『平家物語』の原文・現代語訳33:平大納言時忠の卿、その時は未だ~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『平大納言時忠の卿、その時は未だ~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

内裏炎上の事(続き)

平大納言時忠の卿、その時は未だ左衛門の督(かみ)にておはしけるが、上卿(じょうけい)にたつ。大講堂の庭に三塔會合(かいごう)して、「上卿を取つてひつぱり、しや冠をうち落し、その身を搦めて、湖に沈めよ」などぞ申しける。すでにかうと見えし時、時忠の卿、大衆(だいしゅ)の中へ使者を立てて、「しばらく静まられ候へ。衆徒の御中へ申すべき事の候」とて、懐より小硯・畳紙取り出し、一筆書いて大衆の中へ送らる。

これを開いて見るに、「衆徒の濫悪(らんあく)を致すは、魔縁の所行なり。明王の制止を加ふるは、善逝(ぜんぜい)の加護なり」とこそ書かれたれ。これを見て大衆、ひつぱるにも及ばず、皆「もつとももつとも」と同じて、谷々におり、坊々へぞ入りにける。一紙一句を以て三塔三千の憤りを息め(やすめ)、公私の恥をも遁れ(のがれ)給ひけん時忠の卿こそゆゆしけれ。「山門の大衆は、発向の乱りがはしきばかりかと思ひぬれば、理をも存じけり」とぞ、人々感じ合はれける。

同じき廿日(はつか)の日、花山(かざん)の院権中納言忠親の卿を上卿にて、国司加賀守師高(もろたか)を解官(げかん)せられて、尾張の井戸田(いどた)へ流さる。弟近藤判官師経(もろつね)をば禁獄(きんごく)せらる。また去んぬる十三日神輿(しんよ)射立て奉つし(まつし)武士六人獄定(ごくじょう)せらる。これ等はみな小松殿の侍なり。

同じき二十八日の夜の戌の刻ばかり、樋口富の小路(ひぐちとみのこうじ)より火出で来つて京中多く焼けにけり。をりふし巽の風(たつみのかぜ)はげしく吹きければ、大きなる車輪の如くなる焔(ほのお)が、三町五町を隔てて、乾(いぬい)の方へすぢかひに、飛び越え飛び越え焼け行けば、恐ろしなども疎か(おろか)なり。或いは具平(ぐへい)親王の千種殿、或いは北野の天神の紅梅殿・橘逸勢(きついっせい)の蠅松殿(はいまつどの)・鬼殿・高松殿・鴨居殿・東三条冬嗣(ふゆつぐ)の大臣の閑院殿・昭宣公の堀川殿、これを始めて昔今の名所三十余箇所、公卿の家だにも十六箇所まで焼けにけり。

その外殿上人・諸太夫の家々は註す(しるす)に及ばず。はては大内(だいだい)に吹き付けて、朱雀門より始めて、応天門・會昌門(かいしょうもん)・大極殿・豊楽院(ぶらくいん)・諸司八省・朝所(あいたんどころ)、一時が内に皆灰燼(かいじん)の地とぞなりにける。家々の日記・代々の文書・七珍萬宝(しっちんまんぽう)、さながら塵灰となりぬ。その間の弊(つひえ)いかばかりぞ。人の焼け死ぬる事数百人、牛馬の類数を知らず。これただ事にあらず。「山王の御咎め」とて、比叡山より、大きなる猿どもが、二三千おり下り、手々に松火をともいて、京中を焼くとぞ、人の夢には見えたりける。

大極殿(だいごくでん)は、清和天皇の御宇(ぎょう)、貞観十八年に始めて焼けたりければ、同じき十九年正月三日の日、陽成院の御即位は、豊楽院にてぞありける。元慶(がんきょう)元年四月九日の日、事始(ことはじめ)あつて、同じき二年十月八日の日ぞ、造り出されたりける。後冷泉院の御宇、天喜五年二月二十六日、また焼けにけり。治暦(ちりゃく)四年八月十四日に事始ありしかども、未だ造りも出されずして、後冷泉院崩御なりぬ。後三条の院の御宇、延久四年四月十五日に造り出されて、文人詩を奉り、伶人(れいじん)楽を奏して、遷幸(せんこう)なし奉る。今は、世末になりて国の力も皆衰へたれば、その後は終に造られず。

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[現代語訳・意訳]

内裏炎上の事(続き)

平大納言時忠は当時、まだ左衛門督でしたが、公事を管掌する上卿でした。大講堂の庭に東、西、横川の三塔の衆徒が集まって、「上卿を捕らえて冠を打ち落とし、本人を絡めとって湖に沈めろ」などと叫んでいました。そこに時忠がやって来て、もはやこれまでと見えた時、時忠は大衆のほうに使者を立てて、「しばらくお静かにお願いします。皆様に申し上げたいことがあります」と伝えさせ、懐から携帯用の小さな硯、畳んだ紙を取り出して一筆したため、それを衆徒に送りました。

これを開くと、「衆徒が乱暴狼藉をするのは、悪魔の所行である。叡明な帝王がこの乱暴を制止されるのは、薬師如来の御加護である」と書かれていました。これを見た衆徒は、撤退を無理強いするまでもなく、すぐに「なるほどもっともな事だ、もっともな事だ」と言い合い、それぞれの谷に降りて、宿坊へ帰って行きました。紙一枚に書いた言葉で、三塔三千の衆徒の怒りを鎮めて、朝廷と比叡山の面目を立てた時忠卿は、素晴らしい優れた人物でした。山門の衆徒もまた、ただ乱暴なだけかと思われていましたが、彼らも物事の理屈を知っていたのだと、皆が感心しました。

同年四月二十日に、花山院権中納言藤原忠親を上卿に任じて、国司加賀守近藤師高の免官が言い渡され、尾張国井戸田へ流されました。弟の目代である師経は禁獄の処分を下されました。また去る十三日、神輿を射た武士六人は入獄(禁錮)の刑に処されました。これらの武士は皆、小松殿重盛の侍でした。

四月二十八日、亥の刻頃、樋口富小路から火の手が上がって、京都中が炎に包まれて大半が焼け落ちてしまいました。東南の風が激しく吹いていたので、大きな車輪のような形で巻き上がった炎の旋風は、三町五町くらいの距離が離れていても、飛び越えて西北に向かって焼き尽くしていき、それは恐ろしいなどという言葉では表現できないほどでした。またこの火事は具平親王の千種殿、あるいは北野の天神紅梅殿、橘逸成の蠅松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三条、左大臣藤原冬嗣の閑院殿、昭宣公藤原基経の堀川殿を始めとして、古今の名所三十数ヶ所、その他の公卿の家も十六ヶ所を焼いたのでした。その他の殿上人や諸太夫の家々については、記録できないほどの家が焼失しました。

遂に火事は大内裏にまで及んで、朱雀門が焼けたのを始めにして、応天門、会昌門、大極殿、豊楽院、八省の庁舎、朝所などがあっと言う間に焼け落ちて灰燼と化してしまいました。また家々の日記、代々の文書、珍しいお宝などがすべて塵灰と化しました。その大火事での損失は一体どれほどの金額になるのでしょうか。焼死した人は数百人にのぼり、牛馬の類は数えられないほどに焼けました。これはただ事ではありません。「日吉山王権現の天罰」だと言って、比叡山より大きな猿どもが二、三千匹も下ってきて、手に手に松明を持ち京中を焼いている夢を見たと言う人もいました。

大極殿は清和天皇の御代、貞観十八年に初めて焼けて、その影響で貞観十九年正月三日の陽成天皇の即位は豊楽院で行なわれました。元慶元年四月九日に再建の工事が始められ、元慶二年十月八日の日に完成しました。後冷泉天皇の御代である天喜五年二月二十六日にも焼けて、治暦四年八月十四日に再建工事に着工されましたが、その完成を見ることもなく後冷泉院は崩御されました。そして後三条院の御代である延久四年四月十五日にやっとのことで宮殿が落成したのです。文人たちが詩を奉げ、楽人たちが音楽を奏でる中で、天皇が新しい大極殿にお移りになられました。しかし今は世も末となり、国の力(国の財政)もすっかり衰えてしまったので、その大火事の後にはついに大極殿が再建されることはありませんでした。

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