対しての総合的な評価は高いものがある。
政界引退後のマンデラは、HIV感染症を『アフリカ全体の危機』と捉えてその撲滅運動にも積極的に協力したが、FIFAワールドカップ南アフリカ大会の閉会式に出席して以降は公の場に姿を見せなくなり、2013年6月には感染症を再発させて一時危篤状態に陥ったが7月に何とか持ち直した。2013年7月18日に国際連合本部は『ネルソン・マンデラ国際デー』の式典を開催して、マンデラの功績を顕彰して体調の回復を祈願したが、ネルソン・マンデラは2013年12月5日に、95歳でヨハネスブルグの自宅で永眠することになった。
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