ケルト人とケルト神話

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ケルト人とはどんな民族なのか?:中央アジア・ドナウ川周辺の草原を故郷とする“鉄器・戦車”で武装した民族

ケルト人(Celt, Kelt)は、中央アジアの草原から馬・戦車・馬車に乗ってヨーロッパ大陸に渡来してきたインド=ヨーロッパ語族ケルト語派の民族であり、その祖先は中央アジアで移住生活を営んでいた長身・金髪の遊牧系民族なのではないかと推測されている。古代ローマ人は『ケルト人』を『ガリア人』と呼ぶことが多かったが、ローマ人たちは古代ローマの北方に勢力を固めていたガリア人を征服する事業に、大きな兵力と資金を費やした。古代ローマ帝国の将軍ユリウス・カエサル『ガリア戦記』という著作を書き残している。

現在の『ケルト人』という概念は、言語・文化の区分を示すために近現代になってから作られたもので、『ケルト人』と『ガリア人』は厳密には同一の対象を指示する概念ではない。古代ローマの時代には、ローマ北方のガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々を『ガリア人』と呼んでいた。

中央アジアを発祥とするケルト人は古代ギリシア・ローマ時代以前から、ヨーロッパ大陸の広範な地域に住んでいたが、民族アイデンティティを共有して大きな共同体を形成するような『単一民族』ではなかった。ケルト人には『共通の言語・宗教・神話・習慣』があったが、特定の場所に都市・国家・巨大建築物を建設しない移住生活に近く文字文化も発達していなかったため、古代のケルト人やその部族集団がどのような生活を送っていたのかの歴史ははっきりしない部分が多い。

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ケルト人の民族・言語・文化の名残は、現代においてもイギリスのブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などに残されているが、彼らがいつドーバー海峡を渡ってブリテン諸島に移住したのかの詳細な経緯は分かっていない。また、これらの地域に居住するケルト系の人たちが『ケルト人としての単一民族意識・共同体主義的な一体感』を持っているわけではない。

中央アジアから武装して移動してきたケルト人(インド=ヨーロッパ語族)のヨーロッパ周辺部での故郷は、ヨーロッパ東方にあるドナウ川上流の草原地帯の周辺とされているが、紀元前2000年頃にこの草原地帯からヨーロッパ各地に分散して移住しはじめたようである。青銅器時代に中部ヨーロッパへとケルト人は広がり、紀元前1200年~700年頃にはオーストリアのハルシュタットで高度な鉄器文明を花開かせていた。ケルト人の鉄器時代の文化は、『ハルシュタット文化(紀元前1200年頃~紀元前500年頃)』と呼ばれている。ハルシュタット文化では、豪華な黄金製の装飾品が多く制作されていたが、ケルト文化に独自の墳墓の遺構も残されている。

ケルト人の部族集団は、当時のヨーロッパ世界で支配的な影響力を振るっていたギリシアやエトルリアの文化・文明からも影響を受け続け、ハルシュタット文化は『ラ・テーヌ文化(紀元前500年~紀元前200年)』へと移行していった。古代ケルト人のラ・テーヌ文化は第二次鉄器文化に分類されているが、ライン川やアルプス山脈を超える移動をしたケルト人たちは、スイスのノイエンブルク周辺でラ・テーヌ文化の活動・生活を行っていたと推測されている。紀元前1世紀頃の段階になると、ケルト人は西ヨーロッパ全域にまでその生活圏・勢力範囲を広げていた。

ケルト人の部族社会は鋭利な鉄製武器を保有し、馬に引かせた戦車に乗って戦う戦士階級が支配する社会だったが、古代のギリシア人やローマ人が有力な民族として台頭してくる以前には、ケルト人がヨーロッパ大陸に広大な勢力を張っていた。ケルト人の勢力の最盛期は『紀元前4~3世紀頃』であり、鉄器の武器と機動力のある戦車を活用して、バルカン半島にまで進出してマケドニア、テッサリアを征服したり、ダーダネルス海峡を超えて小アジア地域にまで勢力を広げたりもした。

しかし、紀元1世紀頃からローマ帝国の拡大やゲルマン民族の侵入の影響を受けるようになり、ケルト人の支配地域は段階的に縮小していった。特に紀元1世紀のローマ帝国が断行したユリウス・カエサル『ガリア戦記』に記録が残る『ガリア侵攻』の影響は大きく、4世紀になると更に『ゲルマン人の大移動』によってケルト人の部族集団は衰退・消滅の運命を辿ったのである。鉄器と戦車の軍事力に優れていたケルト人たちは、ローマ帝国に侵略された後には、『傭兵』として雇われ戦力にされることも度々あった。

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ケルト神話の伝承:カエサルの『ガリア戦記』やアイルランドのキリスト教に残るケルト人の痕跡

ローマ人の軍事侵略とゲルマン人の大規模な侵入によって、勢力を衰退させ土地に追われたケルト人の一部は、現イギリス(連合王国)のアイルランドやブリテン島に移動したと伝えられる。ヨーロッパ大陸で衰退・消滅(他民族と同化)していったケルト人を『陸のケルト』、ヨーロッパ大陸を離れてアイルランドやブリテン島に移動したケルト人の一派を『島のケルト』として分類することがある。しかし歴史学の研究では、陸のケルトと島のケルトが過去に同一の民族だったか否か(島のケルトは元々アイルランドやブリテン島に居住していた陸のケルトに類似の文化を持つ民族だった可能性もある)については、研究者の間で様々な根拠に基づく論争もある。

ローマ人やゲルマン人に侵略と圧迫を受けて消滅・同化の運命を辿った『陸のケルト』は、自分たちの歴史や文化、慣習、宗教を文字文化の形で残さず、言葉で話して後世に伝える口承・伝承に頼っていた。そのため、ヨーロッパ大陸にいた陸のケルト人の歴史・文化・生活様式を知る手掛かりは、考古学的な遺跡・遺物を除けば、ユリウス・カエサル『ガリア戦記』をはじめとする古代ギリシア・ローマの人たちが書き残した書物しかないのである。『ケルト神話』にしても、ヨーロッパ大陸に居住していたケルト人の神話の詳細は不明であり、キリスト教が伝来して以降もケルト人(島のケルト)の宗教信仰の伝説・記録が保存された『アイルランド』に残されていたものである。

ローマ帝国に征服される以前から、ブリテン島には戦車に乗って鉄製武器で戦うケルト人の部族社会が存在していたが、紀元1世紀にイングランドとウェールズはローマの侵略支配を受けて、この土地のケルト人はローマ化していった。5世紀にゲルマン人がガリアに大規模な侵入をすると、ローマ帝国はブリタニア(現イギリス)の支配を放棄して、ローマ軍団を大陸に撤収させたが、この隙を狙って攻めた『アングロ・サクソン人(ゲルマン系の一部族)』がイングランドを侵略し、ブリテン島南部ではアングロ・サクソンの支配によってローマ文明の影響は次第に薄れていった。

ブリテン島の西部のウェールズまではアングロ・サクソンの征服が及ばず、ケルト人の言語が残ることになった。スコットランドやアイルランドは初めからローマ帝国の支配を受けていなかったため、よりケルト人の言語・文化・宗教・習慣などが色濃く残されることになった。イングランド西端のコーンウォールのケルト人はアングロ・サクソンからの侵略を受けて、大陸のブルターニュ半島(現フランス北西部。当時はローマ領アルモリカ)に逃げて『ブルトン人』としての民族アイデンティティを得ることになった。世界的にもよく知られている『アーサー王伝説』は、ブリテン島におけるアングロ・サクソンの侵攻とそれを撃退したウェールズ人(ブリトン人・ケルト系)との戦争を題材にして作られた伝説である。

古代ローマの将軍で実質的な皇帝(終身独裁官)になったユリウス・カエサルは、ガリア人(ケルト人)を残酷な生贄の風習を持つ好戦的で凶暴な野蛮人と見ていたが、ガリア人の宗教信仰や死生観のあり方について『ガリア戦記』でいくつかの記述を残している。例えば、カエサルの『ガリア戦記』にはケルト人の宗教信仰について以下のような記述がある。

『ガリア人(ケルト人)はみんな深く宗教を信仰していて、神々に生贄を差し出す風習がある。治癒を願う重病人、戦争・危険に立ち向かう者は、神々に人間の生贄を差し出したり生贄を差し出すという誓いを立て、僧侶がその犠牲の儀式を執り行う。』 『僧侶(ドルイド)が教える死生観は、霊魂の不滅を前提にしており、死によってこちらからあちらに霊魂が移るだけであるというものである。ガリア人たちはこの霊魂の不滅の信仰によって、死の恐怖を無視することができ、大いにガリア人の戦う勇気が鼓舞されることになるのである。』

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古代ケルト人の宗教は自然崇拝の多神教で、『ドルイド』と呼ばれる神官・僧侶が『宗教の祭祀・供養・予言・教育・裁判』までの一切を取り仕切っていた。特に紀元前の初期のドルイド僧は、政治的・社会的にかなり強い権威と実権を与えられていたという。ドルイドの予言の儀式では、人間の生贄・犠牲が捧げられる『人身供犠(じんしんくぎ)・人身御供(ひとみごくう)』が行われており、古代ローマ人はこの人間を犠牲にして神々に祈るケルト人の宗教的風習を野蛮なものと見なしていた。

ドルイドの神官・僧侶になるためには約20年の修行期間をこなさなければならず、ドルイドはキリスト教的な聖職者ではなく、秘法・魔術を習得して超自然的な能力を発揮することもできる『魔術師・シャーマン』のような存在でもあった。ドルイドの説いていた宗教教義では現世(この世)と来世(あの世)は連続的で行き来することもできるとされ、勇敢なケルト人は『輪廻転生+霊魂の不滅』を信仰することで死を恐れない勇気を奮い立たせていたという。死後の霊魂は消滅することはなく、他の人間や動物に乗り移って輪廻転生を繰り返すことになる。

またケルト人にとって『あの世・冥界』は暗くて恐ろしい場所などではなく、永遠不滅の霊魂が再びこの世(現世)に生まれ変わるまでの快楽的な休息の時間を過ごせる好ましい場所であった。ケルト人の想定した『あの世(冥界)』には時間がなく、永遠に肉体と精神は若いままであり、善悪の区別に遮られずに欲望を満たして快楽を得ることもできるのである。前述したように、あの世(来世)とこの世(現世)は地続きであり、自由に行き来することさえもできるのである。神様・英雄・妖精たちが人間と結婚することまでできる幻想的な世界として想像されていた。

ポンポニウス・メラやユリウス・カエサルは、ケルト人の戦闘における勇敢さや人命の軽視をケルト神話の死生観と結びつけて説明しているが、ケルト神話には『創世記的な神話がない・まとまった体系を持たない』という特徴がある。

ケルト人は人の頭部は『魂の住処』であり神性を帯びている(頭部だけでも存在が可能)と考えていたため、ケルト人の宗教には『人頭崇拝』の風習があった。ケルト人の戦士は『敵の首級(頭部)』を所有することでその人物の人格・魂を支配できるという信仰を持っていたので、戦争で勝ち取った敵の首級は門のような目立つ場所に飾られたり、神殿の供物・家宝として崇拝されたりもした。

アイルランドには4世紀頃にキリスト教が伝来し、聖パトリックの熱心な布教活動によってアイルランド全体がキリスト教化していった。6世紀末~8世紀頃にはゲルマン人もキリスト教化されていったが、アイルランドのキリスト教の聖職者たちは異教のケルト人の宗教にも理解を示し、ケルト人の詩人たちの伝説・伝承を保存してくれていたのである。アイルランドにおけるケルト系のキリスト教は、9~10世紀のヴァイキング侵入によって衰退してしまう。

主にアイルランドで伝承されてきた『ケルト神話』は大きく分類すると、以下の4つに分けることができる。

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