心理学、殊に人間の人格特性や性格類型、精神の病理性、社会的な精神発達過程などを必然的に取り扱わなければならない臨床心理学や心理療法は、人間観や世界観といった主観的な価値判断の影響をある程度受けざるを得ない。
心理学の中で最も客観性と検証性の高い科学的な分野は、実験心理学や認知科学の分派である認知心理学であろうが、それらは人間の精神障害や心理的問題の解決や回復に直接的に貢献することは出来ない。
自然科学は、現象や事物の測定・検証を行って一般法則や説明理論を組み立てる事を目的とし、“良い・悪い”“好き・嫌い”といった価値命題を基本的に取り扱いません。
その為、自然科学的領域に属する心理学では、精神障害の病態の現象学的記述や心理療法の技法の生理学的な効果測定はできても、ある精神状態や人生の生き方が、他の精神状態や生き方よりも健康的であるとか望ましいといった価値付けをしません。
つまり、自然科学的な心理学にとって、ある精神状態や人生過程が社会規範に逸脱しているか否かは考察対象ではありません。
しかし、精神科医や心理療法家などの多くは、ある人間関係のパターンや精神疾患の状態が、経済的不利益や社会的損失につながる恐れがあるからそれを改善してあげたいという問題意識や熱意を持っているものだと思います。
治療・支援・援助といった目的を有する心理療法理論やカウンセリング理論などは、そういった主観的な価値判断である『理想的な人間像』『健康的な精神状態』というものの影響を多かれ少なかれ受けている事になりますが、どのような人間観や世界観を持っているのかは各理論によって異なってきます。
各心理療法の基本的人間観
来談者中心療法の人間観(カール・ロジャーズ)……人は、現在よりも成長しようとする“実現傾向”を本来的に有していて、受容的で共感的な人間関係を築く事ができれば、人間は困難や障害を克服することが出来るとする肯定的な楽観主義に根ざした人間観。『性善説』に分類されるような人間本性の肯定的解釈の特徴を持っている。
行動主義の人間観(ワトソン、スキナーなど)……生まれたばかりの人は、ジョン・ロックが述べたような白紙状態(タブラ・ラサ)にあり、人間の行動・感情・思考・価値観などは後天的な学習活動によって身に付けられるとする環境決定論の趣きの強い人間観。
人間の先天的な本能や遺伝的な気質の影響を低く評価して、人間の人格や行動は後天的な環境条件によって規定されるとする。人間の本性が善であるか悪であるかを考えず、人間の中立的な態度を持っている。
心理学的な実存主義の人間観(フランクル)……人間を“意味を志向する存在”として捉え、決定論的運命を否定して、自己の自由意志による選択と決断によって人生を切り開いていく事を重視する人生に対する意味付けに基づく人間観。
この世界や自分の人生には本質的な意味がないという虚無主義の陥穽を回避して、主体的な世界への働きかけによって“主観的な意味や価値”を創出するところに人間固有の生存形式である実存の意義があると考える。
精神分析の人間観(フロイト)……人間は、生得的本能や性・攻撃の衝動性(リビドー)に突き動かされる存在であるが、生後の親子関係や社会環境での経験を通して、善悪を分別する倫理判断や社会規範を身に付け他者を尊重することが可能となる。
人間は“欲求を充足させる本能的存在”であるとしながらも、精神の発達過程を通して自我を成熟させることで、現実原則(法・倫理・人間関係・習慣)に従って欲求を充足させられるようになるとする『欲望の充足と抑制』に基づいた人間観である。
精神分析から分派して独自の心理学を構築した人に、アルフレッド・アドラーやカール・グスタフ・ユングがいる。
個人心理学を提起したアドラーは、人間の本能的欲求としてフロイトのリビドーに代えて“権力への意志”を配置した。劣等感の補償という意味付けもある他者への部分的な優越を求めて、人間は苦悩し試行錯誤しながら自らの存在意義を打ち立てていく。
分析心理学を創始したユングは、“意識と無意識の調和・統合”こそが人間の精神生活の枢要であると考え、自分固有の充実した人生を模索する“個性化(自己実現)の過程”を重視した。
上記した各心理学派や心理療法における人間観は、どれが正しくてどれが間違っていると客観的に判断することは出来ない主観的な信念や選好(好悪)に基づくものである。
人間観とは、『人間をどのような本性や意義を持つ存在と認識しているか?人間とはそもそも何か?』という生きていく上で誰もが直面せざるを得ない根本的な認識である。
それぞれの人が自らの経験と知識によって作り上げていく人間観は、一度決まったらもう変わらないといった固定的なものではなく、絶えず移り変わっていく可変的なものである。
また、日常生活を送る中で人間観は、明確に言語的に了解されているわけではなく、他人に説明できるような理路整然とした形をとっているわけでもないだろう。 しかし、私達は、無意識的な選択や判断であっても、自分が好ましく感じる相手と関係を深め、自分が嫌悪や軽蔑を抱く相手から離れようとするし、人間としての尊厳や価値に基づいて善悪を分別しようとするものである。
その無意識的な選択や判断の中には、必然的に今までの人生で培われてきた自分固有の人間観が包含されていて、『人間とは~というものである』といった認知のフレームワークが構築されているのである。
特に精神疾患や心理的問題に懊悩している人やその回復を援助しようとする人にとって、どのような精神状態や行動傾向を持つ人間が望ましいのかという基本的人間観は大切になってくる。
何故なら、カウンセリングや心理療法を受けている人にとって、『現在の自分の心理状態や生活状況が好ましくない(苦痛を感じる)から変わりたいという動因』を改めて認識する話し合いそのものに、人生の方向感覚の喪失やアイデンティティの混乱を改善する効果があるからである。
しかし、既に述べたように、人間観は固定的なものでもないし形式的なものでもない。故に上述したような過去の心理学者や分析家の理論体系に基づく人間観を無批判に受け容れる必要もないし、“正しく善い人間であらなければならない”という教条的な道徳的人間観に必要以上に束縛される必要もない。
様々な他者との出会いや直面すべき課題の克服を通して、主観的に認識される他ない人間観は多種多様なバリエーションの様相を見せるだろう。
自らの流れゆく人生の過程の中で、自分が生きている事実を肯定できるような人間観を構築できる時もあれば、生きている事実を悲観的にしか捉えられないようなネガティブな人間観に支配されてしまう時もあるかもしれないが、そういった人生に対する態度の揺れや心理状態の波は誰にでもある当たり前の現象である。
そして、『私とは何か、人間とは何か』という本質的な問いには、唯一の正しい答えなど用意されていないところに人生の面白さや人間の可能性があり、苦悩と安楽、悲観と楽観の絶えざる交錯は人間の生の本質でもあるのではないだろうか。
元記事の執筆日:2005/04/30