『史記 李斯列伝 第二十七』の現代語訳:3

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 李斯列伝 第二十七』の3について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 李斯列伝 第二十七』のエピソードの現代語訳:3]

胡亥(こがい)は趙高(ちょうこう)の言葉をその通りだと思うようになった。趙高が言った。「丞相(じょうしょう)と相談しないと、恐らく事は成就できないでしょう。どうかあなたの為に丞相と謀らせてください。」 趙高は丞相の李斯に言った。「主上が崩御される時、長子に書面を賜いましたが、その内容は遺骸を咸陽で迎え、後継ぎに長子を立てよというものでした。その書面はまだ送られておらず、今、主上が崩御されたことはまだ誰も知りません。ご長子に賜いました書面と符璽(ふじ)はみな胡亥様の所にあります。太子を定めるのは私とあなたの口・耳にかかっています。事をどうなされますか?」

李斯は言った。「どうして、そのような亡国の言葉を吐くのか。それは人臣が議論すべきことではない。」 趙高は言った。「あなたはご自身で考えられて、蒙恬(もうてん)将軍とどちらが優れているとお思いですか?功の高い点では、蒙恬とどちらが上だと思われますか?遠い将来のことを謀って、間違いがないという点では、蒙恬とどちらが上だと思われますか?天下の人々から怨まれていない点で、蒙恬とどちらが上だと思われますか?ご長子が古くからの親しい者として信用している点で、蒙恬とどちらが上でしょうか?」 李斯は言った。「その五点では、みな蒙恬には及ばない。しかしあなたが私をここまで深く責めるのはなぜなのか?」

趙高は言った。「私は宦官の賤役を務める者に過ぎませんが、幸いに文書を認める文官の仕事で秦の宮廷に入ることができ、その仕事を二十余年続けてきました。いまだ秦が罷免した丞相・功臣で二代にわたって封爵を保った人を見たことがありません。最後はみんな誅伐されて亡ぼされました。皇帝の二十余人の公子については、あなたもよく知っているでしょう。ご長子は剛毅で武勇に秀でており、人を信頼させて奮起させる士ですから、即位すれば必ず蒙恬を丞相として用いるでしょう。あなたは列侯の印綬を帯びることができず、郷里に帰らなければならなくなることは明らかです。私は詔を受けて胡亥様を教育し、法律の学習をさせて数年になりますが、まだ過失を犯されたのを見たことがありません。胡亥様は仁慈・篤厚であり、財物を軽んじて士を重視し、お心は聡明ですが口は訥弁(とつべん)であり、礼を尽くして士を敬っております。秦の諸公子の中で、この方に及ぶ者はありません。後継ぎになるべき人物なのです。あなたも考慮されて決断をしてください。」

李斯は言った。「あなたは本来の地位に反り(かえり)なさい。私は主上の詔を奉じて、天の命を聴こうと思う。他に決断すべき思慮などあるだろうか?」 趙高は言った。「安泰も危険になることができ、危険も安泰となることができます。安危も定められなくては、どうしてあなたを聖智の人として貴ぶことができるでしょうか?」 李斯は言った。「私は上蔡(じょうさい)の村里の無官の一布衣(いちほい)に過ぎなかった存在である。主上が幸いにも私を宰相に抜擢し、列侯に封じてくださり、子孫までみな尊位・重禄に引き立ててもらえたのである。これは秦の存亡・安危を私に託してくださっていたのである。どうして主上のその思いに背くことなどできようか。そもそも忠臣は、死を避けて貪るものではなく、孝子は謹んで親に仕え、危険に身をさらさない。人臣は各々その職分を守るのみなのである。あなたはもう何も言わないでほしい、私に罪を犯させることになってしまう。」

趙高は言った。「聖人は時と場合によって移り変わり、変化に応じて時に従い、末を見て本を知り、指向するものを観て帰着するところを知ると聞いております。物事は元々このようなものであり、どうして定まった法則などがあるでしょうか。今、天下の権、生殺与奪の権は胡亥様の元にあって、私はその胡亥様の信頼を得ています。そもそも外から中を制そうとするのを惑といい、下から上を制しようとすることを賊といいます。秋の霜が降りれば草花をしぼみ、春になって氷が溶け水がゆるめば万物は動き始めますが、これは必然の法であります。あなたはこのことがお見えにならないのですか?」 李斯は言った。「私は『晋では献公の時に太子申生(しんせい)を廃したため、献公・恵公・文公の三代にわたって国が不安定となり、斉の桓公の兄弟は位を争ったために、公子糾(きゅう)は殺されて辱めを受け、殷の紂王(ちゅうおう)は親戚を殺し、諌める者に耳を貸さなかったために、国は廃墟になり遂に社稷を危うくした』と聞いています。この三者は天に逆らったため、宗廟(そうびょう)が祭祀を続けられなくなったのです。私は人間であり、国の安定を守り謀反などはしない。」

趙高は言った。「上下が合同すれば、永遠の栄えることができる。中外が一体となれば、事に裏表が無くなります。あなたが私の計略を聴いてくだされば、長く封侯として存続し、代々『孤』と称して、王子喬(きょう)・赤松子(せきしょうし)のような長寿と孔子・墨子のような智を保てるでしょう。しかし今これを捨てて従わないのであれば、禍は子孫にまで及び、寒心すべきことになります。上手くいけば禍を福とすることができますが、あなたは禍福のどちらに身を置かれるのですか?」 李斯は天を仰いで嘆き、涙を流しため息をついてから言った。「あぁ、独り乱世に遭い、死ぬこともできないので、どこにわが命を託そうか。」 こうして李斯は趙高の意見を聴いた。趙高は胡亥に報告して言った。「私は謹んで太子の明らかなご命令を奉じ、丞相に伝えました。丞相李斯はご命令を奉じざるを得ませんでした。」

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こうして共謀して、始皇帝の詔を受けたと詐り(いつわり)、丞相は太子胡亥を太子に立てた。更に書面を作って、長子扶蘇(ふそ)に賜って言った。「朕(ちん)は天下を巡幸し、名山の諸神を祀り、祈祷して寿命を延ばそうとしている。今、扶蘇は将軍蒙恬(もうてん)と共に、数十万の軍を率いて辺境に駐屯すること十余年に及ぶ。その間、前進はできず、士卒の多くを消耗し、尺寸の功もない。それなのに、しばしば上書して、直言して朕の行為を誹謗し、また任務を解かれても太子になれないからといって、日夜怨望(えんぼう)しているということである。扶蘇は人の子として不孝であるから、剣を下賜するので自決せよ。将軍蒙恬は扶蘇と共に外にいて、扶蘇を匡正(きょうせい)することもできず、またその陰謀を知っていたのに何もしなかった。人臣として不忠であるから、自死を賜うこととする。軍を副将の王離(おうり)に委嘱せよ。」 この書面を皇帝の玉璽で封じ、胡亥の食客を使者として書面を持たせ、上郡で扶蘇に渡させた。

使者が到着すると、扶蘇は書面を開いて泣いて奥の部屋に入り、自殺しようとした。蒙恬が扶蘇を止めて言った。「陛下は都の外におられ、まだ太子を立てておられません。私に三十万の兵を率いて辺境を守ることをお命じになり、公子であるあなたにその監督をお命じになられました。これは天下の重任です。今、一使者がやって来たからといって、自殺しようとされていますが、どうしてそれが詐り(いつわり)ではないとお分かりになるのでしょうか?どうか陛下にお許しを請願なさってみて、何度も請願した後で自殺をされても遅くはありません。」 使者はしばしば自決を促した。扶蘇は仁の強い人物だったので蒙恬に言った。「父が子に死を賜うたのである。子としてどうしてお許しなど請願できるだろうか。」 そして自殺した。蒙恬は自殺することに同意しなかったので、使者は役人に引き渡して、陽周(ようしゅう,陝西省)の獄につながせた。

使者が帰って報告すると、胡亥・李斯・趙高は大いに喜び、咸陽に到着してから始皇帝の喪を発表した。太子が立って二世皇帝となった。趙高を郎中令(ろうちゅうれい,宮殿の門戸を司る高官)に任じ、趙高は常に皇帝の側に侍り、権限を掌握した。

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二世皇帝が暇な時、趙高を召して相談して言った。「そもそも人が生まれて世の中で生活するのは、譬えば、六頭の駿馬に引かれた馬車が裂けた隙間を通り過ぎるようなもので短い。私は既に皇帝となって天下に臨んでいるが、これからは耳目の好むところに悉くし(つくし)、心意の楽しむところを窮め(きわめ)よう。そうやって宗廟を安んじ万民を楽しませ、長く天下を有して、わが天寿をまっとうしたいと思う。そういったことが可能だろうか?」

趙高は言った。「それは賢明な君主だけができることで、昏迷惑乱(こんめいわくらん)の君主には不可能でしょう。私には斧鉞(ふえつ)の誅伐を恐れずに申し上げたいことがあり、どうか陛下には少しご留意くださいませ。そもそも沙丘での謀議については、諸公子および大臣はみな疑っております。諸公子はすべて帝の兄上であり、大臣はまた先帝が任命された人々です。今陛下の即位の初めにおいて、彼らは心楽しまず、みな心服しておりません。恐らく変事を為すでしょう。かつ蒙恬は既に死にましたが、その弟の蒙毅(もうき)は兵を率いて外におります。私は戦々恐々として、ただ安らかに終われないのではないかと恐れています。ですから、陛下におかれましても、どうして先のような快楽ばかりを得ることなどできましょうか?」

二世皇帝は言った。「どうすれば良いのか?」 趙高は言った。「法を厳しくして刑を過酷にし、有罪者はその一族全員を連坐して誅罰を与え、大臣を滅ぼし骨肉を遠ざけ、貧者を富ませ賤者を貴くし、先帝の遺臣をことごとく除去し、更に陛下が親しく信じられる者を任用されてください。こうすれば、陰徳は陛下に帰すことになり、害は除かれて姦謀は塞がり、群臣のうちで恩沢・厚徳を蒙らない者はいなくなるでしょう。そうすれば、陛下は枕を高くして、御意のままに志を遂げて安楽でいられるでしょう。この計略に勝るものはございません。」 二世皇帝は趙高の言葉をその通りだと思って、改めて法律を作成した。こうして、群臣・諸公子に罪があれば、その度に趙高の下で糾弾させた。大臣の蒙毅らを殺し、公子十二人を咸陽の市場で刑殺し、公主十人を杜(と)において磔(はりつけ)にして、その財物を朝廷に没収した。これらの者に連坐した者は数え切れなかった。

公子高(こう)は出奔しようとしたが、一族が殺されるのではないかと恐れて、次のように上書した。「先帝が元気でおられた時、私は宮中に参入して食事を賜わり、退出にあたっては御料車に乗せていただきました。お倉の衣類を賜わり、厩の宝馬を賜わりました。このような先帝のご厚遇を得ました私は殉死すべきでしたが、それができませんでした。人の子として不孝であり、人の臣として不忠であり、世の中で立ち行く名義がありません。私は殉死したいと思いますので、どうか麗山(りざん,始皇帝の陵墓がある陝西省の山)の麓に埋葬してください。ただ陛下が哀憐の思いをかけてくだされば幸いです。」 この書を差し上げると、胡亥は大いに悦び、趙高を召してこれを見せて言った。「これは何かの変事にならないか?」 趙高は言った。「臣下が自分の死を憂えることで精一杯の時、どのような変事を謀ることができましょうか。」 胡亥はこの書を良しとして、銭十万を賜うて埋葬してやった。

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