生物全般に共通する目的は、『自己保存・個体の生存維持』と『種の保存・遺伝子の継承』です。それらは、自己の生存を維持する“自己保存欲求”や子孫を存続させていく“遺伝子保存欲求”によって支えられています。
ヒト以外の生物は、基本的にこの遺伝子によって規定される目的から逸脱して、子孫を残さない生涯や自分の生命を断つ自殺といった主体的な選択をすることができません。
子孫を残さない人生や自分で自分の生命を奪って自殺してしまう人生が、倫理的に正しいわけではありませんが、遺伝子保存の放棄や自殺といった生物学的本能から逸脱する行為は、人間の精神の特殊性を象徴的に示している行為ではあるでしょう。
つまり、人間は「自由意志」を所有していて、自分の人生を自らの価値観や信念によって主体的に選び取り、遺伝子の専制支配としての生物学的宿命に対して抵抗することができるという人間観を示唆しています。
人間精神の特殊性とは、生命が終息するその瞬間まで、自由意志による選択可能性に向けて開かれていると思えることでしょう。生命を維持している限りは、自らの価値や目的を志向してあらゆる選択を行う可能性があるというように感じる人は多いのではないでしょうか?
そのことに思いを馳せれば、自己の生命の終焉を人為的に早める自殺行為は、賢明で適切な自由意志の選択による行為とは判断できないでしょう。
人間の生きる意味の大半は、『意志・思考・信念・行為が、“未来の選択可能性”に向けて開かれていること』にあると私は考えています。
機械的世界観によって、観察可能な現象から生物の行動メカニズムと生命の存在意義を解明しようとした動物行動学者リチャード・ドーキンスは、『利己的な遺伝子(The Selfish Gene)』(1976)において『生物個体は、利己的な遺伝子を永続的に継承させていく“遺伝子の乗り物”であり、遺伝子保存を究極目的として盲目的な行動をとるプログラムされたロボットである』という極端な唯物論に根ざした見解を示しました。
ドーキンスのこの利己的な遺伝子の学説は、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859)によって提示された自然選択(自然淘汰)や突然変異による環境適応の為の進化の前提及び集団内の遺伝子発現頻度を数理的に解析するネオダーウィニズムを踏まえたものです。
W.D.ハミルトンが『社会的行動の遺伝的進化』の論文で研究した血縁進化説(血縁淘汰説)を支持するものでもあります。W.D.ハミルトンの血縁進化説(血縁淘汰説)というのは、動物は基本的に利己的な行動を取るが、自分の子どもや血縁者などに対しては、自分の不利益や危険を顧みず相手(血縁者)の利益や安全の為の利他的行動を取ることがあるという事に注目した仮説です。
『生物は、遺伝子保存という目的の為に、個体(自分)の不利益や損失という犠牲を払っても、自己と近似した遺伝子の持ち主(血縁者)を援助し保護する行動を取る傾向があり、その“血縁者に対する利他主義”は、結果として進化適応上、有利に働く』というのが血縁進化説です。
血縁進化説は、自己及び自己と近似した遺伝子の存続可能性を高め、集団内での発現頻度を高めるというメリットがあるから、集団内に血縁者に対する利他行動を取る遺伝子が増えるという事を意味しています。
即ち、『生物は個体単位で利己的なのではなく、遺伝子単位で利己的であること』を示しています。生物個体は、有限の生命を持ちいずれ死ぬべき運命にありますが、遺伝子情報は、繁殖戦略が成功し続ける限り永続的に存在する可能性があります。
人間以外の動植物は、遺伝子に規定される生得的な本能的行動により、有性生殖や無性生殖(単為生殖)を行って自己の複製子である遺伝子を次々に増殖させようとします。
外部から動植物の生命活動や行動パターンを観察していると、確かに生物の生存意義は『結果として自己の遺伝子を保存すること』にあるように思えるかもしれませんし、自然科学的には遺伝子保存の目的というのは一つの事実です。
しかし、人間は、『私』という特殊な自我意識を持ち、自由意志による行動選択に向けて開かれています。そのため、『遺伝子に支配される盲目的な複製機械』というドーキンスの仮説に基づくメタファーを当てはめるのは妥当ではありません。
私達の人生は有限であり、私達の生命が持続する期間は、生物の進化史や地球の地質年代から見れば儚く短いものです。しかし、有限であるからこそ人生は貴重であり、『私という自我意識』がこの地上に二度と再現することがないからこそ価値があるという認識をすることが出来ます。
宗教的信念を持っている人であれば、キリスト教やイスラム教が説く霊魂の不滅性や仏教が説く生命の輪廻転生を信じることが出来るかもしれません。そうであっても、現在の自分の記憶・感情・意志がそのまま永続的に存在し続けると考えることは難しいでしょう。
唯一無二の私達の人生と生命の最大の特徴は、『固有性と一回性』であり、私以外に私の意識を所有する他者が存在できないという事です。
ただ一度しかこの“私の意識を有する人生”が無い事を深く自覚する時、フリードリッヒ・ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』で語った運命愛の悲哀と感動を呼び覚まされます。
現在の人生が無限回繰り返される“永劫回帰”の世界に耐える“運命愛”を持つ事によって、私達は有限の人生の虚無や無意味さから解き放たれる事が出来るのかもしれません。
前の記事で、結婚の対象である異性を選択する際には、一般的な傾向として、男性は年齢の若い女性を選択しやすく、女性は年齢へのこだわりが弱いか、やや年上の男性を選択しやすい傾向がある理由として『生物学的生殖戦略説』と『公平理論』を挙げました。
今回は、遺伝子の継承と人生の意義という話に重点が移ってしまいました。生物学的生殖戦略説とは、『自己の遺伝子を如何に確実に効率よく後世に残すかという生物学的目的によって配偶者を選ぶとする説』です。
この仮説では、若くて健康な美しい女性が男性に好まれるのは、より優秀な形質を備えた健康な子孫を残せる可能性が高いからということになります。
簡潔に言えば、第二次性徴期を迎えて性的成熟期にある女性には、高い生殖可能性がある為に配偶者として選ばれ易く、閉経を迎える直前あるいは閉経後の女性は、生殖可能性がない為に選ばれ難いという生物学的観点からの説明となります。
『公平理論』というのは、男性と女性がそれぞれの魅力や特徴を相互に交換するという実利的な経済学的観点からの配偶者選択に関する理論です。人間は一般的に『自分が相手に与える魅力・報酬・利益と自分が相手から受け取る魅力・満足・利益とがほぼ同質均等である場合に納得して恋愛関係や結婚関係を結び易い傾向』があります。
公平理論によると、『自分の仕事量や能力・魅力のレベルとそれによって受け取る報酬の比率が、他の恋愛関係や結婚関係と比べて等しいかどうか』という経済学的な利益考量の視点から、恋愛や結婚の相手の選択を考えます。
つまり、男性(女性)の社会的権力や経済的利益が、女性(男性)の身体的魅力や年齢の若さとほぼ等価で同等なものと考えられる時に、違和感や抵抗を感じずに相手を選択するというのが公平理論であり、公平理論によって外見的魅力がほぼ同じ水準にある者同士がお互いを相手として選択することも説明できます。
しかし、こういった理論は、恋愛や結婚の相手選択を結果からの分析で求めたものであり、リチャード・ドーキンスの利己的遺伝子仮説が結果としての遺伝子保存に注目しているのと同様に、『恋愛や結婚の過程にある人間関係から生起する喜びや感動』といった情緒的側面をやや軽視しているという反論をすることが出来るでしょう。
自分の精神内面において本当に大切で魅力的と思える相手を選択し、相互的な信頼関係や愛情関係を築き上げながら、一緒にかけがえのない人生の時間や生活の空間を共有できることこそが、恋愛や結婚の本質的価値であると思います。
執筆日:2005/03/29