孔子が最も深く敬愛した周の周公旦の大政奉還の故事

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孔子が理想とした治世は、西周時代(B.C.11世紀-B.C.770)に実現されていたとされる仁と礼による徳治主義に基づく治世であり、孔子が最も深く尊敬した聖人君子は、周の武王を補佐した周公旦である。

孔子の仁と礼を基盤に置く政治思想と社会秩序の根底にある君臣の忠義を理解するには、周王朝の草創期において比類なき功績を残し、君臣の義を踏み外さなかった武王の弟・周公旦という人物を知る必要があるかもしれない。

周は、その権威が中国全土に及んでいた盛期の西周(首都・鎬京)と衰退期の東周(首都・洛邑)に区分される。

西周(B.C.1046頃-B.C.771)は、商(殷)王朝で、愛妾に溺れ悪政を行った暴虐な君主・紂(帝辛受)を周の武王が討伐する『殷周革命』によって成立する事となる。中国の歴史に登場する暴虐の限りを尽くした暴君の政治や振る舞いはどれもステレオタイプなもので、その中でももっとも典型的な暴君が、夏王朝の桀と商王朝の紂である。

どちらも、酒池肉林の奢侈で豪華な暮らしに溺れ、財政を傾けるほどの贅沢三昧な堕落した生活を続ける暗愚な君主として描かれている。更に、民衆に重税を掛けて虐待したり、自分の意向にそわない諫言をする家臣を残酷に粛清するのだが、それら暴君には美しく残酷な趣味を持つ愛妾(桀には末喜、紂には妲己、周の幽王には褒)が必ずいるといった塩梅である。

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桀や紂が、本当に残虐非道で何の取り得もない暴君であったというのは史実とは違うようだが、絶えず歴史は後の時代の政権や支配者に有利な方向へと歪曲される傾向があるという事だろう。

紂などは、強靭な肉体と抜群の運動神経に恵まれ、武勇に優れているだけでなく、聡明な知性を持って弁論の才能にも秀でた英邁な君主で、国政の綱紀粛正を企図としていたとする正反対の説もあるようだ。

いずれにしても、桀と紂に関する逸話は、最終的に、名軍師に支えられた有徳の君子に打ち倒されるといった顛末に至るまで類似している部分が多すぎるという指摘があり、桀のほうは後世において紂に似せた形で話が創作されたとする意見もある。

周が殷を討伐した殷周革命とは、中国史上初の易姓革命、即ち、天命が革まって天下を治める君子の姓が移り変わるという革新的な出来事であった。易姓革命とは、天命によって拝受した天下統治の権限が、君主(天子)の不徳や民衆を苦しめる悪政によって移り変わる事であり、天命が改まれば、天下を治める権利も他の姓(家)へと代わる事になる。

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易姓革命は、儒家の政権交代に関する政治思想の基本的概念であり、天下国家を統治する天子(君主)は、天命によってその統治の正当性を保証されているとする考え方である。中世ヨーロッパで、国王による国家統治を正当化する理論として考案された王権神授説も、神の権威によって国王の権力を承認する形をとっていて易姓革命と類似している。

易姓革命の根本にある天の権威とキリスト教世界にある神の権威は、どちらも『超越的存在者・形而上学的概念』であり、目に見えない、触れる事の出来ない概念や観念によって、権力の正当化を図る構造を持っている。

軍師の太公望呂尚と弟の周公旦に補佐された周の武王は、牧野の戦いで商の紂王(帝辛)を打ち破って周王朝を樹立するが、建国後間もなく武王を逝去する。

その後に、王位を継承したのは、未だ幼少で無力な成王だったが、武王の弟・周公旦が摂政として幼少の王・成王を補佐して、各地で勃発する殷の残存勢力の反乱を鎮圧し、周王朝の権威を中国全土に拡大させる活躍をした。

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周公旦は、周王朝の家臣の中で、抜群の才智と実力を兼ね備えた人物であり、周王朝の安定と維持は彼なくして有り得なかったとされるほどの天下にも稀有な逸材である。

聡明さと勇敢さを併せ持つ周公旦は、中国全土の東半分の統治を委任されて、その権力は周王朝を凌ぐほどの絶大なものとなっていく。外敵の襲来や反乱謀反を次々に鎮めていき、余人を寄せ付けない七面八臂の活躍を続ける周公旦へと信望と名声が集まっていき、ますます周公旦の権力と威勢は強まり、周の成王の存在感は弱くなっていく。

その時、西方の周王朝の周辺にいる者が噂をし始めた……『若しかしたら、圧倒的な軍事力を持つ周公旦は、周の成王を裏切って独立し、王位を簒奪するのではないだろうか?』という強大な周公旦に対する謀反の懸念である。

このような疑念や不信は、普通の野心や欲望を持つ人間にとっては当たり前の疑念であり、王位に就きたいというのは、権力や地位に対する執着がある人間には抑えがたい欲求であろう。実際、その疑念が囁かれた時に、周公旦が王位を本気で奪取したいと欲求すれば、周公旦は、圧倒的な実力と名声によって、簡単に周王朝の王として君臨することが出来ただろう。

しかし、周公旦は、自分が決して王位を簒奪する意志などない事を示す為に、その噂が聞こえてきた途端に、何の逡巡もなく自らの政治的地位と政治権力を成王に返還した。

つまり、どれほど強大な勢力をもっていようと、自分はあくまでも成王の家臣であり、王が望むのであれば全ての権力と軍勢を手放し返還することを躊躇うものではないという忠義を明らかにしたのである。

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『周公、政を成王に反し、北面して群臣の位に就く』

史記 周本紀より

有子曰はく、其の人と為りや、孝弟にして上を犯すを好む者は鮮なし。上を犯すを好まずして乱を作すを好む者は未だ之れ有らざるなり。君子は本を務む、本立ちて道生ず。孝弟なる者は、其れ仁を為すの本か。

【私訳】

有子(有若)はこうおっしゃった。『その人格が、親に対して孝行を尽くし、兄姉に対して敬意を抱くものであれば、上位者と不当に対立するものは少ない。上位者に取って代わることを好まない人で、戦乱や無秩序を好む者は、いまだ存在した試しがない。有徳の君子は、根本的な事柄を実践しようとするものである。根本的な事柄がしっかりと成り立てば、自ずから正しき道が開けてくる。親に孝行し、兄姉に従順であることが、仁(他人に対する思いやり)の根本である。 』

これが、大政奉還という故事成語の寄って来るところであり、実力行使で下克上を行わず、本来あるべき場所に権限を返還するという高潔な忠義、礼節を踏み外さない態度に対して、孔子は深い尊敬の念を抱いたのではないかと思われる。日本の倒幕の熱狂が高まる江戸時代末期に、後藤象二郎や坂本竜馬が考案した江戸幕府の朝廷への大政奉還も、この故事来歴を元にしたものとされている。

もちろん、現代社会における倫理観や正義、合理性と周の時代の忠孝は矛盾する部分も多く、現代では明らかに間違っている意見を言っている場合には、相手が両親や目上の人物、社会的に上位の人であってもそれに追従することは正しいとは言えない。

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更に、実力や能力の優れた者が、年齢や経験と無関係により上の地位や立場に就くことも、必ずしも間違ったこととはいえず、現代の倫理学的視点からは単純な選好の差異(年齢・経験を重視する評価が好きか、実力・才能を重視する評価が好きか)に基づく判断といえるだろう。

孔子が敬愛した周公旦の大政奉還の故事から学べることがあるとすれば、自分が好意や敬意を寄せている人物が、困窮して苦しんでいる時に、その相手を切り捨てたり裏切るというのは人間として余りに寂しく悲しいという事であり、相手が困った時にも以前と変わらない尊敬や愛情を持ち続けて、支援することができる人間心性の美しさを伝えんとしているのではないだろうか。

人間関係や社会生活の全てを、利己的欲求の実現や利害関係による技術的な取り引きにしてしまうのではなく、過去の人間関係で取り結んだ敬愛・信頼・恩義を忘れずにそれを守り続けるところに、人間特有の情緒的関係性の素晴らしさや魅力があるように思える。

元記事の執筆日:2005/04/11

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