弥生時代の米食文化(コメの食べ方)と塩の道

弥生時代後期の典型的な環濠集落(稲作と防衛の共同体)を示すものとして、佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)があります。周囲を防衛のための“二重の濠(ほり)”で囲んだ吉野ヶ里遺跡には、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)以外にも、コメ・麦・粟・稗などの穀物を貯蔵しておくための高床式倉庫(たかゆかしきそうこ)や敵の襲来を監視するための物見櫓(ものみやぐら)がありました。

縄文時代後期に米(コメ)を作っていたと見られる岡山県の南溝手遺跡(みなみみぞていせき)や福岡県の縄文時代後期の遺跡もありますが、これらの遺跡で作られていたのは水田で作る『温帯ジャポニカ米』ではなく、湿地・焼畑農業で作る『熱帯ジャポニカ米(米の野生種に近いもの)』で育て方も味の質も全く異なります。

弥生時代には米(コメ)をどのような調理法で食べていたのでしょうか。現在のようなコメを密閉した釜の中で炊いて蒸らして食べる調理法が『最も美味しくコメを食べられる方法』ですが、コメを密閉した釜で炊いてから蒸らすという調理法が発明されたのは平安時代だとされています。弥生時代の古代社会では、コメは支配階級にとっての主食・常食ではあっても一般庶民の常食ではなく、まだコメは贅沢品の位置づけだったと考えられています。

日本人一般にとってコメが常食になってくるのは、室町時代以降であり、それ以前の一般庶民は作るのに手間がかかるコメ(水稲)ではなく、粟・稗(あわ・ひえ)を常食にしていました。粟や稗に山菜・菜っ葉などを混ぜて煮立てた『糅飯(かてめし)』というのが庶民の主食でしたが、コメも平安時代以前には脱穀してからお粥(おかゆ)のように煮炊きして食べる食べ方が一般的だったのです。

水分が多いものを『汁粥(しるがゆ)』、水分が少ないものを『固粥(かたかゆ)』として区別していましたが、固粥のほうが現在の米飯(べちゃべちゃしていない粒がしっかりした炊いたコメ)になっていきました。

弥生時代の基本的なコメの食べ方は、土器に多めの水を加えて煮た『お粥・雑炊』のような食べ方であり、そのお粥や雑炊に山菜・雑草・雑穀(粟・稗)を加えたものを食べていたようです。お粥というのは、コメを日本に伝えた中国・朝鮮半島では現在でも盛んに食べられているメニューですが、元々は多めの水分と一緒でないと食べられない『粟・稗』と同じ方法で調理していたために、水分の多いお粥のような状態になったのだと考えられています。

コメが現在のような方法で炊いて食べられるようになるには『鉄製の釜(鉄釜)』の登場が必要になってきますが、それ以前の4世紀の古墳時代には後漢・晋(北方遊牧民が移動してきた古代中国の騒乱期)から『甑(こしき)』がもたらされて、コメは蒸してから食べられるようになりました。赤米(あかまい)というもち米を甑(こしき)で蒸してから食べたのですが、この蒸したコメのことを『飯(いい)』と呼んでいました。

コメの食べ方は『粥(かゆ)=土器でもち米を煮炊きしたもの』から『飯(いい)=甑でもち米を蒸したもの』へと進歩してきたが、『めし=柔らかい“うるち米”を鉄釜で炊いて蒸らしたもの』が登場するのは平安時代末期でした。現在の米飯のような所謂『めし(飯)』が庶民にも普及するのは室町時代以降の話ですが、めしは汁粥より固いので『固粥(かたかゆ)』と呼ばれたり、おこわのような飯(いい)よりも柔らかかったので『姫飯(ひめいい)』と呼ばれたりしました。

おめでたい祝い事(慶事)がある時に、小豆(あずき)ともち米で『赤飯(おこわ)』を炊くという風習が一般化したのは江戸時代ですが、新年の1月7日に無病息災を祈念して『七草粥(春の七草のセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロが入った粥)』を食べるという風習と合わせ、『昔ながらのコメの食べ方(煮るお粥・蒸す飯(いい)のおこわ)』に戻っているという面白い特徴があります。祝い事がある時に赤飯を食べるという風習は、日本だけではなく朝鮮半島(韓国)にもあります。

『赤飯(せきはん))』はなぜ特別な意味合いを持つ食事になったのか、その理由は小豆(あずき)の『赤い色』にあり、鮮やかな色彩が乏しい古代人の世界では、赤い小豆は『特殊な呪力魔力・生命力』を帯びた食べ物として尊重されたのではないかと考えられています。コメ(もち米)の調理法として『餅(もち)』がありますが、餅というのは古代の日本で発明された日本固有の食べ物で、元々は中国・朝鮮半島には無い食べ方だったようです。もち米を蒸してから固くした飯(いい)を、弥生時代以降の人たちは『持ち飯(もちいい)』として弁当のように携帯していましたが、この持ち飯(もちいい)が『おもち(もち)』という言葉の原型だとする仮説もあります。

コメの食べ方として刺身と酢飯を一緒に食べる『寿司・鮨(すし)』が現在では人気ですが、すしの原型は『鮨(すし)』であり、この鮨というのは現在の寿司の形態とは全く異なる保存食でした。鮨(すし)という漢字は元々『魚類の塩辛・塩漬け』を意味するものでしたが、日本における鮨は『酸し(酸っぱい)』の意味であり、めし(ご飯)と一緒に食べるものではなく、『塩漬けにした魚・肉・貝』をめしと一緒に発酵・熟成させた日持ちのする保存食のことでした。

古代~中世の鮨というのは『熟鮨(なれずし)』のことであり、魚・肉・貝を塩と米飯の間に漬け込んで、米飯を乳酸発酵させて魚・肉が白く変色して酸味を帯びてきた時に食べる(乳酸発酵したドロドロの米飯は食べられない)というものです。熟鮨では米飯は食べることができませんが、ドロドロになるまで発酵・熟成させずに少し酸味を帯びたところで取り出して、肉・魚と一緒に食べるものを『生成・生熟れ(なまなれ)』といいます。室町時代以降にこの生成(生熟れ)の調理法が発明されて、その後に発酵させない現在の鮨・寿司(おすし)の形へ発展していく『早鮨(はやずし)』が生まれたのです。

朝廷の儀礼や制度、有職故実について記した『延喜式(927年)』にもある鮨(すし)とは、各国に税金として科された特産品の一つでもあり、近江国・筑紫国の鮒鮨(ふなずし)、若狭国のアワビの甘鮨(あまずし)、讃岐国の鯖鮨(さばずし)などが古代の朝廷でも良く知られていたのです。滋賀県の琵琶湖周辺の鮒鮨は、現代でも好事家の好む珍味の鮨として残っていますが、その調理法は数十日にわたって塩漬けにした鮒を塩抜きして、鮒と飯を交互に敷き詰めた桶に重石を置いて一年以上熟成させるというものです。

縄文時代の狩猟採集文化では『穀物』を食べない代わりに『肉・魚』を大量に食べていたので、動物や魚の肉(特に内臓・髄)に蓄積している塩(塩化ナトリウム)を摂取することができ、それとは別に塩を食べる必要がありませんでした。弥生時代に入ってコメ・粟・稗といった穀物を主食として食べるようになると、動物や魚の『内臓・髄』を塩分摂取の目的で好んで食べる食文化が衰退していきます。穀物・野菜のカリウムによって、塩化ナトリウムが体外に排出されやすくなったこともあり、弥生時代以降の人間は年間5キロ以上もの必須ミネラルとしての塩を、『肉・魚・内臓以外』で摂取しなければならなくなったのです。

日本の製塩(塩づくり)はほとんど海水に頼るもの(海水を煮詰めて塩を取り出すもの)でしたが、弥生時代になると乾燥しやすいアマモ(藻塩草)という海藻を焼いて、その灰を水に溶かして煮詰めて結晶化させる『藻塩焼き(もしおやき)』という方法で塩を作りました。日本神話ではイザナギの子の塩土老翁(しおつちおじ)が初めて製塩を行ったとされていますが、この塩土老翁を祀った宮城県塩竃市の塩竃神社(しおがまじんじゃ)では毎年藻塩焼きの神事が今でも執り行われています。

平安時代になると非効率的な藻塩焼きに代わって『塩田(えんでん)+釜炊き』で塩が大量に作られるようになっていきますが、生活必需品・商品である塩を日本各地に運搬するための『塩の道』が自然発生的に整えられていきました。海の沿岸部からは『塩・海産物』が内陸部に運ばれていき、内陸部からは『山の幸(肉・山菜)・木材・鉱物』が海の沿岸部へと運ばれていきました。

古代から漸次的に作られていった『塩の道』というのは、海の沿岸部から内陸部(山奥)へと向かう道ですが、この塩の道によって『孤立的な集落・村落』が相互に外部世界のネットワークと結び付けられていき、『ヤマト王権の中央集権体制』を可能にする地理的アクセスの基盤になったとも考えられています。

太平洋沿岸の静岡県の掛川から長野県の飯田・塩尻に向かう『三州街道(南塩ルート)』、日本海沿岸の新潟県の糸魚川から長野県の松本・塩尻に向かう『千国街道(北塩ルート)』などが代表的な『塩の道』として知られています。これらの塩の道は現在でも物資の運搬コースやトレッキングコースとして利用されたりしていますが、古代日本では生活必需品の塩を運ぶ道ができていなければ、海の沿岸部と内陸部の人たちが文化・物資・話題の交流をする機会を持つことが出来なかったでしょう。

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