『歎異抄』の第七条と現代語訳

“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。

『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。

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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)

[原文]

第七条

一。念仏者は無礙(むげ)の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇(てんじん・ちぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界・外道も障礙(しょうげ)することなし。罪悪も業報(ごうほう)を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆへなりと云々。

[現代語訳]

念仏とは、何者にも妨げられることのない唯一の真理・自由の道です。その言われを申し上げるとすれば、阿弥陀仏の信心がある修行者には、天の神・地の神も敬服して、魔物・怪物の類もその念仏を妨げることはできません。罪悪も前世からの深い悪業を感じることはなく、どのような善行も念仏の善には及びませんから(念仏は何者にも邪魔されない唯一の自由無碍の道だと言えるのです)。

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