細川護煕の一族と近衛家とのつながり

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細川護煕(ほそかわもりひろ,1938-)は、肥後熊本藩主だった肥後細川家の第18代当主で首相の地位まで登り詰めたことから『殿様首相』とも呼ばれた。自民党が政権を独占してきた『55年体制』を、1993年に小沢一郎らと共に崩壊させたことで現代政治史に名前を残した。

自民党推薦の参議院議員を経て、熊本県知事を2期8年務めた。その後、日本新党を結成して代表に就任、参議院議員として国政復帰し、更に鞍替え選挙で立候補して衆議院議員となり、『新党ブーム』を巻き起こした。小沢一郎が主導した野党連合の政局によって、1993年に細川護煕が担がれて非自民・非共産連立政権の首班・首相となり、『細川内閣』が発足することになった。

しかし翌1994年に佐川急便からの一億円借入事件(未返済事件)が発覚して、当時の野党(自民党)から厳しく追及されて総辞職に追い込まれた。その後は、海部俊樹、羽田孜、小沢一郎らと『新進党』の立ち上げや運営に携わったが、友部達夫のオレンジ共済詐欺事件などで党の支持が落ちて離党者も続出した。細川護煕は還暦(60歳)になった1998年に政界を引退したが、その後も小泉純一郎元首相と組んで反原発の政策を掲げ、2014年の東京都知事選に出馬したりもした。

細川氏(本姓は源氏)は室町幕府の将軍家である足利氏の支流で、河内源氏の棟梁だった鎮守府将軍・源義家の末裔である『細川義季(ほそかわよしすえ)』を始祖とする名門一族である。

室町時代末期に細川氏は一旦没落したが、江戸時代に熊本藩主となった細川家は、近世初期の文芸・近世歌学に造形の深い文化人としての顔も持つ武将・細川藤孝(ほそかわふじたか, 細川幽斎・ほそかわゆうさい,1534-1610)を祖としている。細川藤孝の子で利休七哲の一人でもある細川忠興(ほそかわただおき,1563-1646)が肥後熊本藩の初代藩主である。この忠興の妻が、明智光秀の娘で洗礼を受けたキリシタンとして知られる細川ガラシャ(お玉,1563-1600)である。

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細川護熙は系図上では細川ガラシャの子孫だが、途中で養子も入っているためガラシャの直接(男系)の子孫ではない。細川護煕の親戚である評論家の細川隆一郎(ほそかわりゅういちろう,1919-2009)は、細川忠興・ガラシャ夫妻の長男・細川忠隆(ほそかわただたか)の末裔に当たる血筋とされている。細川ガラシャは夫・忠興との愛情のない夫婦生活に苦しんだともされるが、忠興の留守中に西軍の石田三成の兵に囲まれて人質に無理やりに取られかけたため、家老の小笠原秀清(少斎)に命じて自分を殺させる(キリスト教で自殺が禁止されているため)悲愴な最期を遂げている。殺させたのではなく自害したという説もあるが、細川屋敷に火を放ってから命を落とした細川ガラシャの死が悲劇的なものであったことには変わりない。

細川護煕の父・細川護貞(ほそかわもりさだ,1912-2005)は、公爵・近衛文麿の娘・温子(よしこ)を妻として、第二次近衛文麿内閣時代には内閣総理大臣秘書官を務めていた。そのことから細川護熙は『近衛文麿の孫』に当たる人物でもあるのである。護煕の父の細川護貞は極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯とされた近衛文麿との関係が深い人物であるが、戦後は政治から距離を置いた実業家・文化人としての人生を送り、子の護煕の政界入りに対しても勘当・絶縁するほどの強い反対姿勢を貫いたとされる。

近衛文麿(このえふみまろ,1891-1945)は、満州事変(日中戦争)や太平洋戦争(日米戦争)の開戦との関わりが深い1937年から1941年にかけて『第一次・第二次・第三次の近衛内閣』を組閣しており、日本の『国民総動員体制・大政翼賛会を通した独裁政党の確立・八紘一宇の大東亜共栄圏』などの政策目標を主導する立場にあった。

それらのことから、A級戦犯となり服毒自殺した近衛文麿の戦争責任を否定することは難しいのだが、戦後の近衛文麿は一貫して『自分・内閣・天皇』には戦争責任はなく(自分や天皇ははじめから戦争の不拡大方針を持っていたのに)『軍部の暴走』によってアジア太平洋戦争は拡大させられたという主張をしたため、当時首相の地位にあったのに無責任であるとの批判を多く受けていた。

実際、近衛内閣の元で米英と対決することを前提にした『日独伊三国軍事同盟(1940年)』が締結され、更に政党政治・議会政治を破壊して大政翼賛会の独裁体制を確立しようとしていた。近衛文麿は日中戦争を泥沼化させた一方、日米戦争にこそ終始反対の立場ではあったが、日米開戦やむなしの緊張した情勢下で政権を投げ出して、東条英機の日米戦争不可避(総力戦覚悟)のファシズム的な戦時体制に移行させてしまった。敗戦間近の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿は昭和天皇に対してアメリカと早期和平すべきとする『近衛上奏文』を奏上している。

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近衛家は祖先が古代の藤原鎌足(中臣鎌足)にまで遡る藤原氏の名家で、身分制度の名残があった近代以前の日本では公家の中でも最も家格の高い家柄とされていた。朝廷で摂政・関白になれる家は『近衛・一条・二条・九条・鷹司』に限られ『五摂家(ごせっけ)』と呼ばれるが、近衛家は五摂家の中でも筆頭格の家柄とされていた。

明治時代以降、旧摂関家(五摂家)の出身で首相にまでなったのは近衛文麿だけである。文麿の祖父の近衛忠房(このえただふさ,1838-1873)は薩摩藩の島津家と縁の深い人物で、島津斉彬の養女・貞姫を妻として、長男の近衛篤麿(このえあつまろ,1863-1904)を設けている。近衛忠房は文久3年(1863年)の『八月十八日の政変』では父・忠煕(ただひろ)と共に薩摩藩に協力し、長州藩を京都から追放した。慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、長州(現山口県)の征討を強行する幕府と、長州藩擁護の薩摩藩との間で近衛忠房が仲介役になったりもした。

忠房の子の近衛篤麿は、ドイツのライプツィヒ大学に留学した経験を持ち、異国で貴族(優越者)の公共的な義務である『ノブレス・オブリージュ』を自覚したともされ、独裁的な藩閥政府に批判的でありながらも貴族院議長にまで登り詰めた。近衛篤麿は日本と中国が協力して白人国家の侵略に立ち向かって防衛すべきとする『アジア主義者』であり、アジア主義の興亜会や犬養毅の東亜会、東邦協会、善隣協会の一部などを吸収して『東亜同文会』を結成してその会長にもなっていた。

近衛篤麿が妻・衍子(さわこ)との間にもうけた長男が近衛文麿(このえふみまろ,1891-1945)である。衍子は元加賀藩主の前田慶寧(まえだよしやす,1830-1874)の娘の姫であったが、衍子は間もなく早逝してしまったため、衍子の妹の貞子(もとこ)と再婚し、近衛文麿の異母弟に当たる近衛秀麿(このえひでまろ,1896-1973)が生まれている。近衛秀麿は政治家である兄の文麿とは違って音楽家として活動した人物であり、NHK交響楽団の前身に当たる新日本交響楽団を設立した功績もあるが、色魔と揶揄されるほど複数の妾を持つ女好きの面もあったとされる。女優の澤蘭子(さわらんこ)も秀麿の愛人で子ももうけていたとされる。

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近衛文麿と妻・千代子(1896-1980)との間に出来た娘が温子(よしこ,1918-1940)であり、細川護貞はこの温子と結婚して長男の細川護煕をもうけている。近衛家は近衛文麿の長男・近衛文隆(このえふみたか,1915-1956)が子を残さずに客死したことでいったん断絶してしまう。陸軍中尉だった近衛文隆は、1945年(昭和20年)8月15日に満州で終戦を迎えるが、ソ連の部隊に襲撃されて捕虜となり、『シベリア抑留』で15ヶ所も収容所を転々と移動させられて1956年(昭和31年)10月29日にソ連のイヴァノヴォ収容所で死去している。

近衛文隆の死去で断絶しかけた近衛家だったが、母方の縁で護熙の弟に当たる細川忠煇(ほそかわただてる,1939-)が、1965年(昭和40年)に五摂家筆頭の近衛家の養子に入り、近衛忠煇(このえただてる,1939-)となっている。近衛忠煇は国際赤十字赤新月社連盟会長、日本赤十字社社長なども務めており、異母妹・明子は表千家家元の十四世千宗左而妙斎に嫁いだ。

細川護煕は妻・佳代子(1942-)との間に一男二女をもうけているが、佳代子はボランティア活動などで活躍している女性で、NPO法人世界の子どもにワクチンをの日本委員会代表、スペシャルオリンピックスの日本理事長などを務める。護煕の長男・細川護光(ほそかわもりみつ,1972-)は父親と同時期に陶芸の道に入門し、福森雅武に師事して修行をしてから熊本県南阿蘇村を拠点とする陶芸家になっている。

麻生太郎の妹は三笠宮寬仁親王妃の信子だが、護熙の弟の忠煇の妻・近衛甯子(このえやすこ,三笠宮崇仁親王の娘)は信子の義姉である。このように、先祖がお殿様であった細川家は、摂関家筆頭の近衛家や皇室皇族、地方財閥(麻生家)とも直接間接のつながりがあるし、社団法人的な『日本赤十字社』も皇族・近衛家と関わりの深い公的組織である。

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