「家庭・学校・職場・社会」などの社会的環境で、私達は多くの人の多種多様な行動・発言・態度・振る舞いを目にして、その人がどのような人間であるかを推測する手がかりを得ています。
それは、外部から観察可能な相手の“行動・発言・態度・振る舞い”の原因が、相手の内面的特徴である“性格・動機・意図・価値観”にあると考える傾向が私達にはあるからです。
相手に対して、威圧的で攻撃的な態度や暴力的な振る舞いを頻繁に取る人物が、何故、そういった態度を取るのだろうかという事を考える時には、一般に、行動の内的原因を思い浮かべることが多くなります。
その人の性格傾向が、相手に対して支配的で命令的なものであるからそういった高圧的な態度を取るのだろうとか、その人の動機は、威圧して脅すことで自分に対する恐怖心を植え付け、相手に思い通りの行動を取らせることにあるのだろうというように、『相手の明示的な行動→相手の内面的な原因』という類推が働く事になります。
人間の行動の原因には、上記したような『内的原因(内面的な意図・動機・性格・価値観・世界観)』だけではなく、『外的原因(外部的な社会環境・家庭環境・経済状況・危機的状況・生理的反射)』もあります。
しかし、『失業してお金に困ったから強盗をした』という外的原因があったとしても、『生活と生命を維持する為のお金が欲しくて強盗をした』というような内面的な動機・意図を想定することができ、同時に内的原因を推測することもできます。そのため、内的原因と外的原因を完全に切り離して考える事は出来ません。
『あの人は、他人に対する配慮や思いやりに欠けていて性格が歪んでいるから、簡単に人を傷つけるような悪口や暴言を言い放ったり、暴力を振るったりするのだ』という対人評価は、行動の原因を全て内的原因に還元したものです。しかし、その表面的に観察できる行動の背景には、両親が不仲でいつも家庭内で暴力や罵倒が飛び交っていて、家庭に落ち着ける居場所がなくその人の精神状態が不安定なものになっているというような外的原因が潜んでいるかもしれません。
一般的に私達は社会生活の中で、相手の個人的な生活環境や対人関係の詳細を知ることは出来ませんし、また、それほど親密な相手ではない人に対してそこまで深く相手の事を知りたいという欲求や好奇心を覚える事もありませんから、行動の原因は内的原因へと還元されやすくなります。
社会心理学者ハロルド・H・ケリー(H.H.Kelly)の『帰属理論(attribution theory)』によると、私たちは人間の行動や物事の原因を、大きく分けて3つの要素に還元する傾向があります。
「帰属理論」というのは、行動や物事の原因をどの要素に還元するのかを説明する理論のことです。
宗教的要因というのは、熱狂的で敬虔な信仰心を持つ宗教者や信者に特有な原因帰属の型ですが、特定の宗教宗派を信じていなくても『これは、私の力ではどうすることも出来なかった運命的な出来事だったに違いない。これは、必然的な結果であり、私は結果が良くても悪くても、この結果を受け容れるより他にはない』というような決定論的な世界観を持っている人は宗教的要因に原因を求めやすくなると言えるでしょう。
自分の自由意志による選択の可能性を考慮に入れず、自分の行動によって状況を変化させられる事を無視するような原因帰属が、宗教的要因への還元ということになりますが、一般的には、行動や物事の原因は個人的要因や環境的要因に還元されることになります。
行動や物事の原因がどこにあるのかを考える場合に、自分自身の性格・能力・努力・考えに原因があると考える人、即ち、個人的要因に物事の因果関係を求めやすい人は、『物事に対する責任感が強く、自分の行動や振る舞いを変える事によって結果が変わると考え、懸命に努力して能力や技術を高めれば問題を解決することが出来る』といった基本的な状況認識と因果関係の理解を持っていると言えます。
一方、行動や物事の原因を、自分以外の他人の性格や行動に帰属させたり、社会環境や経済情勢、家庭環境などの外部環境に求める傾向のある人、即ち、環境的要因に物事の因果関係を求めやすい人は、『自分の能力や努力によって、物事や状況を良い方向に変えていくことは難しいと考え、自分が置かれている環境によって結果が決まってくる。そして、偶然や運といった環境に内在する不確定な要素によって、成功したり失敗したりするのだ』といった基本的な状況認識と因果関係の理解を持っていると言えます。
ここまで、行動や物事の結果の原因を何処に求めるかを見てきました。社会通念としての自由の保障に伴う自己責任を重視する多くの人は、『個人的要因に原因を求めやすい人は、自分の人生の原因は自分にあるという自覚があり、物事に対する責任感が強くて、社会的に自立した考えである。良い結果を出す為に、絶えず前向きに努力して能力を高めていこうとする姿勢は、望ましいものである』と考えるでしょう。
そして、『環境的要因に原因を求めやすい人は、自分が負うべき責任を他人や環境に責任転嫁して、反省や努力につなげようとする意志が乏しい。全ての責任を外部に転嫁していたら、自分の人生を良い方向に導いていく為の努力や試行錯誤につながらないから、望ましいものではない』と考えるかもしれません。
確かに、一般的に、不幸や失敗の原因を個人的要因に帰属させる人は、『自分の幸福な人生を自分の能力・努力によって切り開いていこうとするポジティブな努力家であり、自分の行動による結果の責任を進んで負うという自律した責任感の強い人物』であることが多くなります。
環境的要因に不幸や失敗の原因帰属をする人は、『自分の苦境や失敗を他人や環境が原因であるとする責任転嫁が見られ、自分の行動や努力によって状況を良い方向に変化させていこうとする建設的な態度が欠けたネガティブで無気力な人物』であることが多いのですが、一概に、(詳細で綿密な状況分析や物事の因果関係の調査をせずに)“個人的要因への帰属”と“環境的要因への帰属”のどちらが正しくて、どちらが間違っているのかを断言することは出来ません。
それは、本当に、本人の意志や努力に基づく行動によってはどうすることも出来ない種類の不幸な出来事や悲惨な結果が、この世界には存在するからであり、自分の力ではどうすることも出来ない物事に対して、必要以上に自分を責めたり、強い罪悪感を感じて落ち込んだりする事によって精神的な安定や健康を失ってしまうこともあります。
『自分の能力や注意が不足していたから、こんなひどい事になってしまったのだ。自分が気をつけてさえいればこんな悲惨な事件に巻き込まれなかったはずなのに、全ての責任は自分にあるのだ』といった個人的要因への原因帰属を全ての物事に対して行うことは、自分の自尊心を不当に傷つけ、持続的な無力感や憂うつ感へとつながっていく恐れもあります。
具体的な例でいえば、レイプ、強制わいせつ、セクハラなどの自分に責任のない性犯罪、集団暴行、リンチ、いじめなどの不当な集団的圧力や暴力、地震、台風、火事などの予測困難な不慮の事故などに対しては、卑劣な犯罪者や理不尽な加害者、自然現象へと原因帰属することが適応的であり妥当であるという事になってきます。
物事・行動・出来事の具体的な内容を詳細に分析していく中で、何処に原因を求めるべきなのかを適切に判断し、自分の心を必要以上に傷つけたり、貶めたりせずに、苦悩や絶望を緩和していく方向へと物事の原因を求めていくべきでしょう。
心的外傷(トラウマ)に発展するような深刻な出来事が起こった場合には、本来、感じる必要のない罪悪感・不安感・抑うつ感などを出来るだけ感じないで済むような原因帰属をしていくこと、周囲の温かい対応と共感的な深い理解が必要となってきます。
物事の原因帰属を考える場合に、私達が忘れてはならないのは、『客観的な真実としての原因を特定することは出来ない』という事であり、私達が原因だと思い込んでいる要因の殆どは『心理過程と状況認知によって作り出された原因』に過ぎないということです。
その傍証の一つとして、私達は自分自身の不幸や失敗を『他人や環境が悪い、社会や政治が悪い』という環境的要因に還元しがちなのに、他人の不幸や失敗を『あの人の努力が足りない。あの人の認識が甘いのだ』という個人的要因に還元しやすいというある種の利己的な原因帰属の傾向が見られるということも挙げられます。
真実の原因を強引に探求するよりも、自分を必要以上に苦しめない原因帰属、相手を不当に傷つけたり追い込んだりしない原因帰属を心掛けていく事が現実的な対処ということになるのかもしれません。
元記事の執筆日:2005/03/22