『死の概念の混乱と死の現実の錯誤』を生み出す無痛化の快楽主義を内在した現代文明社会

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子ども達の中に、『死んだ人間は生き返る事がある』という『死の概念についての誤った認知』を持っている子がいるという事実に、多くの大人は驚愕し、『死者は蘇生しない』という共通認識が成り立たない一部の子どもに対する根源的な不安を覚えました。

報道される凶悪な少年犯罪と死の概念の錯誤を結びつける言説が出てきたり、幼少期からゲームをやり過ぎると前頭葉の発達が疎外されるという怪しげな“ゲーム脳理論”が世間に吹聴されたりしました。

子どもがゲームを長時間やり過ぎると、理性的判断や創造的思考、欲求・衝動の制御を司る前頭前野の発達に問題が起きて、衝動性や攻撃性が高まりやすいというのが一時期有名になったゲーム脳理論です。

しかし、この理論には、追年調査をした十分な分量の客観的データや検証可能な形での統計学的根拠がなく、現段階では、科学的根拠に乏しい擬似科学の域を抜け出ていないと言えるのではないかと思います。

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しかし、ゲームやインターネットの仮想現実世界に過度にのめり込んで没頭し、誰とも実際の会話や交流をしない生活状況が長く続けば、対人コミュニケーション能力が低下して、現実世界の仕事や勉強に適応し難くなるといった行動上の問題が生じることはあるかもしれません。

また、一切、誰とも会いたくないし、話したくもない、異性との関係にも何の興味もないという『人間関係の極端な回避と拒絶・友人関係の断絶と孤立・冷淡さや感情麻痺・自閉的無関心』があまりに長く続く時には、ゲームとは別の精神的な問題(うつ病など気分障害・社会性不安障害・回避性人格障害・統合失調質人格障害etc...)を抱えている可能性もあると思います。

しかし、そういった抑うつ的な意欲の減退・無気力が前面にでてきて、社会的活動(仕事・学業・就労活動・職業訓練)への過度の無関心、対人関係の回避や拒絶が見られる場合には、相手を問い詰めたり責めるのではなく、まずしっかりと相手の気持ちに沿って話を聞いて上げる事が大切になってきます。

すぐに、常識的な価値観に従って、相手の態度や意見を否定的に批判したり、無気力でやる気がない事を叱ったりする人もいますが、本人の心理的な苦悩の改善や行動力の低下の回復などにとっては逆効果でしかありません。

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ゲームやネットに直接的な有害性はなくても、誰とも接触せずに、一日の時間の大部分を、仮想世界での空想や遊戯に費やしている状況が長期間継続すれば、現実と空想の境界線が揺らいだり、外部世界や人間関係に対する興味関心が弱まるといった弊害が生まれる可能性は確かに完全には否定できません。

とはいえ、常識的な時間の範囲内で、通常の社会生活を営み、家族や他人とのコミュニケーションをとったりしながら、ゲームやネットをするのであれば、特別に有害な影響を心配する必要はないと思います。異常性や病理性の原因の全てを、現代文明社会の新奇な発明品や娯楽に求めることは出来ませんし、進展する科学技術や複雑化する経済社会からの心理的社会的ストレスや技術がもたらす倫理的問題なども無視する事は出来ません。

個人の内面心理や基本的価値観・欲求の志向性といった個人的要因が異常性や病理性の原因になっている場合もありますし、家庭環境や社会環境から受ける環境的要因や高度化していく経済社会でのアイデンティティ確立の困難が原因となっている場合もあります。

死の概念の錯誤に関する話から、少し、精神医学的な現実検討能力の問題へと脱線しましたが、一部の子ども達の間で、“死の概念の混乱や死の現実の錯誤”が見られる事の原因として、ゲームやマスメディア、ネットといった身近な生活環境の要因以外に、現代文明社会特有の快楽主義の性質を挙げる事も出来ます。

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高度に発達した資本主義経済システムが実現した豊かで便利な物質文明社会は、どのような人間の欲望や希望に動機付けられてつくられてきたのでしょう?18世紀以降、産業革命を経験した近代国家が勝ち取った『生活水準の向上と科学技術の進歩』の内実とはどのようなものだったのでしょう?

この質問に、正確に答える為の広範多岐にわたる知識を私は有していませんが、物質文明社会の進展がまず目指したのは“窮乏・欠乏からの離脱”だと言う事が出来るでしょう。産業革命以前の社会は、圧倒的なモノ不足の社会であり、食料も不足していて全ての人が満腹になるまで十分に食べることが出来ない社会でしたから、まずは生存を維持し活力を高める為の食欲を十分に満たすという欲望から文明の発展は促進されたと推察されます。

そして、鉄道や道路の整備、自動車の発明普及、石油資源の有効利用といった重化学工業の発展を通して工業の世紀が花開き、私達は『徒歩での移動の苦労から解放』され、『気候の変化による寒暖の不快から解放』されました。マシンガンや大砲などの重火器を使用した効率的な戦闘活動や核兵器や生物兵器といった大量破壊兵器の開発が人類にもたらした災厄や恐怖も、文明社会の『豊かさと安楽への果てしなき欲望』が生み出したものだと解釈することが出来るでしょう。

巨大な金融資本の登場や株式会社制度の出現と加速する技術革新によって、あらゆる領域の生産力は上昇していきます。市場経済の規模は飛躍的に拡大していき、商品やサービスの流通は豊かになり、それまで商品やサービスの購入に余り積極的でなかった経済階層の人たちも盛んに経済活動をし始めました。

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高度な経済成長による豊かな生活水準の実現を成し遂げた日本やアメリカその他の先進国に住む人達の多くは、『欠乏・不足・困窮の離脱と克服』といったマズローの欲求階層説でいう生理的欲求の充足を目的として行動することがなくなりました。

このポストモダンに関する経済活動の話はまたいつか詳しくしたいと思いますが、十分に経済が発展した国々では、『他者に優越する為の差異化』『他者からの注目・羨望を集める為の個性化』を目的として、ジャン・ボードリヤールが語るように『記号としての商品』を消費するようになっていきます。

つまり、実際に食べたり、利用したり、遊んだりといった『モノとしての有用性』以上に、他者が持っていない、買う事が出来ないほど高級である、珍しく稀少であるといった『記号としての差異性』に人々の興味や欲望が集まるようになりました。

ブランド物の衣服やバッグには特別な有用性はありませんが、他者とは異なる自分を演出してくれる記号としての価値があるために少なからぬ需要が生まれ、法外な値段でも納得して消費者が購入します。

高額な高級車や贅沢なレジャー、優雅な娯楽を購入するケースでも、商品・サービスそのものに内在する価値に対して対価が支払われているというよりも、相対的な価値(金額)の序列構造での『記号性(ステイタス)の評価』に対して対価が支払われていると考えられます。

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そういった意味では、現代社会におけるファッションを中心とする経済活動は、自分自身の欲求するモノやサービスに対して魅力を感じるというよりも、大多数の他者が欲求し評価するモノやサービスに対して魅力を感じる“他律的な消費活動”が主流になっていると言えるでしょう。

その根底にあるのは、『他者に素晴らしい価値ある存在として認められたい』という承認欲求であり、自分が他の誰とも異なる固有の『私』であることを消費活動を通して確認したいという『市場経済を介在した自己実現の欲求』であるとも言えます。

『死の概念の混乱・錯誤』と産業文明社会の関係について述べる為には、情報科学技術(IT)のイノベーションや先端医療技術とバイオテクノロジーの目覚しい進歩がもたらした成果について触れなければなりませんが、ここでは簡単に説明したいと思います。

明るくて健康な国民が生活する豊かで便利で楽しい社会という建前を取る現代文明社会では、“快楽や喜びを永遠に喪失する死”は、最も回避すべき絶望的な現象であり、出来れば目を背けていたいタブーに属する出来事でもあります。

『病気や怪我による苦痛・不安、健康や財産を失う悲哀・落胆、死を迎える間際の絶望や苦悩』といったあらゆる人間世界の不幸な出来事や苦悩に塗れた感情を、文明社会は様々な装置やシステムによって日常生活の場から隠蔽しようと企てます。

国民に均質で画一的な情報を伝える大量情報伝達のシステムであるマスメディア(テレビ・新聞・雑誌)も、基本的に、『死・病気・障害にまつわる不安や恐怖』よりも、明るく楽しい大多数の人々が求める娯楽的な情報を伝えようとします。

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社会に存在する死の現実、病気や障害による苦痛・不自由の悲惨さを、文明社会は最大限の配慮をもって、日常の生活文脈から隠蔽し排除しようとします。 文明社会では、新しい生命の誕生と老いた生命の死の瞬間が、家庭・学校・会社といった一般の社会環境で訪れることはなく、文明社会における人間の誕生と死の殆どは外界と隔絶した病院施設の内部において密やかに行われます。

出来うる限り、多くの人が、死の瞬間や死の現実の場面に立ち会わないでいいように、現代社会は巧妙かつ合理的にデザインされ計画されています。病気の治療と死の現実の受容を専門的に取り扱う閉鎖的な病院施設の内部において、文明社会の構成員の大部分の死が看取られていきます。

死にゆく者と親しかった者の多くは、その人の死の瞬間に立ち会う事はないでしょうし、死へと向かう過程を克明に見続けることもないでしょう。また、多くの人は、病気や老衰によって次第に衰弱していく姿を見つめ続ける恐怖や苦痛から目を背けたくなり、死の現実が到来する迄のケアを病院や医師・看護師に委任したい気持ちに駆られます。

文明社会を構成する人の死は、現実の社会環境の中で隠蔽され、極一部の医師や親族のみに見守られて、いつの間にか死の時を迎えます。そして、社会そのものは、どれだけ多くの死の現実が病院や家庭で起ころうと、日々、はじめから何事もなかったかのように発展や成長に向かって機能し続けます。

かつて、世界中のあらゆる地域で見られた戦争・飢饉・伝染病・暴動などの直接的な死の場面を目撃する機会が殆どない幸福な現代文明社会の内部では、死を実際の感覚的経験として実感する機会が極端に減っています。この事自体は、人間の知性と政治、科学技術の素晴らしい成果の賜物であり、望ましく良い事なのですが、その結果として、現代人の日常生活から生々しいリアリティのある死の現象を観察する機会は事実上なくなりました。

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その事が、前述した子どもの死にまつわるアンケートに見られたような一部の人々の『死の概念の混乱・死の現実に対する錯誤』を生み出す遠因となっているのかもしれません。

現代社会に生きる多くの人々は、生命の一回性や有限性、死がいずれ訪れる運命であることを知ってはいますが、自分自身の問題として現実的に実感しているわけではないでしょう。

つまり、死の概念や現実を、実際的な経験に基づいて理解することは現代社会では困難であり、観念的な知識や概念的な了解として理解しているに過ぎない場合が殆どであるという事です。無論、死そのものを自分が実際に経験してその内容を伝える事は不可能ですから、どんなに大勢の人の死を目の前で看取った人であっても、自分自身の死についてだけは経験的に理解することは出来ません。

自分の死の現実を理解する場合には、他者の死と自分の死との置き換えやアナロジー(類似性)を用いて共感的理解をしたり、観念的推測を行ったりするしかありません。そういった自らの死に思いを馳せると、死の概念の経験的理解の不可能性や死の理解の形而上学性が浮き彫りとなってきます。

高度に発達した物質文明社会の運営原理の根幹、あるいは、医療や情報分野の技術革新が推進する知的な人類の理想は、『あらゆる苦痛や苦悩を人間から取り除き、完全に制御された快適至極の人工的生活環境を整備すること』だと考えられますが、苦しみや痛みを感じる能力や機会を完全に喪失した人生の中に今までと同じような幸福や生命の価値が宿るかどうかはかなり疑わしいと思います。

死に対する我々の態度ほど、我々の思考と感情が原始時代から変化しなかった領域はない。……我々の無意識は、今でも昔と同じように、自分自身が死ぬ事をほとんど表象し得ないでいる有り様である

シグムンド・フロイト『不気味なもの』

フロイトの生物学的な生命観に基づけば、生の本能であるエロスは、死の本能であるタナトスに最終的には押し負かされますが、有機的な生命は有限であるからこそ、現実世界を直視して、死の原始的不安を乗り越え、自分固有の意味や価値を求める過程に喜びや感動を見出すことが出来るのではないかと考えます。

元記事の執筆日:2005/04/06

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