あらゆるカウンセリングの基本的前提として、相互的な信頼と尊重に根拠付けられる人間関係があり、この肯定的で建設的な人間関係を“ラポール(ラポート)”と言います。
面接場面で繰り返される心理的問題や症状に関する対話と率直な感情交流を繰り返す過程において、ラポールは段階的に構築されていきますが、その際に重要になってくるのがカウンセラー側の真摯な傾聴に基づく共感的理解と無条件の肯定的受容と尊重です。
カウンセリングにおけるカウンセラーとクライアントとの人間関係は、日常的な人間関係とは明らかに異なりますが、その象徴的な特異性は、無条件の肯定的受容と積極的な人格の尊重にあると言えるでしょう。
クライアントが面接中に、どのような非常識な話題を選択しようとも、社会的に一般に受け容れ難いような欲望や嗜癖を表現しようとも、あるいは、道徳規範に背くような反社会的な発言や過去の暴露をしようとも、基本的に(殺人、強盗等の刑法規定に違背するような場合や直接的なアクティング・アウトの暴力等を除いて)、“審判的な価値判断”や“批判的な責任追及”などを行うことはありません。
一般的な人間関係においては、常識的な価値判断から好ましくないとされる事柄について『批判的な反応や否定的な態度』が返される可能性がありますが、カウンセリング場面ではクライアントの苦悩や問題につながる“行動・思考・感情・認知のパターン”の洞察や変容を各種技法を適用して促すことはしても、支持的で肯定的な基本姿勢を崩すことはありません。
カウンセリングには、来談者中心療法、精神分析、交流分析、論理療法(論理情動行動療法)、認知療法、行動療法、認知行動療法、催眠療法、各種表現療法(アートセラピー)、内観的な自律訓練法など無数の理論体系と技法実践が存在しますが、どの理論を前提にしていようと、カウンセラーとクライアントの間に良好な安定した人間関係が結ばれなければその技法の効果を十分に発揮することは出来ないでしょう。
カウンセリングにおける人間関係の概略を粗描したが、では、そのラポールを構築した人間関係としてのカウンセリングが目指すべき地点は何処なのかと言えば、各種理論体系によって若干の差異はあれど『改善的な心理・行動・態度の変容と環境不適応の改善』といった事柄に最大公約数的な目的が置かれる事になるでしょう。
心理療法的な側面の強いカウンセリングであれば、憂うつ感や無気力、倦怠感、不安感、緊張感、睡眠障害、摂食障害、パニック、強迫観念、強迫行為、自傷行為、嗜癖(依存症)、解離性障害、人格の歪曲(人格障害)などの『精神障害(心身症状)の緩和と治癒』に焦点が移りますが、精神症状の緩和や抑制も広義の心理的変容と行動的変容に該当します。
カウンセリングでは精神の正常性や異常性などの二元論的な精神観で人間心理を考えることはまずありませんが、精神医学領域においては、正にDSM-ⅣやICD-10などの診断マニュアルに沿って精神の病理性や異常性の診断を下す事そのものが薬物治療や職業活動と密接に関わっています。
精神の健康と疾患の境界線、あるいは、正常と異常の境界線というものが何処にあるのかは非常に微妙で難解な問題ですが、基本的に、精神医学では自傷他害の危険性がない個人に対して精神疾患の診断や正常と異常の判断を行う事はありません。
また、客観的で中立的な見地から精神の正常と異常を区別する事は不可能であり、一般的に、精神の正常と異常の境界線は個人が所属する共同体の常識感覚(社会規範・伝統文化・習俗慣習)からの逸脱度(ズレ)に大きく依存する相対的なものです。
あるいは、統計学的処理に基づく平均的な人格像や心理状態から大きく離れている状態や社会構成員の大多数が支持する基本的価値観や主観的選好から逸脱している状態を、相対的に比較して精神障害や精神異常というカテゴリーに分類しているに過ぎないとも言えます。
こういった平均的価値観や常識的価値観を重視して、そこから大きく逸脱する人を何らかの社会的装置(病院・監獄・矯正施設)や社会制度で隔離し排除しようとする近代資本主義社会の構造的メカニズムを解明する知の考古学を行ったのがミシェル・フーコーです。
フーコーの『狂気の誕生』で指摘されている近代国家の精神医療を生み出した権力構造とは、『国力の増進や強化につながらない異質性を有する個人の排除あるいは共同体の存続維持を妨げる異質性の隔離』でした。
現代では、随分と精神医療分野における重篤な精神病患者の治療や待遇が改善されてきて、人権意識は飛躍的に高まっていますが、一般社会では未だに根強い精神疾患(精神障害)に対する誤解や偏見が残存していて、うつ病や統合失調症等の精神疾患に罹患したことをカミングアウトすることが社会的経済的不利益を招くことが少なくありません。
フーコーが看破した近代の資本主義社会における精神の病理性の誕生とは、『貨幣価値に換算される労働生産性』と密接に関与しています。
精神医学や社会学的な内容を取り扱う近代以降の哲学に関心がない人に、精神に関する問題の偏見や誤解が時折見られるのは、“近代社会の中心的価値観に盲目的に規律訓練されていること”が多いからかもしれません。
しかし、近代社会の基本的構造の中に生きている私達が、その資本主義的経済システムが産出する中心的価値観から完全に自由になることは当然不可能であり、盲目的に社会規範を規律訓練されていない批判的な個人であってもその価値判断の序列の大部分を受け容れて生きている事には違いありません。
その近代社会の中心的価値観とは、『社会内存在としての有用性と生殖性を評価する価値観』であり、その価値観を根拠付けるものは共同体の存続維持と発展繁栄に貢献するものを善とし貢献しないものを悪とする伝統的な共同体倫理です。
そして、近代社会における共同体(国家)の存続と発展は、経済的な成長発展とほぼ同一のものであると認識されていて、国民の労働力や生産力が国家の財政的基盤を支えています。
その為、市場経済活動を行う近代社会に生きる国民の大部分は、『経済活動を行う能力がある個人』を平均的な人間像あるいは一人前の人間像とする価値観を共有しています。
この有用性と生産性を正常の基準とする価値観を持つ事そのものは、社会的責任や義務を遂行を促進する作用を果たすので一概に悪いとは言えないのですが、問題は、無意識的にその価値観を内在化させ『相対的な価値観ではなく絶対的な信念』に変質させてしまう地点において差別や排除の形をとって発現してきます。
ある社会や共同体における価値観には、アプリオリ(先験的)な普遍性や絶対性が保証されているわけではないという事実を忘却してしまい、近代社会における有用性と生殖性の価値を普遍化させ自明化させてしまった時に、“貨幣価値に換算される労働生産性の有無や国力に還元される生殖可能性の有無”が正常と異常の境界線を克明に描く可能性が生まれます。
様々な生活場面で聞く事のある過激な罵倒や暴言として、『あいつはキチガイだ。常識が通用せず、頭がおかしい。あいつは役に立たず無価値だ』といった発言がありますが、この発言は自らの価値体系が圧倒的マジョリティの側に帰属している常識である事を普遍化の条件だと錯誤することから生まれる発言でもあります。
歴史的淵源や倫理的根拠を系譜学的に探求すれば、人間社会に存在する如何なる価値体系もアポステリオリ(後天的)な相対的な構築物であり、人為的な恣意的選択によって社会に適用受容されてきたものである事が分かります。
しかし、人間社会の価値体系や価値序列が相対的であっても、全てが不完全なものであるから価値がないと判断するのは早計であり、自分自身の人生を生きるに当たって自らが生きる意味や価値を実感できるような価値体系を行為規範とのバランスを取りながら築いていかなければなりません。
即ち、“社会的存在としての自己の有用性と生産性”と“実存的存在としての自己の生の意味と価値”を同時に探求していくところに、『正常・異常』『優等・劣等』といった二分法的思考を越えた人生の深遠な価値体系が開けてくるという事です。
カウンセリングの人間関係や実施目的の話題からフーコーの系譜学的研究による近代社会論の異質性の排除へと話題が逸れましたが、カウンセリング理論や技法にも個別の健全な精神状態や人間像があります。各種理論の健康観や人間観についても、近い内に考えてみようと思います。
元記事の執筆日:2005/04/22